壱ノ幕 それぞれの想い
時は平安末期――。
都は未だ貴族達により支配され、贅の限りを尽くした貴族文化が残っていた。しかしそんな繁栄にも翳りが見えてくる。かねてより発生していた妖怪のかかわる不可解な事件、ここ最近その頻度が爆発的に上がった。
それに呼応するように全国各地に不穏な空気が漂い始める。
都の威厳が失墜した今、地方を治めていた国衙や領家それに準ずる豪族たちが、己が領土を広め天下統一を画策し始めるそんな時代。
列島の最北端に位置する蝦夷。その複雑な地形と自然環境から人を寄せ付けず、長い間人外の王国となっていた大和の国随一の危険地帯。
古くは毛野氏と呼ばれる豪族がここを支配し比較的平和な地ではあったが、蝦夷の首長が逃げ帰ると、阿倍比羅夫や大伴駿河麻呂などが朝廷の指示のもと征討のために乗り込み、三十八年戦争と呼ばれる戦火が広がることになる。
さらに最近は南方の陸奥を治める安倍氏が勢力を拡大し、徐々に北上、蝦夷を少しずつ併呑し始めた。
彼らが求めるものは、人・田畑、そして領土だ。
山深いド田舎、それも険しい山の上にある美烑稲荷など見向きするはずもない。
しかし、そこに住む人にとっては違う。身近な場所に、人を襲うような存在が居て安心して暮らせるはずもない。
実際に被害が起こっていなくても、だ。
熊がすぐそこの山に居て安心して暮らせる人はそうはいない。結果、そこに危ない存在が居ると喧伝しだすようになる。
それが泰平の世ならば、命知らずや物好きしか寄っては来ないだろう。しかし世は戦乱の気配が漂いはじめている。召抱えられた際、武功があるほうが厚遇される。
ここ最近、美烑を狙ってくる人間が増えたのはそういうわけだ。
「……そもそも梓は何でここに来たです?美烑様を倒しに来たって言ってたですけど、他の人間たちほどこだわってるようには見えないです」
ここは美烑稲荷神社・社殿内。といってもお賽銭箱が置いてあったり、大きな鈴がぶらさがったりしている拝殿のほうではない。そのとなりに併設されている――平成の日本で言うところの社務所、神主や巫女さんなんかが寝起きしている建物のほうだ。
元は人間も住んでいたのであろうが、今は梓の他に人間はいない。美烑や炬香、それといわゆる魑魅魍魎と呼ばれる雑霊やら浮遊霊やらが住み着いている。
その社務所の一階、境内が見える広間に炬香と梓が居た。畳なんて上等なものは敷かれていない。板間に茣蓙……植物で編まれたカーペットが人一人分だけ敷かれている。
引き戸もすべて木でできており、障子ではないため、明かりを得るためにほとんど開けっ放しになっている。
美烑は近くの川へ水浴びに行っていて、今はいない。当たり前だがこの時代、風呂なんて設備は地方神社に存在しない。
そこで二人っきりになって、ふと思い出したように炬香が梓に問いかけた。何のためにここに来たのか、と。
「……別に。ただ守るべきものを失って、生きる目的も失って、それでも生きなきゃなんなくて、……このあたりに来てみたら、人を食う化け物がいるっていうから、自分の知識で人の役に立てるかも、って思って来てみたんだ」
と、梓は思い出すように語りだした。思い出したくない、というよりはあきらめたような、……まるで遠い過去を懐かしむ老人のような、そんな表情。
顔を照らす月明かりが、顔の影を色濃くしている。
「そしたら、目の前にもっと困ってる奴が居てさ。人を食う化け物とか言われてるくせに、そいつ涙目でおろおろしてたんたぜ?
