一
「好きな人ができた」
一年ぶりに会った妹は、懺悔でもするかのような面持ちで、しかし躊躇うことなくはっきりと言った。
昼下がりのファミリーレストラン。まばらな客たちは各々のテーブルで交わされる会話に夢中で、私達の話を盗み聞きする余裕もない。
それでも、私は少しだけ声量を控えめにして答えた。
「……良いんじゃない。紗矢香だってもう大学生なんだし、少しくらいそういう事があっても」
的を外れた返答であるとは自覚していた。正面に座っている妹――紗矢香が俯いたまま話を続けようとしない事からも、私のリアクションは紗矢香の望んだものではなかったという事が伺える。
「えーっと、同じ大学の?それとも、バイトが同じとか?」
息苦しい沈黙を誤魔化すために、浮かんだ疑問を適当に投げかける。だが、紗矢香は何の反応も示さない。
いずれ消える事が見えている一過性の恋心ならばともかく、わざわざ「相談したいことがある」などとメールを寄越すくらいなのだから、相当真剣な悩みなのだろう。
ドリンクバーで入れておいたオレンジジュースで喉を潤し、思案を続ける。
もしや、何か言いづらい事情でもあるのか。横恋慕などとなれば、私にできるアドバイスは無い。
お待たせしましたという言葉とともに、店員がバニラアイスの添えられたコーヒーゼリーを私と紗矢香の前に置いた。
放っておいて溶かしてしまうのも嫌なので、とりあえずアイスをスプーンで削いで舐めるように味わう。シャーベット状になったバニラアイスは、ただただ甘かった。
「駅前で、よく見る人なんだけど」
私の意識がアイスへと逸れた一瞬を見計らったように、ようやく、紗矢香は口を開いた。
元々、必要以上に気を使う子である。一言一句逃さず聞こうと身構えていたが、私のその姿勢は、紗矢香にすればかえって話しづらかったのかもしれない。
表向きはアイスに気を取られているように、どうでも良さそうな態度で「うん」と相づちを打つ。
「大学の帰りに……あ、その人は同じ大学じゃなくて……でも、駅に居る時間が同じで。それで、何度か見かけてる内に、なんか、気になって。気付いたら、探すようになって……」
途切れ途切れの言葉は、本人の動揺が表れているのだろう。
私も決して恋愛経験が豊富ではないが、誰かを好きになった事くらいはある。
初めて男の子を好きになったときには、無意味にベッドの上で唸っていたりしたものだ。
私が勝手に思い出を懐かしんでいる間にも、紗矢香は続ける。
「名前も、何してる人なのかも知らないし、話したことだってないけど……たぶん、好き……なんだと思う」
聞いてみれば、なんとも可愛らしい話だった。
つまりは、一目惚れ。私の憂慮していたような状況では無いことに安心する。
悩んでいる紗矢香には悪いが、そこまで身を入れて共に悩むほどの問題ではない。
「どんな感じの人なの?気軽に話しかけられそうなタイプ?」
コーヒーゼリーとバニラアイスを一緒に口に放り込み、あくまでも軽い調子で尋ねる。
紗矢香がどんなタイプの男性を好むのか、私は知らない。姉妹仲は悪くないが、恋愛話に花を咲かせるには、紗矢香は少しおとなしすぎた。
だからこそ、私は今の状況をどこか楽しんでしまっている。妹と二人で女の子らしい話をする事に、ずっと憧れていた。女の子、と呼ぶには、私は既に少しばかり歳が外れてしまっているが、それでも、だ。
「分かんない……でも、おとなしそうな雰囲気だった。なんか、大きいカバン持ってて……やっぱり、ちょっと、近寄りづらいかも」
そんな人をどうして、とは気になるところだが、理路整然とした説明ができるのならば、紗矢香だってわざわざ私に相談したりはしていないだろう。
理由については、「人を好きになるとはそういうものなのだから」とひとまず置いておく。
「なんにせよ、接点作らなきゃどうしようもないよね」
空っぽになったコーヒーゼリーの器にスプーンを置くと、からん、と澄んだ音がした。
紗矢香は未だゼリーには手を付けていない。溶け出したアイスがゼリーの麓に白い円を描き始めている。
「と言っても、何の関わりもない男の人に話しかけるなんて、紗矢香には無理だろうし……」
私の知る限りでは、紗矢香が異性と付き合っていた事など無い。男性に何らかのトラウマがあるという訳でもないだろうから、ただ単純に臆病な所が人付き合いに大きく影響しているだけなのだろう。
さて、ではどうしようか。相談に乗ってはみたものの、私自身、口が裂けてもコミュニケーション能力があるなどとは言えない。
それでも可愛い妹のためにどうにか協力してあげようと、アイスの糖分でいくらか回転が良くなった思考を続けていると、不意に、紗矢香は首を横に振った。
「……違うの」
「違う?」
何が、とまで言うよりも早く。
紗矢香は、羞恥と困惑が入り混じったような、複雑な顔をして、言った。
「……好きになったのは、女の人なの」
帰路を辿る私は、冷静ではなかった。
驚いた。大層驚いた。あの後、どうやって紗矢香と別れたのかも曖昧になってしまっているなほどに。
思考は乱れて、目や耳から入ってくる物が全てワンテンポ遅れて意識にたどり着く。借りているアパートの前をうっかり通り過ぎてしまったのも、そのせいだ。
