参ノ幕 雨天防衛線2 鎖の音
美烑はしばらく炬香を見送ってから男を振り返る。このやり取りの間、不思議な事に男は攻撃してこなかった。
「えっと……、待っててくれてありがとう……?」
「我が武士道に不意打ちと言う文字はない、それだけだ。……時に、あの妖は少女の眷属か?」
「けん……何?よくわかんないだけど……、それとっ!『妖』じゃなくて『炬香』ちゃんだよ。変な名前で呼ばないでよ」
「ふむ……独立したひとつの存在、ということか。それで狐の少女、名は?」
「美烑、『従五位豊穣明神美烑御前』だよ」
「……長いな」
「む……、それであなたは?」
「そうか……まだ名乗っていなかったか?」
「聞いてないよ。いきなり人間の首飛ばし始めたじゃない」
「名乗ったのはあの天幕の中だけだったか。
では改めて名乗ろう、武蔵七刀が一刀・丹刀、加治把音、通称鎖刃の把音だ」
「長いよっ!ちょっと予想してたけど、予想していた以上に長いっ!」
鎖の男――把音は薄く笑うと鎖刀を構える。
「名乗りは済んだ……。決闘を始めるとしよう。鎖刃の把音、いざ尋常に参る」
「美烑御前、受けて立つ。疾く来ませいっ!」
把音の放った鎖刀は一直線に美烑の眉間へ。
「ふんっ!」
美烑はこれを素手……正確には爪で事もなく弾いた。
しかしその真後ろにもう一本の鎖刀。炬香の岩を割ったときと同じく、縦に並んで飛んできたのだ。
美烑は眉間に迫る2本目を見据え、頭を引き、上体を反らし、後ろへ宙返りして回避した。さらに着地と同時に大地を蹴り、把音めがけて飛び掛る。
「ほう……、今のを回避するだけでなく反撃まで行うか」
呟いた把音は鎖刀を操作。美烑の眼前に格子状に行き来させ、即席の鎖帷子を生み出す。
「こんなものっ!」
鎖目がけて振り下ろした美烑の手は、軽く押し返されただけであっさりと貫通。
「え?」
「しかし、浅はかだ」
破れた鎖帷子の向こう側から刀本体が飛び出した。顔に向かった一本は強引に首を反らして、頬から顎の付け根を薄く斬られるにとどめる。
腹へ向かっていた一本も手で押すことで軌道を反らすことには成功したが、その切っ先は美烑の太腿をとらえていた。
「ああああっ!!」
バランスを崩し、ずしゃあと音を立てて大地を転がった美烑は直ぐに跳ね起きた。
「はぁっ、はぁはっ、っはあっ、はぁっ」
しかし、息が荒い。傷つけられた傷はすぐに癒えたものの、だいぶ体調が悪化してきている。
もともと炬香のほうが攻撃力はないものの、機動性には優れている。ある程度の負傷も気にしなくていいほどの頑強さこそが美烑の強さなのだが。
今はそれも怪しい。
「ふむ……。さっきの――『炬香』だったか――あの娘もそうだが、一撃でここまで弱体化するとは、……どうにも期待外れだな」
「っはあ、っはあはっ。それはっ、悪かったっ、ねぇっ、……ふぅ」
美烑は少しフラついているもののちゃんと前を見据えて息を整えた。
「あなたは、……なんか変」
「どういう意味だ?」
「殺気はあるのに、他の人間みたいにあたしを倒すことに執着していない感じ。全然真剣勝負している気がしないだけど?」
「君が素手だからでは?」
「とんちじゃなくてっ!」
美烑はちょっとむくれた顔になる。一方の把音の方はまだまだ戦えることへの喜びの表情。
「もういいや、じゃあ次はこっちからっ!」
どん、と地面を脚で踏むと美烑の周りに火柱が立ち、その頂に拳大の岩が生まれた。時間と共に大きくなる。
「これならどうだっ!『灼熱狂いの殺生岩』」
できあがった火の玉……もとい、火炎に包まれた岩が二つ、白い尾を引きながら把音に向かって飛んでいく。
「なるほど……確かに私の鎖刀では受け止められるものではないな。だが」
把音はひょい、と横に移動してこれをかわした。
「ああっ!避けたっ!」