……気が付いたら手伝ってた」
そこでふと言葉を切って。
「実をいうと楽しかったんだ。そして嬉しかった。こんな自分でも、まだ救えるものがあるんだって思えたから。美烑と一緒に地縛霊を調伏して、そして美烑が笑顔になってくれて……」
そこでふと、言葉を切る。
「……?」
炬香が不思議そうに首を傾げた。
梓はしばらく逡巡していたが、話を続けた。
「……ここに来た目的。
ほんとのほんとは……、死にたかっただけなのかもしれない。美烑に、……いや、人を喰らうっていう化け物に殺されたかったのかもしれない」
そこで梓は目を伏せて、俯いた。
「……あ、梓は、……梓は今でも死にたいです?」
炬香が梓の背中に向かって小さく問いかけた。
「何だよ、お前らしくない。聞かなきゃよかったとか思ってんのか?」
「だ、だって……」
ゆっくりと近づいてきた炬香を、梓は自分の膝の上に座らせた。
炬香は素直に従う。
「炬香にも、記憶があるのですよ。……炬香が炬香になる前の記憶。あの地縛霊から解放してもらって、炬香の中心になった魂の、記憶の欠片」
そこまで喋って言い澱んだ炬香の頭を、梓が静かに撫でる。
「炬香は……あたしは、赤子だったのです。いいえ、赤子ですらなかった。記憶と呼べるほどはっきりしたものでもない……です。
あたしは、生まれる前に死んでしまったのですから」
きゅっと炬香の小さな手が梓の服を掴んだ。何度も確かめるように結んで開いてを繰り返す。
「だから、はっきり記憶と呼べるのもはただのひとつ、です。
……ただ、『生きたい』、と」
ただひたすらに生きたかった、と。炬香はそう呟くと梓の胸に顔を埋めた。
「だからっ!だから炬香は嬉しいのです!こうして触れられる事がっ、こうして話せる事がっ、お休みって言って、おはようって言える事がっ!
炬香は人じゃないっ、だけど確かにここに、こうして生きているのですっ!それがたまらなく嬉しいのですっ、泣きたいくらい楽しいのですっ!
だっ、だからぁ……」
梓は必死に生きたいと叫ぶ少女をぎゅっと抱きしめた。
「炬香……」
「梓にはわからないですか?伝わらないですか?
炬香は生きたかったのです。人として生きて、愛されたかった。それができる梓は、そうして生きてこれた梓は、それでも死にたいのですか?殺されたいと言うのですか?」
炬香は泣いていた。腕の中から梓を見上げる炬香の瞳は、怒りと、哀しみと、妬みと、羨みと、そしてやっぱり悲しみで。
「梓……?」
考えるように、思い出すように目を閉じてじっくりと言葉を捜す梓に、炬香が不安そうに声をかける。
「炬香、言っただろ?俺も嬉しかったって、楽しかったって。お前と、美烑と三人で暮らすこの生活を壊したくないって思ってるよ。
この美烑稲荷に来て、またそう思えるようになったんだ。お前たちのおかげでさ」
梓はそこまで言って炬香の涙を拭う。
今の炬香はされるがまま。
「ほんと、おとなしいなお前。眠くなってきたか?」
「そ、そこまで子供じゃないのですっ!……でも、今はそれもいいかもって、思ったりしてるのです」
炬香は梓の肩にあごをのっけて頬を摺り寄せる。そして梓の髪の毛の匂いをかいだり、舐めてみたり、手で遊んでみたり。
いつになく甘えていると、そこへ。
「あれ、炬香ちゃんもう寝ちゃった?」
美烑が水浴びから帰ってきた。
さすがに湯気が立つようなことはないが、しっとりと髪の毛や尻尾の毛が濡れている様は色気があると言えなくもない。
しかもこの時代の服、平成の日本にある和服とは違いそれほど丈夫にできてはいない。美烑が来ている白い上着は、美烑の髪から垂れてくる水で肩の辺りが透けている。とは言え炬香は雌だし、梓も美烑のことを家族……妹ぐらいの感覚でしか見ていないので、特に反応もないのだが。
「ああ、お帰り」
炬香より先に梓が反応した。
「みみみ、美烑様っ!?」
と一拍遅れて炬香が振り返る。
その顔は真っ赤。
「あれ?まだ起きてたんだ?何~お兄ちゃんに甘えてたの?」
炬香は振り返っているものの、手は梓の肩と髪の毛に、体も胸に寄り添っている。
「ち、違っ!こ、これは梓がっ……。
そ、そう!梓が落ち込んでたから炬香がなぐさめてやっていたのですっ!
