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夜毎に開く水中花  作者: 港
3/11

 同僚への恨み言はごまんと浮かんだが、結局、私にそれを表に出す勇気はなかった。

 「ありがとう、仕事終わった後なのにごめんね」などという軽いメッセージに相応しい返事を考え、意味のないスタンプだけを送る。

 あれだけ学生で溢れていたファストフード店は、私が仕事の話に夢中になっている間に、どこか疲れた社会人たちがまばらに見える程度になっていた。


 大抵の場合、気まぐれで起こした行動は後々の後悔へと繋がる。

 今の私が、良い例だ。

 素直に最寄り駅まで電車に乗っておけば良かったものを、思いつきで途中下車などしたものだから、必要以上に歩くはめになった。

 コンビニで買った夕食をぶら下げて歩く私は、健康志向などとは遠い状態にある。もはや、当初の目的は一つたりとも果たせていない。単なる骨折り損。誰に文句を言えるわけでもなく、ため息をつく事しかできない。


 明日も仕事だと言うのに、私は何をしているのだろうか。

 すっかり重くなってしまった足取りでアパートの階段を上がる。

 平日は仕事と家の往復。休日は何をしたという記憶もなく、気づけば終わっている。

 学生時代の私が見れば、今の私は大層色あせて見えることだろう。


「放っておいてって言ってるじゃん!」


 ドアの鍵を探していた私の手が、部屋の中から聞こえた声に止まる。

 直後、私が開けるまでもなく勢い良くドアが開き、飛び出そうとしたカナタが私の顔を見て何かを言いかける。

 だが、結局は何も言わないままどこかへ走っていってしまった。


 嫌なタイミングで帰ってきてしまったものだと思いながら、お弁当をレンジで温めている間に着替えを済ませる。

 ハンガーにかけたスーツの背中に汚れが付いている。次の休みには、クリーニングに出さなければいけないだろう。

 部屋着に着替えてテレビの電源を入れると、異国情緒あふれる町並みが映し出された。静かで平和な旅番組。気になりはしたが、残念ながら旅行は私には縁遠いものだ。

 何か面白い番組はないかとチャンネルを回している内に、電子レンジが仕事を終えたと鳴く。

 冷蔵庫から出したペットボトルのお茶をコップに注いで夕食の席に着く。

 色気のない食卓。一人暮らしを始めたばかりの時には自炊にはしゃいだものだが、今となっては手間ばかりを見てしまう。


 低カロリーを謳う、味付けを薄くしただけのような弁当を食べながら、料理が趣味という同僚の事を思い出す。

 一度お招きを受けてご相伴に与ったが、凝っているだけで美味しくないものばかりで、中には失敗もあった。

 好きこそものの上手なれと言うよりも、下手の横好きと言ってもいい。

 それでも、彼女は料理を楽しんでいる。

 そんな彼女を、私は尊敬している。

 私には趣味がない。だから、自ら人生の彩りを選べる彼女を、羨ましく思う。


 味わいもせずに弁当を食べ進めていると、唐突に、テーブルの上で携帯電話が震えた。

 サポートも切れていそうな、古い折りたたみ式の携帯電話。カナタの数少ない私物。

 発信者は、おそらくカナタの両親だろう。

 盗み聞きなどしたことはないが、それでも要件は想像がつく。

 カナタはまだ子どもだ。「友人」の所に居候しているなど、親としては認めたくないはず。仕送りを止めたのも、一度家に帰らせて話をするためだと考えるのが普通だ。

 その意に反して野宿を選ぶなど、まともな人ならば考えもしない。

 今回の事で一番かわいそうなのは、カナタの我儘に振り回されているご両親であるのは間違いない。

 そして、カナタを勝手に保護した私も、相当に迷惑をかけている。


 ふと、謝るべきなのかもしれないという考えが浮かぶ。

 娘さんを勝手に拾いました、夢を後押ししています。申し訳ありません。

 そんな謝罪があるだろうか。いや、そもそも下手なことを言えば誘拐犯と思われるかもしれない。

 一度だけとは言え、カナタと私はお巡りさんに顔を見られ、嘘をついた。状況証拠は揃っている。警察のお世話になる可能性は、十二分にある。


 ゆっくりと、ドアノブが回る音がした。

 もしや本当に警察が、というふざけた想像は、仏頂面のカナタが否定してくれた。

 少しも楽しそうじゃない顔はともかく、靴を脱いでどかどかと足音を鳴らして歩いて来られると、階下の住人から苦情が来ないかと不安になってしまう。


「白峰さん」


 しかし、カナタは私の不安などどこ吹く風とばかりに言った。


「似顔絵の練習がしたいんです。モデルになってくれませんか」


 私が理由を尋ねるよりも早く、床に投げ出されていた鞄から色鉛筆とクロッキー帳を引っ張り出す。

 それらと入れ替わりに、不在着信をランプで知らせる携帯電話は鞄の奥へと投げ込まれた。


「……構わないけど、理由を聞いてもいい?」

「お金が欲しいんです。普通に絵を売るのは難しいけど、似顔絵は軽く稼げるので」


 そんな簡単に行くものではないだろう。そもそも、客を取って似顔絵を描くなんてカナタが嫌いそうな雰囲気すらある。

 言いたい言葉はいくらでもあったが、ひとまずは飲み込み、モデルを引き受けることにした。

 とは言っても、何かをするわけではない。ただ座ったまま、テレビを見ているだけだ。

 ノイジーなバラエティ番組、知らない歌手ばかりの歌番組、気が滅入るニュースを避け、結局、私には縁がないと判断したばかりの旅番組を眺める。