「当たり前だ。まともに受けきれないのなら、回避するのが上策。まして、単純に真っ直ぐ来るだけの攻撃など……」
そこで把音の背後からしゅわしゅわという音が近づいてくるのが聞こえた。
それは炎に当たった雨が蒸発する音。
「もう一回行くよーっ!」
美烑がどん、と地面を踏むとさらに2つ岩が生まれ、把音に向けて飛んでいく。
合わせて4つ。
「ようやく……面白い」
把音は美烑に向かって走り出した。
しかしそれは美烑を攻撃するためではない。タイミングをずらすためだ。
把音の持つ刀は2本。対して向かってくる岩は4つだ。捌くには手数が足りない。鎖の部分も使えないことはないが、さすがに大きな岩を防ぎきるほどの力はない。
故に前に走ることによってタイミングをずらし、2つずつ相手をする。
「ふんっ!」
ガィンキィィン
さすがに一撃で砕けることはないが、2度3度と攻撃すればいかに大きな岩とて砕ける。
「次ッ!」
あっという間に正面の岩を砕くと後方へ向き直る。次は戻ってきた方の殺生岩だ。
「多方面同時攻撃は有効な手段の一つではある。だが、軌道が単純であることに変わりはない」
把音は淡々と岩を砕いていく。ふと美烑のほうを見ると、居ない。
「ふあっ!!」
把音が岩の対処をしているうちに美烑が肉薄、真下から鋭い爪を振り上げた。
「うっ!」
体を反らすことでこれを回避した把音は、自分と美烑の間に鎖を這わせる。それをぴんと張ることで美烑を弾き飛ばした。
「ぐっ、惜しい。あとちょっとだったのに、ふぅ……ふぅ……」
美烑は空中でくるりと一回転。何とか踏みとどまるが、肩で息をしているのを隠せない。
「ふん、ああ驚いたぞ、少女。まさか君からの攻撃を受けるとは」
殺生岩の破片を振り払った把音の左肩、服の一部が破れている。
「これで1勝1敗。仕切りなおしだね」
美烑はぴっと人差し指を把音に向けた。
「ああ、仕切り直しといこう」
把音は構え直した鎖刀を、美烑に向かって投擲する。
一方その頃、炬香は梓の元まで到達していた。
「梓っ、美烑様が、ってええええぇ!?どうしたです梓っ、流れ矢にでもあたったですか?」
梓の額は自身の血で赤黒くなっていた。全員で生き残る作戦のためとはいえ、炬香を見捨てるような発言をした戒めとして近くの木に頭をぶつけた結果である。
予想以上に血が出ていたようだが、鏡がないので自分で確認できない。頭をぶつけた直後、炬香に指示を出していてそれどころではなかった、というのもある。
「ああ、大したことないよ、これくらい。……それより、ごめんな炬香」
額血まみれの梓に頭を下げられた炬香は何が何だかわからない。
「え、突然何です?」
「こんなにボロボロになるまで闘わせて……、お前を殺しちまうところだった」
梓は炬香を胸に抱き上げた。端から見ると赤ん坊を抱き上げるお父さんの図である。
「あ、梓……」
炬香はどこに手を置いていいかわらなくて、自分の胸の前で右に左に動かした後、結局梓の胸に置いた。
「炬香、美烑があの男と闘っている。お前にもまた戦ってもらわなければならない」
「わかってるのです。炬香はそのために戻ってきたのですから。だからはやく精気を……」
そこまで言って思い出した。
美烑がどうやって精気を摂取していたのかを。
「炬香……?」
「あう……」
炬香は顔を真っ赤にして固まっている。今までは美烑のおこぼれをもらっている程度だったのだが、今回は自ら梓と接吻をしなければならない。
「炬香?」
「ひゃ、ひゃい……」
「あ~とりあえず、目つむって口開けてろ」
「本当にしちゃうですか?」
「他にどうやって精気摂取するつもりだ。……下からじゃ無理だろ、お前の場合」
「下って……どういう意味です?」
「いや、忘れてくれ。なんか後で美烑に怒られそうだ」
「???」
炬香は自分の足や尻尾のほうを見ながらしきりに疑問符を浮かべていた。