だっ、だから……」
美烑は梓の顔をひょいと見るが、落ち込んでいたようには見えないし、美烑の記憶にある限り、梓は落ち込んではいなかった。
「えっと……」
困ったように戻された美烑の視線に耐え切れず、炬香が飛び出した。
「ふえぇぇぇ~んっ!梓ごときに甘えているところを美烑様に見られるとはっ!炬香一生の不覚なのですぅ!!」
そのまま庭に飛び出して、森の中へ消えていったが、梓も美烑も追いかけたりはしない。炬香は小さいとはいえ人外。夕方に梓から精気を補充したために飢え死にすることはないだろう。
加えてこの神社周辺は美烑の勢力圏内である。常に美烑の近くに居る炬香に手を出せばどういうことになるか、妖怪はおろか獣も知っている。
「ごときって……」
炬香の言葉に密かに傷つきつつ、梓は視線を美烑に戻した。
「あの……、あたしもそこに行っていい?」
そう言って美烑が指差すのはさっきまで炬香が居た場所。
梓の膝の上だ。
「え?何だよお前ら、二人そろって今日は甘えん坊か?」
「そういう日もあるんだよ~」
のんびりしゃべりつつ梓の膝の上に腰を下ろす。腕とは別に、2本の尻尾がそれぞれ左右から梓と美烑自身を包む。
「どうしたんだ、今日の美烑様は?」
「お兄ちゃんまで『様』とか言わないでよ。ん……、こうしてたいの」
さっきまで炬香がしていたように、梓の肩にあごをのせ髪の毛の中に鼻を突っ込む。
「お前さ、さっきの話聞いてたろ」
「ふぇっ!?な、何のこと」
しなだれかかるように甘えていた美烑の体が硬直する。
「トボけるなよ。この大きい耳は飾りか?炬香のはお前の妖力で生まれたって理由で生えてるみたいだが、お前のこれは自前だろ?」
そう言って梓は美烑の狐耳をイジリはじめた。
「う……あ……ん」
耳の縁や、その中の柔かい毛を触られて、美烑が身をよじる。
「お狐様の耳はかなり遠くまで音が聞こえるはずなんだけど?」
「ん……んぁ……、くすぐった……い……よぉ」
身じろぎはするものの本格的に嫌がってはいない。その証拠に、ちょっと耳から手を放すとその梓の手を追うように美烑の狐耳もそちらにたおれる。
「まだ白状しない気か?それじゃあ、次は……こうだ」
そう言って美烑の脇の下に手を入れる。
「へ?ちょっ……それ、反則うぅ……うひゃひゃひゃっ?!やめっ!あじゅしゃっ!そ、そこっ!ひゃめっ!!……むねっ!胸触ったぁっ!」
「触るほどないだろ?つうか、いつもんなこと気にしてねえじゃねぇか?」
本気で嫌がっていない言葉などで止まる梓ではない。ますますくすぐりの手をエスカレートさせつつ、次の獲物を探す。
「ほんとっ、やめっお兄ちゃっ、息できなきゅっ!?」
仰向けでくすぐられていた美烑が、四つん這いで逃げの態勢に入る。
「俺に尻向けていいのか?尻尾がら空きだぞ?」
言われた美烑は咄嗟に手で隠したり、尻尾を振ったりして梓の手を避けようとするが、梓が狙うのは2本の尻尾の付け根。
