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ドストエフスキーが自分を発見した最初の作品は紛れもなく「地下室の手記」だろう。しかし、その前に片付けておくべき問題を先に片付けておこう。
当時のロシア社会がどのような社会であったかは想像するしかない。しかし、それはおそらく、ドストエフスキーがそうであったように、また左翼勢力が秘密サークルを持っていたように、極めて狭隘で観念的だった世界が考えられる。観念的…ドストエフスキーが描いている世界と近代の小説の世界との決定的な違いはここにある。ドストエフスキーにおいては、観念は物の段階へと身を落とした。そこではバフチンも言うようにイデーそのものが登場人物である。いや、この時、観念というものが、もはや、それぞれの段階において、物質化して、そしてあたかも物のように交流していると言ってよい。かつての近代世界では、人は、生活や恋愛や、ちょっとしたいざこざや野心の為に身を滅ぼしたり、また幸福になったりしたのだった。しかし、今や、そうした様々な出来事は、ドストエフスキー的世界では大した意味がない。それらは、観念よりもはるかに低い次元に置かれる。極端に言えば、ドストエフスキーの小説における恋愛とは、自分自身を裏切らなければいけない宿命に駆られるから、恋愛相手を裏切ったり、また自分が相手の事を好きでもなんでもないからこそ、だからこそ、自らを試すかのように相手に言い寄る、そのような劇なのである。ここで、彼らはいずれも、自分自身と分裂している存在なのだ。彼らが相手と話している時、対話している時でも、その時でも、彼らは常に自己と二重の対話を繰り広げているのだ。
カラマーゾフの兄弟のラスト近い場面で、イワンとスメルジャコフが対決する場面がある。この時、スメルジャコフは逆説的な言葉で、イワンの命令によって自分はイワンの父ドミートリイを殺したのだとほのめかしている。だが、イワンにはそんな覚えはない。イワンはそんな殺人の命令などした覚えはない。彼は激高し、そしてスメルジャコフを罵る。しかし、そうしながらも、イワンの内には疑念が兆す。ーー本当は自分が殺しを命令したのではないか? 本当は無意識の底で自分は父親の死を願っていたのではないのか? その疑念は強く、イワンは次第に精神錯乱に追い込まれる事になる。
もし、イワンが体育会系の朗らかな人間なら、スメルジャコフを一発ぶん殴って、それで終わっていただろう。しかし、今やイワンは分裂した人間だ。彼は言っている事と、彼の存在の核ーー無意識とが分裂している。そしてその分裂を誘発したのは紛れも無くスメルジャコフだ。スメルジャコフはわざと、イワンの言葉を逆に受け取り(あるいはそのまま受け取り)、そして犯行に及んだ。しかしスメルジャコフはイワンが実は殺しを願っていなかった事も知っていたのかもしれない。…確かな事は殺したのスメルジャコフであり、イワンの兄ミーチャではないという事だけである。しかし、イワンは悩む。彼はここで分裂しており、スメルジャコフは、全てが裏返った存在である。そしてこんな登場人物、こんな会話はそれまでの小説には当然、なかった。そして、この小説の根本形式を引き継いだのは実は、ジョージ・オーウェルの「1984年」である。話が脱線するかもしれないが、次にその事を書こう。