「緊張もほぐれたところで目瞑れ」
「あの梓……見てていいです?」
「見てるってお前……恥ずかしいんじゃないのか?」
「えと……そ、そんな気分なのですっ!」
既にだいぶ目がうるうるしているが梓から目を離さない。
「は~わかったよ。これでも結構恥ずかしいんだけどな」
梓はそう言ってゆっくり炬香に口づけた。
「んっ!?んん……んあ……。んんっ?ん、んん~、ん、ん、ん、ん、ちゅぅ」
唇に広がった未知の感覚に戸惑っているうちに、精気を含んだ唾液が炬香の口に流れ込んでくる。炬香は最初こそ戸惑っていたがすぐに舌を伸ばして求め始めた。
「んあっ、ん、んん~」
最終的に自ら手を伸ばして梓の顔をがっちりホールド。思う存分舐めとってから口を離した。
「ぷはっ……、んぁ、ん」
しばらくの間艶かしい流し目で梓の口を眺めていた炬香だが、我慢できなくなったのか再び吸い付いた。
「ちょっ……炬香っ、んむっ」
結局炬香は5分以上吸い付いたままだった。
彼女がようやく口を離すと、体がオレンジ色に光りだす。
梓は大規模な回復をしているのだろうと思って見守っていたのだが、どうも様子がおかしい。そもそも炬香が回復する際、光を纏ったことはない。おまけにただの回復にしては時間がかかりすぎている。
目を凝らしていると薄っすらと見えていた炬香のシルエットに変化があった。
大きくなっている。
だいたい3尺――90㎝くらいのサイズになったところで、光りが弱まった。
「えっと……炬香、だよな?」
襟足が伸びたり、体に合わせてバランスがかわったりしてはいるものの、服装は基本的に変わらない。白い衣と黒い袴、その下から伸びる狐足と狐尻尾。
ちょっと大人びた――とはいっても幼稚園児ぐらいの背格好。
「何を言ってるです梓?炬香は炬香なのです。……何か梓ちっちゃくなったです?」
「お前が大きくなってんだよ。……まあまだ腰にも届いてないがな」
そう言ってあらためて炬香を抱き上げた。手にはそれなりに重さを感じる。
「よくわからんが、体に変なところはないな?」
梓の腕から離れてふわりと浮かび上がる。
「問題ないのです。じゃあ行ってくるのですよ」
「待て」
「ん?何です」
飛び出そうとした体勢で炬香が振り返った。体が成長しているせいか、動きが早くて速い。
「これ持ってけ、とりあえず『妖符』って名づけた」
梓は懐から十数枚の短冊状の紙を取り出した。
「えっと『妖符』?」
「読めるか?」
その紙の表面には鳥居の模様や五芒星、それを結ぶ線と無数の文字が刻まれている。
「読む……?ああ、なるほどです……これってひょっとして」
「ああ、美烑が使っている技を、お前用に書き直してみた。あと少ない妖気で使えるようにもしてある」
「すごいのです……、いつの間に」
炬香はしばらく妖符をひっくり返したり、なぜか匂いを嗅いだりしていたが、美烑が闘っているのを思い出して戦場を見下ろした。
「それじゃ行くです、梓。……ああ、そうです」
炬香はふわりと梓に寄ってくるとその額にちゅっと口づけした。
「はやく拭いたほうがいいのですよ」
ぺろりと舌を出してから飛び去った。
「あ……、何やってんだ俺は」
ぐしぐしと血で汚れた額を拭くついでに、思わず赤面してしまったのをごまかして戦場を確認する。
美烑は戦闘中。
炬香も今しがた戦場に到達した。
「『妖符・灼熱の狂岩』っ!!」
叫ぶと同時に妖気を注入、妖符が光り輝き灼熱の炎に覆われた岩が八つ生まれる。
「いくですっ!」
美烑を追いかける人間の列目がけて燃え盛る大岩が打ち込まれた。舞い上がる人間を尻目に美烑の元へと急ぐ炬香。
「美烑様っ……」
「踏鞴の炎は鉄をも切り裂く、『天目一箇火炎爪』」
美烑の両手に炎が集まり、巨大な腕のようになる。炎の獣・狐の真骨頂だ。