「まっ、待っへぇ、それほんとに……」
「せぇーのっ!」
梓は軽く声を出すと2本の尻尾の下側、比較的柔かい毛の生えているほうを、付け根から先のほうに向けてぐぐっと指で押し込んだ。
「にょほおおおっ!?」
とたんに美烑はぴんっと手足、ついでに尻尾も伸ばして絶叫。
しばらくプルプルと震えていたが、突然ぴくんっと何かに気が付いたように体を震わすと、森の中へ一直線。
5分ほどで帰ってきた。
「おしっこ漏らしたのか?」
「漏らしてないっ!普通に出しただけっ!!」
美烑が顔を真っ赤にしながら、再び部屋に上がってくる。
「だいたいお兄ちゃんが変なとこ触るから……」
そのまま再び梓の膝の上へ。
「それで?白状するのかな」
梓は再び美烑の尻尾を手に取った。今度は強く持ったりはせず、やわやわと労わるように撫でたり揉んだりしている。
「……聞こえてたよ。お兄ちゃんの声はよく聞こえなかったけど、炬香ちゃんの声は……」
少し寂しそうな顔。
「どした?」
上から覗き込もうとする梓の視線を避けるように、美烑の視線は板間を這う。
「何であたしに話してくれないのかなって」
「あいつは美烑大好きだからな~。心配かけたくないとか、不安にさせたくないとか思ってんだろ?」
梓は不機嫌そうに歪む美烑の眉間を撫でる。
「話してくれないほうが不安だよ。炬香ちゃん自分のこと全然話さないから、記憶がないんだと思ってたし……。それに、あんなに『生きたかった』って……」
「成仏させたほうが良かったとか思ってんのか?」
輪廻転生。人や動物だけではなくこの世にある全てのモノには魂が宿り、産まれ、生きて、死んで、肉体は朽ちて、魂は成仏し、また新たに生まれ変わる。
そんな当たり前を、美烑と梓が阻害して生み出された命。
美烑は唇を尖らせて押し黙っていたが、
「少し……」
ポソリと呟いた。
「バカだなぁ、お前」
その美烑の唇を一指し指でつんつんとつつく。
「何だよぉ……カプッ」
その梓の指を美烑が咥えた。といっても甘噛みだ。幼児がするような弱さではむはむと玩ぶ。
「炬香は言ってただろ?こうしてここで生活しているのが嬉しいって。いいんだよ、それで。いろんな幸せの形があるんだ。
当たり前に生きることを幸せだって思うヤツもいれば、自分だけの経験を幸せだと思うヤツもいる」
美烑は不安そうに梓の服を掴み、こてんと頭を倒す。
「炬香は言ったんだ。この生活が嬉しいんだって。触れる事が、話せる事が、泣きたいくらい楽しいんだって」
「ん……」
「だから、大丈夫。炬香は生まれたことを後悔してないし、俺たちを恨んだりしていないよ」
「……お兄ちゃんは?」
「ん?」
未だ不安そうな美烑が消えそうな声で問いかけた。表情は梓の胸に顔を押し付けているためにわからない。
「お兄ちゃんは後悔してない?あたしたち……あたしと炬香ちゃんと、ここに住んでるみんなとの、この生活……楽しい?
