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 僕は当時のロシア社会についてほとんど知らない。当時、ロシアは農奴制から解放され、そして過渡期にあった事。そして、封建的な過去の世界から、西洋化する流れで、そのロシア的な情念、極端なものへの傾斜が表面に現れ、ロシア革命が起こり、そしてスターリンによるソ連が始まったという事。それは知っている。だとすると、プーシキンからドストエフスキーあるいは、チェホフ辺りが活躍した時代というのは、近代以前的なものから、西洋が流入し、そして近代の誤謬を全て寄せ集めたような社会主義に至るまでのその道程にあたっている。彼らは変革期を生きたのであり、その混乱の只中に身を置いていた。


 しかし、今、僕が考えるのは、そういう歴史的意義ではない。ドストエフスキーの作品を僕達がダイレクトに理解できる事、そして僕達が、例えば、トルストイよりドストエフスキーの作品をより好むという事(これは単純にその方が一般に人気であるという事)、ここには僕はある種の意味があると思っている。周知のように、トルストイとドストエフスキーではリアリズムの意味が全く違ってしまっている。では、そのリアリズムの違いとは何か。あるいは、こうした社会現実においてのリアリズム、あるいはリアルとは一体、何だろうか。



 地面から足が離れて、空疎な論述に陥る前に、まず、二十一世紀の僕達の現実から確認しておこう。我々の社会はもちろん、当時のロシア社会とは違う。それは全然違う。しかし、ドストエフスキーという人物が極めて観念的であり、倒錯的であったように、我々もまた観念的であり、倒錯的である。ここで、僕はその同一性を考えてみるために、少し妙な例を出してみよう。


 2000年代に出てきたロックバンドに「神聖かまってちゃん」というバンドがある。僕はこのバンドを高く評価している。このバンドの代表曲に「ロックンロールは鳴り止まないっ」という楽曲がある。余り、神聖かまってちゃんに深く言及していても仕方ないので、駆け足でいく事にしよう。その曲の歌詞に、こんな箇所がある。


「遠くにいる君目がけて吐き出すんだ

 遠くで近くですぐ傍で叫んでやる


 最近の曲なんかもうクソみたいな曲だらけさ!

 なんて事を君は言う、いつの時代でも


 だから

 僕は今すぐ、今すぐ、今すぐ叫ぶよ

 君に今すぐ、今、僕のギター鳴らしてやる

 君が今すぐ、今、曲の意味分からずとも

 鳴らす今、鳴らす時


 ロックンロールは、鳴り止まないっ」


 この神聖かまってちゃんの楽曲は、少年がロックンロールに出会って、みすぼらしい、卑小な自分が救われるというような、そういう簡便な物語の延長線上にできている。ロックと出会った少年はやがて自らギターを弾くようになって、そして自らがロックの体現者となって、何事かを壇上でシャウトするに至る。…ここにあるのは、非常にオーソドックスな物語だ。しかし、一つだけ、とても特異で、注目しなければならない点がある。それが「最近の曲なんかもうクソみたいな曲だらけさ!/なんて事を君は言う、いつの時代でも」の歌詞の部分だ。ここで、神聖かまってちゃんというバンドが叫びかける相手、自分というロックを叩きつける相手は、これまでのような単なる聴衆ではない。これまでのように、静的に、おとなしく作品を拝聴している聴衆に向かって音楽を鳴らしているのではない。そうではなく、ここでは神聖かまってちゃんというバンドが叫びかけている相手は、もはや、何もかもを批評し、そしてわかったような顔をしている、そういう動的な聴衆に対してなのだ。そして今やこの動的な聴衆は、作品に対して至上の、王としての力を振るうようになった。そしてまた、ここに神聖かまってちゃんの新しさが現れる。クリエイター達が、人々の「気に入られるような作品」をこぞって作っている時に、彼は一人、人々、聴衆に対して食って掛かったのだ。そしてしかも、その姿勢そのものを芸術作品にしてしまったのだ。ここに、神聖かまってちゃんの新しさがある。


 バフチンの言うとおり、ドストエフスキーの小説において、その登場人物は互いの認識に食って掛かっている。そして、カラマーゾフの兄弟のラストでは、イワンは傍観者たる聴衆に食って掛かっている。僕はこうした事を、神聖かまってちゃんと結びつけるのをこじつけだとは思っていない。問題は、社会がある段階から、モダンからポストモダンに代わったという事ーーーそしてその時、聴衆、観客というものが、静的なものから動的なものに変わったという事である。今や、人々はインターネットを通じて、様々に採点し、批判したり褒めたりしてみせる。そしてそこでは、もう作品よりも、人々の批評の方が、実質的に巨大な力を収めている。しかし、クリエイターの大半はこの現実の変化に気づいておらず、従って、相変わらず、過去のモダンの延長線上で作品を作り続けている。


 例えば、バルザックとか、ユーゴーとか、誰でもいい。そういう自然主義的な作家を考えてみよう。ここでも、バフチンの言葉が効いてくる。バフチンの言う通り、近代の作家らが持っていた観点を、ドストエフスキーの場合においては、主人公が持つに至っている。つまり、それまで作者がしていた事を、今度は小説の主人公が担当する事になったのだ。だとすると、その空白部である、ドストエフスキーの中には何があるか? 当然、これは極めて難しい問題となって現れざるを得ない。


 しかし、その事は今は問わない。後回しにしよう。例えば、誰でもいいがフローベールのような稀有な作家がいるとする。するとこの時、フローベールはある一人の登場人物に、固定された作者の視座から光を与える。すると、その光を受けた面が反射され、そして例えば「エンマ」という登場人物が彷彿として現れるという事になる。大雑把に言って自然主義文学の大義はこの点にあり、そこではリアルな人間をいかに言葉で再現するか、という点に力が注がれている。そしてこの点においては、作者と登場人物は整然とした線で区切られており、結局の所、登場人物は、神のような視点から見る作者にどうやっても届かない存在である。そしてこの時、読者も、この登場人物を、まるで井戸の底で踊っている人物を見るかのように見るのである。つまり、それはあくまでも傍観者的な立場であり、登場人物はどうやっても、作者の神の視点にたどり着く事ができない。


 しかし、ドストエフスキーはどうだろうか。ドストエフスキーの小説を読むと、僕達はその急流の中に飲み込まれてしまう。一人一人の意識の中に揉まれ、そのカオスの中の一つの一分子となってしまう。ここには一体、どんな技法があるのか? どうして、ドストエフスキーの小説において僕達は落ち着いた傍観者たる立場に落ち着いていられないのか?

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