ちなみに「天目一箇神」とは日本における製鉄・鍛冶の火神で、隻眼である。その性質をなぞらえているのか、美烑の緋色だった右目が、黄色がかったオレンジに変わっている。
「せいっ!」
美烑は大きく広げた右手を把音の真上から振り下ろした。
「ふっ」
把音はそれを左手の鎖刀一本で受け止める。しかし普通のサイズの刀で、巨大化した美烑の爪全てをカバーすることはできない。あぶれた部分が把音の服や髪を焼く。
「(ほう……、炎自体は本物。しかし元々体格が小さいためか、攻撃は軽い)」
把音は美烑の手を弾いて押し返す。すると次は左手が迫ってきた。
「相変わらず、単調だな」
把音は真横から迫ってきた左手に対して斜めに刀を構える。インパクトの瞬間、剣先に炎の手を引っかけるように切り上げると、その手の甲を刀の柄でとん、と押した。
「うわわっ!?」
途端にバランスを崩す美烑。横なぎの勢いそのままにくるりと半回転。把音に背中を向けてしまった。
「ガラ空きだっ!」
その小さな背中目がけて鎖刀が振り下ろされる。
しかし、その切っ先は炎の壁に阻まれ美烑に届くことはなかった。美烑の左手に触れた瞬間、膨れ上がった熱と光に把音は目を細めた。
「なるほど、その掌は武器ではなく防具、というわけか。しかし……」
「っ!?」
気がつけば美烑の周りを鎖が巡っていた。把音が鎖刀を引くと一気に締まる。両腕ごと胴体に絡みつかれたせいで、火炎爪も意味をなさない。
「生来の打たれ強さ故か、君はあまりに迂闊過ぎる。技は大振り、その後の動きもまるで隙だらけ」
何とかその場に踏みとどまる美烑だが、それもわずかな時間。
「君の動きには連続性も計画性もない。故に読みにくいものではあるが、攻撃と攻撃の間に確実に隙があることがわかれば反撃は容易いものだ」
把音は縛り上げた美烑を地面に叩きつける。
「ぐっ!がっ……はっ!」
右に左に振り回され、顔に、胸に、腹に、足に次々に傷が増えていく。
把音はひとしきり美烑を嬲った後、自身の正面に正対させた。
「はーっ、はーっ、はーぅ、うぅーっ、はーっ」
前にもまして息が荒い美烑の顔を覗き込んで、
「終わりか?」
じゅっ、と。
何かが高熱でどろりと溶ける音がする。と同時に美烑の背後から黒い煙が上がった。
「んああああああっ!」
咆哮する美烑の2対の尻尾の先端は炎に覆われていた。両手に纏っているものと同じ「天目一箇火炎爪」。まあ厳密言えば「爪」ではないのだが。
その特性は「火剋金」。
すなわち、炎は鉄を斬り裂く。
あちこち振り回されている間に少しずつ鎖刀の「鎖」を斬っていたのである。
そして美烑はその綻びを広げるように全身で鎖を断ち切る。
「このぐらいでっ」
「はあ、だから隙だらけだと」
一方の把音は焦りも同様もせずただ当たり前のように刀を構え、
「美烑様っ!」
ようやくたどり着いた炬香の目の前で、
「言っているのだよ」
鎖を断ち切って大の字になっている美烑の、腹から背中に向けて斜め上に把音の刀が貫いた。
「かっ、は……?あ、あれ?」
美烑の口から赤い鮮血が零れる。口からだけではない。貫かれた腹や背中、その貫いた刀を持つ両手――既に炎は消えてしまっている――からも、どろりとした血が雨に流されていく。
妖狐である美烑の血は、生身の動物のソレとは厳密言えば違うのだが、枯渇すれば生命活動を維持できないと言う意味ではかわらない。
次第に目の焦点が合わなくなり、刀を抑えていた手はダラリと滑り落ちた。
把音はつまらなそうに刀を抜くと、美烑の体を地面に放り投げた。
「オマエ―――ッ!!!!」
打ち捨てられた美烑を見て激昂した炬香が把音に突進した。
光り輝く一枚の「妖符」。
その両手、そして両足までもが炎に包まれ、さながら炎の獣と化して把音に喰らいつく。
その片目は黄色がかったオレンジに。