来なきゃ良かったとか思ってない?」
言いながらも不安が募っていくのか、美烑の声が震えている。
「楽しいよ。炬香じゃないけど、たまらなく楽しいよ。そして嬉しいんだ」
梓は炬香に言ったことを繰り返す。大切な人を失ったことも、ここには死ぬために……正体の知れない化け物に殺されるためにここに来たことも。
それでもそんな化け物と呼ばれる少女……美烑に出会い、炬香が生まれて、3人での生活が始まった。
一度は失くした、生きる意味、目的、自信。
梓が捨ててしまった、忘れたふりをしていた想いや願い。
美烑と炬香との生活は梓に再び希望を見せてくれた。
また生きたい、と。共に在りたいと思えるようになった。
「だから嬉しいんだ。こうして美烑と話せる事が」
しばし、ぽーっと梓の顔を見ていた美烑がぽつりと。
「じゃあ、ずっと一緒に居てくれる?」
すごく、すごく寂しそうな瞳で呟いた。
それは多くの別れを経験したモノの目。
出会うモノ全てが老い、死んでいく。家族も、友人も、つがいも、自身の子供さえ己を残して先立っていく。
屍の荒野にただ一人、残されたモノの目。
「……」
梓は軽く答えたりはしない。それほどまでに真剣な、必死な、悲痛な美烑の精神。
じっくり考えて、そしてゆっくり答える。
「美烑……、俺は人間だ」
「……っ」
美烑の身体が強張る。
「どんなに頑張ったって、100年も200年も生き続けることはできない」
梓は「永遠に一緒に」なんて事は言わない。人間の言う永遠なんてせいぜい自分が死ぬまでか、その子供が死ぬまでというのがいいところだ。美烑は既に200以上を生きている妖狐。彼女にとっての「ずっと」は500年や1000年先の話。
それがわかっているから、美烑の願いをかなえてやる事ができないから、梓はゆっくり真剣に話す。
「俺はいずれ老い、美烑を残して死んでいく」
「で、でも……梓の知識とか、風水とか……陰陽道とかを使えば……」
縋るような声で問いかける美烑に、梓は思い出すようにしながら別の話を始めた。
「……かつて大陰陽師・安倍晴明って奴が居た。コイツは俺が使っている風水以外にも暦法や・占星術・兵法なんてのまで収めていて、朝廷――人間の一番偉い人がいるところだな――そんなところにも強い影響力を持っていた。
ある時その晴明は泰山府君っていう命を管理してる神様にお願いだか、調伏だかして永遠の命を手に入れたらしい」
泰山というのは中国に実在する山の名前で、当時の世界の果てだった。そこを超えるということは現世と離れるということであり、その山の向こうは現世とは違う世界と考えられていた。泰山府君はこの世とあの世の境目を守るもの、閻魔大王に近い存在である。
つまり輪廻転生を司る神様を支配下に置くことで、肉体が滅んでも今の記憶と経験を受け継いだまま、次の肉体で新たな一生を迎える事ができるようになったということだ。
「その人と同じことをすれば梓も『永遠の命』を得られるんじゃ……」
梓は首を振る。
「いや、そもそも俺は泰山府君にどうやって会えばいいのか知らない。それ以前に、永遠の命を手に入れたのなら、安倍晴明は今どこにいる?」
「あ……」
「安倍晴明は永遠の命を手に入れるほどの天才だ。彼が生きていればそれとなく噂は流れてくるだろう。
でも、そんな話は聞かない。
彼がそれを手にしてから300年、朝廷内に君臨したわけでもなく、また大名の軍師になったわけでもない」
美烑の耳が目に見えてシュンとなった。
「……つまりさ、ただの噂。伝説とか御伽噺の類なんだよ。……まぁ、お前や炬香が存在しているあたり、まるごと全部嘘ってことでもないんだろうけど。
美烑が俺の知識をすごいって思うように、他の人間たちも安倍晴明や他の陰陽寮の連中に対してもすごいって思ったんだよ。