「さっき、ケータイ鳴ってたけど」

「知ってます」


 取り付く島もないとはこの事か。カナタはクロッキーと私の横顔の間で慌ただしく視線を往復させている。

 しゃっしゃと鉛筆が紙の上を滑る音が、やけに大きく聞こえた。

 あの紙の上で、私はどんな顔をしているのだろうか。

 カナタの見ている私は、どんな表情をしているのだろうか。


「……帰るわけにはいかないんです」


 唐突に投げられた悔しさの滲んだ言葉に、思わずカナタの方を向いてしまう。


「あたしには、絵しかありません。それを理解してもらうまでは、お父さんには会えません」


 強い否定。カナタと父親の間には、何らかの確執があるのかもしれない。

 少しだけ、俯いて見えない表情が気になった。

 だが、それ以上に、彼女には絵しかないのだと自覚していることに驚いた。

 思えば、カナタの思想のようなものは聞いたことがない。


「……でも、お父さんは心配してるんでしょう?」

「してますね。過保護な人ですから。だから、話はできないんです。下手な事を言うと、白峰さんにも迷惑かけそうですし」


 狭いアパートに住み込んでいる時点で、というのとはまた別の話なのだろう。

 確かに、警察を介さずに直接「よくもうちの娘を」と踏み込まれるのもまた怖い。


「すみません。ほんとは早く出ていくべきなんでしょうけど。まだしばらく、お世話になりそうです」


 謝罪を口にしながらも、カナタの視線は手元に落ちたまま。

 気にしないでいい、とは言わない。

 きっと、夢を追うには焦っているくらいがちょうどいい。


 そのまま、カナタはしばらく私を描き続けた。

 色鉛筆を置いたのは、時間にして三十分ほど経った頃。

 何ページかに渡って、複数の「私」を描いたらしい。ぺらぺらと捲っていたかと思えば、勢い良くページを破り、他の「私」と並べて比べはじめる。


「……ありがとうございました。ちょっとは、人の描き方を思い出せました」

「そう。役に立ったなら良かったわ」


 ため息を付いてしまってから、随分と緊張していたのだと気付いた。

 自然体でテレビを見ていたつもりだったが、見られ描かれているというのは、やはりどこかで意識してしまっていたらしい。

 妙に疲れてしまった。シャワーを浴びて、早めに眠ろうか。

 でも、その前に。


「……ねえ、良ければ、似顔絵を見たいのだけれど」


 巧拙の判断は置いておいても、せっかくモデルになったのだから、その成果くらいは確かめたかった。

 返事代わりに差し出されたクロッキー帳を開いて、一枚一枚、「私」を探す。

 街、犬、花、川、群衆、空……無差別に描き連ねられたものの最後尾に、それは居た。


 憂いを帯びた女性の横顔。

 細められた目は、何かを哀れんでいるようにも見えた。

 後ろで纏めたセミロングの髪は、おしゃれではなく単に動きやすさを重視しているものだが、どうしてか乱雑さが目立たなくなっている。

 三枚ある似顔絵のいずれも、被写体の美しさを引き出すことに努めたように見える。

 デフォルメを効かせた印象的な似顔絵ではない、カナタらしい綺麗な絵。

 だが、完全に写実的というわけでもない。

 と言うのも。


「ちょっと、美化しすぎじゃない?」


 不完全なパーツの集合体を分解し、一つ一つ整え、あらためて完全な配置で組み立てたような違和感。

 上手い絵ではある。描かれた人は、きっと「こんなに綺麗に描いてもらえるなんて」と喜ぶだろう。

 だが、私の感想にカナタは心外だとでも言いたげだった。


「そうでもないと思いますけど」


 容易く言い捨てて、もういいですか、とクロッキーを私の手から奪い取る。

 私の顔は、鏡で毎日見ている私自身の方がよほどよく知っている。謙遜でも卑下でもなく、正確な評価として、私の容姿は精々が「並」である。

 その私が違和感を抱いたのだから、簡単に納得できるわけがない、が。


「元々綺麗な人ですよ、白峰さんは」


 予想もしなかった言葉をさらりと言われて、流石に面食らってしまった。


「シャワー、借りますね」


 聞き返すこともできず、カナタが着替えを手に浴室へ去っても、彼女が座っていた空間を見つめ続けてしまう。


 驚いた。

 紗矢香もそうだったが、どうして、みんなして私を驚かせるのだろうか。

 私はそんなに肝の座った女じゃない。外面を取り繕うくらいはできるが、すぐに内心では目を回してしまうのに。


 いつの間にかドラマに切り替わっていたテレビ画面に、思考の逃げ道を探す。

 話はまったく分からないが、主演らしき女優が悩みを独白している。

 上品な顔立ち、艶のあるストレートヘア、澄んだ声。綺麗というのは、ああいう人の事を言うはずだ。

 あるいは、カナタから見れば、私もあんな風に綺麗な人に――。


 だめだ、と、独り言が零れる。

 完全に動揺してしまっている。どうでもいいと思っていたはずのカナタから出た、思いもよらない一言に、ひどく心を揺さぶられてしまっている。

 みっともない。子どものようだ。カナタを「馬鹿な子ども」と評しておきながら、私も別の方向で馬鹿になってしまっている。


 何よりも、何よりも困るのは。

 私は間違いなく、カナタに「綺麗」だと言われて嬉しく思ってしまっている。

 自分の妹と同じくらいの子から受けた褒め言葉に、ひどく、ときめいてしまった。


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