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夜毎に開く水中花  作者: 港
2/11

 今の仕事に大きな不満は無い。

 自分と女の子一人を食べさせながら貯蓄していけるくらいの給料は出るし、カレンダーに従った休みだって貰える。

 古い友人と話をするたびに「良い会社に入れたね」と言われるくらいなのだから、私はきっと運に恵まれていたのだろう。

 ただ、安定した日々が私の内に蓄積させるものは、あろうことか、不安だった。


 人間たるもの、何かに情熱を燃やさなければいけない。

 かつての私ならば鼻で笑っていた言葉に後ろ髪を引かれるようになったのは、いつからだろう。

 社会に出て数年。仕事にも慣れて、良くも悪くも余裕が生まれてしまった。カナタを拾ったのも、その余裕のせいだ。

 そこに、紗矢香の事が重なった。

 私の勘違いでなければ、自らの恋について相談する紗矢香は、辛そうで、苦しそうで、楽しそうだった。

 それを、私は少しだけ羨んでいる。

 紗矢香の恋心は、純粋で綺麗な欲求だ。

 私がカナタを求める理由よりも、ずっと。


 思わず自嘲が漏れると、隣に立っていた人に怪訝な目で見られた。

 物思いに耽っていたが、ここは電車内。それも、帰宅ラッシュで人がすし詰めになっている車両。

 押し込めていた不快感が羞恥心によって吹き出すままに、ちょうど停車した駅で降りる。

 あまり利用しない、やけに入り組んだ駅だった。

 案内板を見て外へ出るだけでも一苦労。更に、ここから家まで歩くのも中々手間がかかる。

 まあ、たまにはいい。私もそろそろ健康に気を使う年なのだから、歩いて帰るくらいの努力は。

 同僚が冗談めかして言う「若いのに落ち着いている」という言葉も、良い意味だと受け止めるのは辛くなってきた。

 せめて肉体の健康くらいは保っておかないと。健康診断で再検査なんて事にもなれば、さすがに笑えない。


 適当な理由付けで自分を納得させて、仕事帰りのけだるい体を抱えたまま気まぐれに任せて街をさまよう。

 その間にも、思考は不思議なほどに内面へと向かう。


 上京したばかりの頃は、間違いなく楽しかった。

 大学までずっと地方の住宅街にある実家で暮らしていた私にとっては、一人暮らしも都会の喧騒も、特別な物だった。

 会社の飲み会を終えて夜の街を同僚と歩いた時には、私もいよいよ大人になったのだと感動すら覚えた。

 なまじ真面目な女学生であったがために、猥雑さも、危険も、およそ忌避すべき物ですら好意的に受け入れようとしていた。

 だが、そうして浮かれていたのは短い間だけ。

 人も物も溢れているがその大半は自分とは無関係だと学んだ瞬間、私が抱いていた都会への憧れはモノクロの幻想に変わった。

 慣れたのか、飽きたのか、あるいは、忙しない人々に染まったのか。

 分かっているのは、私がここにいるのは、ただ日々を暮らしていくためだという事。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 唐突に、気鬱に傾きかけていた頭が主導権を手放す。