そしてやっぱり今の美烑と同じように彼らは思ったんだ。
あれだけの知識と技があれば『永遠の命を手に入れられたはずだ』って」
そこまで話して、美烑が暗い顔で黙りこくっているのに気が付いた梓は、美烑を胸に抱きしめて、
「『永遠の命』っていうのを手にすることはできない。やっぱり俺は美烑より先に老い、死んでいく。
でも、この心臓の音が続く限り美烑と一緒に居る。
例え全ての人間がお前の敵になったとしても、俺はお前の隣に立っていよう、……この命続く限り」
人間にとって死ぬまで一緒にいる、という事はほぼ告白と同義だが、物の怪にとっては意味が大きく違う。心や精神は共にあっても生きる時間が違う。
梓は人間で、美烑は妖。
それはある意味で決別の言葉とも言える。お前と俺は違うのだと、梓は言い放ったに等しい。それがわかっていながらもはっきりと宣言したのは、美烑が今までに多くの別れを経験してきたことを知っているからだ。
ごまかす事に意味はない。
別れてきたモノの中には人語を解せないモノも居ただろう。いや、むしろそれが大多数か。いずれにしろ心で、言葉でずっと一緒に居ると誓ったモノたちは、残らず美烑の前から姿を消した。
あるいは死に、あるいは敵となって。
「うっ……ふぐっ……ふぅうぅぅぅ」
梓の胸に抱かれてる美烑の口から嗚咽が漏れる。
「敵にならない」って言ってくれたのは嬉しくて。
「一緒に居る」とは言ってくれなかったのは悲しくて。
はっきりと別れの時が訪れることを宣告されたのは寂しくて。
少しでも離れたくないと梓の服をぎゅっと握り締め、2本の黄色い尻尾が梓を包む。
「美烑……」
これ以上の言葉は不要、……既に言うべきことは言ったし、「老いの壁」を越える術はない。ただ死ぬその時までずっと居ると、梓は想いを込めて美烑を抱きしめる。頭を撫でて、頬を撫でて、肩を撫でて、腕を撫でて、背中を撫でて、尻を撫でて、腿を撫でて、脚を撫でて、尻尾を撫でて。
それから強く抱きしめる。
「うぅ……ふぐぅ……」
自分にはこの小さな娘を慰めることすらできない、という無念。
それでも共にありたいという自分の我侭にして、切なる願い。愛おしさとも言える感情を乗せて美烑を撫でていく。そんな2人に向かって冷たい夜の風が一迅、内庭から吹き込んだ。ふと顔を上げた梓の髪を撫でていく。
しかしすぐに視線を胸元に戻して、美烑を撫で始めた。
しばらくそうしているうちに、美烑がおとなしくなる。
「美烑?」
「すー、すぅーっ。んぅ……、すー」
手の力と尻尾の力はそのままに、美烑は眠っていた。
「美烑……、って、やっぱ力強いな……」
「んにゅ……、おにぃちゃ――んぅ……、すーすー」
梓が体を起こそうと身じろぎしたが、美烑の力はますます強くなるばかりで動けない。
「はぁ……、まぁ仕方ないか。起こしてもまた泣き顔見るだけだろうし――。
炬香、出てこいよ」
「うわっ!?バレたですっ!!」
庭のほうから声が聞こえて、葉っぱがこすれる音がした。ほどなくして林の中から炬香がやってくる。
ゆるりゆるりと近寄ってくると、美烑の隣に座った。
「お前ら、互いに遠慮してのぞき合って……、何やってんだよ?」
「む~、梓が変な空気生み出すからなのです」
「変な空気ってなんだよ?」
炬香は少し考えて、……それから顔を赤くして、
「……み、淫らな?」
「淫らって……、どこで覚えてくるんだそんな言葉。ただじゃれてただけだろ?そんなんで遠慮して隠れてるくらいなら、さっさとこっちに来いよ」
梓はぽんぽん、と自分の膝を叩く。美烑が寝ているために少ししか空いていないが、小さな炬香には充分な広さだ。
炬香は素直に這い上がってきた。
「別に隠れてたわけじゃ……そういえば何でわかったです、梓?」