天目一箇火炎爪。
「あああああぁぁぁっ!」
「ふっ」
勢い込んで振り下ろした炎の爪は把音にあたらない。続く横薙ぎも、踵落としも、回し蹴りもヒラリヒラリとかわされて。
「避けるなですっ!」
「フッ、無茶を言うな。その少女の攻撃で鎖は切られて、刃はボロボロだ。そんなわけで今日の私はこれで幕引きとしよう」
そう言うと把音はあっさり身を引いた。
「待っ!!」
『炬香、深追いするな。周りを見ろっ!』
追いかけようとした炬香を梓が止めた。
炬香はその声に反応して周りを見回す。
「……っ」
2人は人間たちに囲まれていた。
美烑が刺されて好機と判断したのだろう。既に美烑を倒すことを諦めて傍観していた人間までも集まってきている。
一度も攻撃があたらないばかりか、一方的に人間たちを嬲り、殺害してきた美烑が攻撃を受けた。その事実は人間たちに期待を持たせてしまった。
自分たちの攻撃が効くかどうかもわからない相手と闘うのと、攻撃を受けるかどうかはわからないが、確実に有効である相手と闘うのではその意味合いが大きく違ってくる。
ましてや手負い。それも戦闘不能状態の相手だ。
功を焦る人間たちにとって今の美烑は格好の獲物だ。
『あ、梓……どうするです?』
炬香の声は震えていた。
美烑が死に掛けているという事実。そして手負いの美烑を抱えて数十人の人間を相手にしなければいけないという現実が、炬香を焦らせる。
『無理を承知で頼む。美烑を担いで俺のところまで戻ってきてくれ。全員を相手にする必要はない。「狂岩」でこちら側の人垣を吹き飛ばして突破。「篝火」で牽制しながら、帰って来い』
『で、でも、ほとんど全員連れて行くことになるですよ……』
『こっちは予定通り水が溜まってる。炬香が帰ってくるころにはもっと量が増えているだろう。むしろ全員引き連れて来たほうがいい』
そもそも最初の作戦では全員崖崩れに巻き込む予定だったのだ。
『お……兄――ちゃん、炬香ちゃん……に、これ、いじょ……う……』
2人の間に美烑が割り込んだ。しかし集中できないのか送られてくる言葉が途切れ途切れだ。 炬香が確認する限り美烑は気絶した状態から動いていない。
もう、体を動かす余裕もないのだろう。
『怪我人は黙ってなさい』
『美烑様、今は妖気を回復に当てておいてほしいのです』
炬香は周りを通常の狐火で牽制しつつ、美烑の元へ走り寄った。そして体を動かせない美烑の体の下へ入り込む。
少しフラついたが、美烑の足を脇に抱えて背負いあげた。
「炬香……ちゃ…、無理、しちゃ……」
「無理はするのです。炬香だって美烑様に死んでほしくないのです。お守りいたしますです」
そう言うと足を抱えたまま器用に妖符を取り出した。
「炎に焼かれて大地へ還れ、『灼熱の狂岩』!」
「灼熱の狂岩」は美烑の扱う「灼熱狂いの殺生岩」の劣化版だ。本当は元の威力を持たせたかったのだが、どう再現しようとしても消費する妖気が多すぎたので炬香が使い易いように威力を抑えた使用になっている。そんな炬香の左右から生まれた燃える大岩は、炬香の進路を塞ぐように待ち構えていた人間の直前にぶつかり、大量の土砂を巻き上げた。
炬香はその土塊に紛れて囲みを突破、梓の待つ目標ポイントへ向けて走り出した。さすがに美烑を抱えている以上、飛んでいくことはできそうにない。
それでも妖怪の足、イヌ科の動物である狐を原型とするモノノケの足だ。自分より重たい美烑を背負っていても普通の人間よりは速い。
あくまで普通の人間よりは。
平均タイムより速い人間はいくらでもいるものだ。
『炬香、迫ってきてる』
「っ、我が手に宿りし燈火は、怨敵喰らい黄泉路へ誘う、『冥府の篝火』っ!」
不用意に近づいてきた先頭の人間に炎が喰らいついた。