 鼻をつくジャンクフードの匂い。空腹を訴える体は、無駄な考えでカロリーを使うなと言っているようだった。

 たった今客が出てきたばかりのファストフード店をウィンドウ越しに覗けば、中は学校帰りらしい子どもたちでごった返している。

 テイクアウトにせよ食べていくにせよ、あんなに若い子ばかりの場所は落ち着かない。

 せめて、もっと静かな店を。そうでなければ、自炊でも。


「白峰さん?」


 無用の場所だと通り過ぎようとした所で、背後から名を呼ばれる。

 職場の同僚だったら少し気まずいとは思ったが、幸か不幸か、声をかけてきたのは仕事に関する相手ではない。


「……カナタ」


 パーカーにジーンズというカジュアルな格好のカナタは、道の真中で珍しいものでも見たように私とにらめっこを続けていたが、やがてファストフード店を一瞥して、言った。


「お腹、空いてるんですか?」

「……いや、そういうわけではないけれど」

「あたしは、お腹空いてます」





 学生たちで騒がしいのは一階部分だけで、ファストフード店の二階は静かなものだった。

 かつては、別の店が入っていたのかもしれない。内装は煩雑なイメージのチェーン店らしからぬ落ち着いたデザインになっている。

 窓際の席に座って外を見ていると、ガラスに映ったどこか気怠げな私と目が合った。


「お待たせしました」


 トレイにハンバーガーとジュース、それにSサイズのポテトを載せて、カナタが隣に座る。

 私は間食だけに済ませるつもりだったが、カナタはここで夕食を取るようだ。


 渡されたポテトをつまむと、揚げたての熱さと強すぎる塩気が舌を刺した。

 量を食べるのは不安な味付けだが、カナタが喋らずにハンバーガーを貪っているため、私も適当にポテトを食べて間を埋めるしか無い。

 大きなハンバーガーを押しつぶして、大きくかじり取る。豪快な食べ方から、カナタと自分に数字以上に歳の開きがあるように思えてしまう。


「この近くにあるギャラリーを見に行ってきたんです。あんまり有名じゃない人の抽象画を置いてる、小さい所を」


 唐突に語りながら、カナタは通りの向こうへと視線を投げた。その方向に「ギャラリー」があるのだろう。

 カナタの事だ。自分の絵を売り込んできました、くらいは言い出してもおかしくない。

 だが、絵はおろか財布以外の荷物を持っていないところを見ると、本当に見に行ってきただけらしい。

 私の返事も待たず、カナタは続ける。


「……違う箇所が多すぎて、あたしの絵とは安易に比べられるものでもないんですけど」


 言葉の合間にハンバーガーをあっという間に平らげて、ジュースを一口。

 手についたパンくずを紙ナプキンで拭い、やはりどこまでもどうでも良さそうに、カナタは言い捨てた。


「あたしの絵の方が、上手かった」


 嘘をついているようには聞こえない。強がりでもない。

 この子は、本心からそう思っている。その道で生きている人よりも、アマチュアである自分の方が実力で勝っていると。

 傲慢だ。実績の無い驕り高ぶった子どものセリフだ。

 だが、困ったことにそれを否定する気も諌める気も起きない。


「……そう」


 何の意味も持たない相槌だけを返して、半分以上残っているポテトをカナタに押し付ける。

 礼も言わず、カナタは塩気の強いポテトを数本まとめて口に放り込み、ジュースで流し込んだ。

 がしゃ、と、かさ増しじみた量の氷が崩れる音が面白いほど大きく響く。


「でも、それでも」


 話は終わったと思ったが、違うらしい。

 むしろ、ここからが本題なのだと、カナタの声色が告げていた。


「あたしの絵は、売れないんですよ。面白いですよね」


 明確な自虐。

 気持ちは分からなくもない。

 画家として大成するためになりふり構わず必死になっているが、裏を返せば、カナタには望んだ道以外を拒むほどのプライドがある。

 その土台にあるものは、自分には夢を叶えるだけの力があるという自負。

 だから、自分より劣ると判断した相手の成功には、耐え難いものがあるのだろう。


 つくづく、面倒で歪んだ子だと思う。

 そして、それが少しだけ哀れにも思えた。


「……私は、カナタの絵を買った。綺麗だと、良い絵だと思ったから」


 私には絵のことなど分からない。技巧を拾って褒めるには知識が不足してる。

 そんな私が選べる褒め言葉は、口にしてみると驚くほど薄っぺらく、軽い。


「だからまあ……気長にやってれば、少しずつは売れるんじゃない?」

「気長に、ですか」


 精一杯の励ましをしたつもりだが、カナタは浮かない表情のまま、氷しか残っていない紙コップを揺らしていた。

 今まで機会がなかったが、紗矢香の件といい、私は人の相談に乗るのが下手なのかもしれない。

 釣られて気分が沈みそうになっている私の気持ちも知らず、カナタは小さくため息をつく。


「時間は有限なんですよね。白峰さんのお世話になり続けるわけにも行きませんし」


 家出少女が言うセリフではないが、それを追求すれば拾った私の行動に矛盾が生じかねないので黙っておくことにした。


「……芸術って、どういう物なんですかね」


 どこか哲学的な話へと展開しそうになった所で、スーツのポケットに入れていたスマートフォンが着信を知らせた。

 指紋認証で画面のロックを解除するなり表示された同僚からのテキストメッセージに、顔をしかめる。

 繰り返しになるが、私は決して今の仕事を嫌ってはいない。それでも、業務時間外に仕事の話を投げられるのはあまり良い気分ではない。

 かと言って無視をするには、私は会社内での立場に気を使いすぎている。


 ポテトの油で汚れていない方の手で返信を打っていると、がたん、と音を立ててカナタが席を立った。


「先、帰ってますね」


 ゴミとトレイを片付けたカナタは、引き止める間もなく階段を降りていく。


 ひねくれ者の同居人が悩んでいることくらい、私にだって分かる。しかし同時に、その悩みが私の言葉で簡単に解決できることではない事も、分かっている。

 だから、引き止めはしない。素人の的はずれなアドバイスを聞くくらいなら、一人で考える方がよっぽど有益な時間になる。

 テーブルに身を乗り出して窓の下を覗けば、両手をパーカーのポケットに入れて去っていくカナタの後ろ姿が見えた。

 その後ろ姿に、私が追いかける事を期待している気配は、微塵も見えなかった。

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