梓は腿に上ってきた炬香を空いている手で支えた。
「何でって……妖気の揺らぎが……、ふむ――妖気の……振動か……」
「梓?」
ふと何かに気づいたように梓が考え込む。それから美烑の身体……いやその周りを覆っている妖気のほうを見て、
「炬香ちょっと目を閉じてくれ」
「ひゅえぇえ?何でです?」
「なに変な声出してんだ?いいから目ぇ閉じろ」
「は、はいです」
炬香はなぜか顔を赤らめながらも素直に目を閉じた。
相変わらずおとなしい。
「これでいいです?」
「あぁ。……今の状態で俺の声は聞こえるよな?」
「?はいです、普通に聞こえるですよ?」
炬香は瞳を閉じたまま不思議そうに首を傾げて、耳をぴくぴくと動かした。
『じゃあコレはどうだ?』
「???梓の声が……響いてるです?」
炬香は再び不思議そうに首を傾げた。普通に耳から聞こえたにしては妙な響き方だ。まるで筒を通したような、身体が音を捉えているような不思議な感覚。
『言葉の意味は伝わってるんだよな?』
「はいです。これは……?」
「もう目を開けていいぞ」
炬香が目を開ける。すると、梓の人差し指が目の前につきつけられていた。炬香が指に目を留めたのを確認すると、梓はついとその指を自分の口に向けた。
『こういうことだ』
また身体に響くような梓の声。しかし、梓の口は動いていない。
「え?何で?」
『わからないか?』
今度は炬香にも見えた。梓の方から炬香に向かって妖気が流れた。
そう、妖気だ。
よく見ると、膝の上で寝ている美烑から梓のほうに妖気が流れている。どうやら梓はその妖気を利用しているらしい。
「妖気を使ってるです?」
『あぁ……』
「さすがにちょっと疲れるな」
梓は普通に口で喋り始めた。風水士とはいえ梓も人間、妖気を使い続ければ当然ながら疲れる。えら呼吸……とまではいかないが、常に走り続けているような息ぐるしさ、といえばわかり易いだろうか。
「妖気を震わせるんだ。喋ってるときみたいに」
「よくわからないですよ?」
炬香が眉を寄せる。
「今こうして喋ってる時に自分の周りの妖気が震えるだろ?その振動を相手に伝えようとすればいいんだよ」
「えっと」
炬香はしばらく口で喋りながらその振動を確認してから、ひょいと梓のほうを見た。
「おい、ちょっと待ていきなり……」
『こんな感じです?』
「うるさいわっ!!」
ヘッドホンをつけた状態で音量を最大にされたような、鼓膜を突き抜けて脳を直接揺さぶられるような衝撃が、梓の全身を叩いた。
「ふぇぇっ!ごめんですっ!」
「お前らは俺より使える妖気が多いんだから加減しろよ。美烑が起きるぞ」
話題に上った美烑はというと、さすがにうるさかったのだろう。うにゅうにゅと呻いている。しかし起きる様子はなく、耳をぱたんと倒したまま、再びおとなしくなった。
「もっと妖気少なくていいんだよ。囁くようなつもりでやってみ」
はいです、と小さく呟いてもう一回、炬香が集中してやってみる。
『これでどうです?』
「まだ大きいんだが……まぁ、さっきよりはましか。お前ができるってことは、美烑もできるだろうし……これは使えるな」
「使える……って何にです?」
「戦いだよ、人間との。今までは美烑だけが戦ってたけど、これからは俺達も手伝える」
「……」
炬香は何か言おうとして、止めた。
本当は、それは人間と決別するという事だとわかってるのとか、自分たちと生きる覚悟ができてるのとか、聞きたかったのだけれど。梓の顔を見れば、そしてさっきまでの話を聞いていれば炬香にだってわかる。
それでも、それでも人間として生まれたかった少女は思う。
寂しくないのか、と。
自分たち妖と生きる道を突き進んでいいのか、と。
「梓……」
結局、小さな呟きが炬香の口から漏れただけだった。
「伝話?」