しかし全ての炎を制御できるほど炬香の技術は高くない。残りの火球は他の人間の間を右往左往するばかりで、あまり牽制の意味をなしていない。人間のほうもそれほど危険ではないと判断すると、再び追走を始めた。
『炬香、矢が討たれている、もう1回だ』
普通の人間が放つ矢は炬香には当たらずとも、美烑には当たる。
「っ……(これ以上は、頭が……)」
混乱した炬香の速度が目に見えて落ちた。
「炬香……ちゃん、全部の……火を……操ろうとしなく……ていいの……。十……くらいにまとめて……」
動揺したのが伝わったのだろう。途切れ途切れだが美烑が助け舟を出す。炬香の耳がくいっと美烑の口へ――頭の後ろ側に向いた。
「いくですっ、『冥府の篝火』」
今度は先頭を走る人間だけでなく、その後方の人間にも命中していく。
「矢……は、炬香ちゃんの……走る先を……予想して……放っているはず……。だから、軌道を……ずらせば、進行方向を……変えれば……」
炬香は美烑の言葉を信頼して大きく右へ、本来走るはずだったところに矢が刺さるのを横目に身ながら、斜めに走っていく。
「ひょっと……したら、こっちにも……飛んでくる……かも、……だから、後ろに……篝火を、3つ……くらい、集めて……」
炬香が展開した背後の篝火からじゅっという音が聞こえた。
それが何の音であるか、炬香が理解し、反応する前に体が傾いだ。美烑が炬香の左腕を下へ引いたのだ。
そうは言ってもすでに気絶寸前……、いや一度は気絶した身だ。せいぜいバランスを崩すぐらいのことしかできない。炬香の背中は、今も流れ出す美烑の血液で染みが大きくなっている。
「美烑さっ……?」
何事か問おうとした炬香の右……、髪の毛の間から羽根を燻らせた矢が飛び出して、地面に突き刺さった。美烑が懸念したとおり、いくつかの矢がこちらに飛んできていたのだ。
「止まっちゃ……だめ、お兄ちゃんの……ところに……」
「はいですっ!」
一瞬呆けていた炬香だが、すぐに美烑を抱え直して走り出す。人間たちもすぐに2人の後を追う。
「狙いは……人間、の……少し、前」
追ってくる人間の前方、今まさに足を着けようとしている地面を炬香の操る炎が抉っていく。ちゃんと狙っているわけではないため、ときどき直撃を受けて吹っ飛んでいる運の悪い人間がいるが、基本的に倒すには至っていない。
いくら妖符で攻撃力が上がっているとはいっても炬香の妖気は少ないし、一回一回照準を合わせる余裕もない。
「きええぇいっ!」
そして照準を絞っていないからこそ、そこを突破してくる人間が存在する。槍を突き出し炬香に肉薄。何とか回避はするもののその切っ先が炬香の右足を引っ掻いた。
「あぐっ、ぐっぎっ……、ああぁぁぁあああっ!」
炬香は突然の痛みと脱力感に傾いていく体を叫び声と共に強引に立て直す。しかし襲ってきた人間はそのままだ。前に走る余裕しかない炬香を再び狙う。
「はーっ、ぐっ、うぅぅ……」
ぼわっと。
美烑の2対の尻尾の先に炎がともる。その尻尾を勢いよく振り回して人間を吹き飛ばした。
「美烑様……」
「このぐらいは……ね」
「ありがとうです」
「ごめんね……こんな、事しか……できなくて」
炬香は答える代わりに美烑をきゅっと抱え直して梓の元へと向かう。
ぬかるみに足を滑らせながら、ときどき飛んでくる矢を避けて、人間の攻撃をかわす。
そうしているうちに梓の待つ崖が近づいてきた。
『炬香、少しずつ右へ寄ってくれ』
梓から炬香に伝話が届く。
『右?』
『林を迂回するように、だ。斜め前から大量の土砂をぶつけるから、無理してでも崖を這い上がれ』
炬香の進路が右にそれ始めた。
「また……炬香……ちゃんに、無理、させて……」
「炬香は嬉しいのですよ。美烑様と梓と、3人で戦っている事が。それより、ちゃんと掴まっていてくださいです、そろそろなのです」
炬香と美烑、双方の耳が斜め上……崖の上を向く。