ポケットの中に入れた鍵を指の感覚で探り当て、ドアの鍵穴にそれを刺す。
鍵は、思った方向には回らなかった。
驚きはしない。慣れている。
ドアを開けると、静かなワンルームの中で、鉛筆を削るしゃりしゃりという音だけが響いていた。
私が靴を脱ぐと同時にその音は止まり、足の短い折りたたみテーブルに向かっていた少女が振り返る。
「おかえりなさい」
乱雑に短く切られた黒髪と、眠そうな目。
深山カナタは、今日も変わらず気だるそうな顔をしていた。
ただいま、と答えながらベッドの上にバッグを置いて、カナタの対面に腰を下ろす。
潰れた安物のクッションは、ファミレスの席よりも座り心地が悪い。
「今日は、絵、売れた?」
「だめだった」
「そっか」
私の質問に、カナタはとても簡潔な言葉を返す。私もそれ以上は聞かない。
安物の四角いテーブルの上にはティッシュが敷かれ、色とりどりの鉛筆の削りかすが積み重なっている。
今更、ナイフで鉛筆を削る人がいるなど思っていなかった。
何度目かも分からない感想を抱きながら、色鉛筆を削るカナタをぼんやりと眺める。
この女の子に出会ったのは、一ヶ月ほど前の事。
駅前でカナタが売っていた絵に、私は一目惚れをした。
パステルカラーで描かれた儚げな世界。姿すら曖昧な名も無き生き物たちが海中で戯れる、夢と現の境界。
もしかしたら、残業ばかりの日々に疲れていたのかもしれない。
仕事帰りの私は、ふらふらと引き寄せられるように、ブルーシートの上に並べられていた絵に近づいた。
後でカナタに聞いた所によると、「いきなり目の前にしゃがみこんだと思ったら、じっと絵を見てきて怖かった」との事だが、私にはそれくらい、カナタの絵が魅力的に見えていた。
結局、その日は絵を一枚買って帰った。
冷蔵庫に入っていた余り物で晩御飯を済ませ、テーブルの上に置いた絵を見つめ続けている内に眠ってしまい、夢を見た。
クジラに似た生き物が空を泳いでいた。
砂の上に立っていた私は、それを見上げて何事かを叫ぼうとして、溺れた。
世界は海水で満ちていた。
どうやら私はこの世界で最後の人間らしいなどと思いながら息絶えて、夢は終わった。
次にカナタを見たのは、それから数日後の仕事帰り。
やはり駅前に居たカナタは、お巡りさんに「それは困ります」「お願いします」と何事かを必死に頼み込んでいた。その表情があまりにも必死だったためか、気付いたときには、私は助け舟を出していた。
旧友だと言って駆け寄り、事情を聞き、「路上で寝泊まりしていた」という話にぎょっとした。治安の良い街とは言え、女の子がホームレス生活など、何が起こってもおかしくない。
今にして思えば、考え無しだった。
ただ、「この子がここからいなくなったら、絵も見られなくなる」と危機感を覚えて、「とりあえず今日は私が預かりますから」とお巡りさんを説得した。
終始怪訝そうにはしていたが、それでもどうにかお巡りさんを信じ込ませることに成功したあたり、私もなかなか芝居上手だったようだ。
その後、私はなし崩し的にカナタの事情を聞く事になってしまった。
通っていた専門学校をやめたこと。両親にその事で叱られたため、今は連絡を取りたくないということ。仕送りを止められたせいで、住んでいたアパートの家賃が払えなくて追い出されたこと。
そして、画家を目指しているということ。
馬鹿な子どもだと思った。もっと言えば、幻滅した。
私の心を揺さぶるような絵を描いた少女の人間性は、こんなにもろくでもないのだと。
夢ばかりを追いかけて、現実を見ようとしない、愚かな夢想家でしかないのだと。
それでも、私はカナタを見捨てなかった。
自力で生きていけるようになるまで、あるいは両親と和解するまではここを住処にしていいと、庇護下に置いた。
理由は簡単。
私は、カナタの絵を欲している。
それだけは、本人の性質を知っても揺らがなかったから。
カナタはいつか大成する。それが、不思議な確信となって私の中にあり続けるから。
間違いなく、彼女の絵を理解してくれる人は存在する。ならば、必要なのは知名度と運。
そして、カナタは自分が売れるための努力を続けている。
毎日絵を描き続けて、売れなくとも路上に並べて、目についたコンテストに応募して、「絵でやっていけるようになるまでは、みっともなくていい」とまで言っているくらいだ。
その努力が実を結ぶ日は、必ず訪れる。
だから、私は今のうちに恩を売る。
打算的な執着。それは否定しない。
でも、私が欲しいのは、絵だけだ。社交性が欠けた、家出をしてふらふらしているような少女の心は必要ない。
カナタが私に多少なりとも恩を感じて、それをカナタが唯一持っている「物」で返してくれれば、それでこのぎこちない同居生活はおしまい。
「妹さん、元気でした?」
鉛筆の尖り具合を確かめながら、カナタは私に尋ねる。
深い意味なんて無いのだろう。ただの気まぐれだ。
「元気だったよ」
「そうですか。良かったですね」
会話は続かない。
当然だ。私は、必要以上にカナタに歩み寄るつもりなんて無い。
言葉には出さない。でも、カナタも分かっているはず。
互いを利用しながらの我慢比べ。
私達の関係は、そんな薄っぺらい物だと。