美烑に押さえつけられて――尻尾まで使って抱きしめられていたために動けなかった梓は、炬香と他の雑霊たちが持ってきてくれた布団でそのまま雑魚寝した。
翌朝三人は、朝食を調達するために近くの川へ。炬香は応援、梓は釣りで、美烑は川に直接入り魚を掬っている。
既に6匹掬い上げた美烑は休憩がてら梓の近くに来ていた。丁度炬香も近づいてきたところで昨晩の話が出た。
「あぁ、こう妖気を震わせてだな……」
梓は炬香に対してした説明を繰り返した。
そして、
「えっと……」
「よっと」
梓が炬香を抱えて飛び退いたその先、
ドゴオオオオオォォッ
大気が震え、川の水が半分くらい吹き飛んだ。舞い散る魚や沢蟹たち。
「ひゅえぇぇ……」
「うっ……あ……」
「あ、あはははっ」
乾いた笑いを浮かべた美烑に梓が詰め寄った。
「お前は俺らを消滅させる気か?」
炬香の時とは比べ物にならない妖気が駆け抜けていった。あんなもの喰らったら梓も炬香もはじけ飛ぶ。
悪意がないだけたちが悪い。
「ごめん、加減がよくわからなくて」
「お前の場合は、囁くよりもずっと小さな声で言う感じで頼む。……俺達が死なない程度で」
「う……」
美烑としてはかなり抑えたつもりらしい。困った表情で固まった。
「と、とりあえずこの川が吹き飛ばないくらい妖気を抑えられたら大丈夫だと思うです」
炬香が助け舟を出して、練習の指針は立った。
「ところで、……何で『伝話』が必要なの?」
川に向かって練習を始めようとしたところで、美烑が振り向いた。
「ん?そうすれば戦いを手伝えるだろ?」
『ダメだよぉっ、お兄ちゃんはっ!!危ないでしょ?』
振り向いた美烑から殺人級の妖気が迸る。
「危ないのはお前だっ!」
転がって逃げた梓の後ろを妖気が通過、大木を2、3本軽くなぎ倒した後、林の中へ消えていった。
「で、でもさっきよりは加減できてたですよ?」
「すまん、炬香は黙っててくれ。話が進まない」
「何で炬香だけ除け者ですか、梓ぁっ!」
頭から突っ込んでくる炬香を片手でどけて美烑に向き直る。
「美烑ばかり戦わせるわけにはいかないだろ?」
「で、でもお兄ちゃん、その……戦えないでしょ?」
「っ……、そりゃそうなんだけどさ。別に直接戦うってわけじゃないんだ。
これから冬に入ると農家が休みになる。そうなると襲ってくる人間は増えるはずだ。今までのようにお前1人で戦ってたら、あっという間に囲まれて袋叩きだ。
だから、作戦を考えて……」
「そうじゃないよ。お兄ちゃんが戦ったら……、あたし達妖に味方して人間と戦ったりしたら……、もう戻れなくなっちゃうよ」
そういう美烑はすごく寂しそうだった。
「あたし達と一緒に居るところを他の人間に見られたら……」
「言っただろう?ずっと美烑達と一緒に居ると。もう俺は戻る気なんてないよ」
「でも、でも……」
美烑はあたふたと梓を見て、炬香を見て、それから胸元に視線を戻してとせわしない。
「お前は……いい加減自分を守ることを考えろよ。俺達を必死に守ってきたお前ならわかるだろ?傷ついてほしくない、怪我してほしくない、……死なないでほしい」
「……」
ぐに~っと美烑の顔を引っ張る。そしてぷにぷにと美烑の頬を撫でると、
「いい加減覚悟を決めろ。俺は美烑と炬香とここで生きていく覚悟をしたぞ。
3人で生きていく。
向かってくる人間は誰であろうと俺達の敵だ」
「お兄ちゃん……」
「勝つんだよ、俺ら3人で」
美烑はそれでいいの?というような顔をしていたが、梓が強く頷くと。
『わかった、あたしがんばるっ!』
ドッゴォォォォォォッ
「何をがんばる気だ、お前はっ!」
美烑の放った妖気の塊を梓は紙一重で回避した。
「あっ……はは、はははは……」
その隣では炬香が引きつった顔で木に張り付いていた。