序ノ幕 黄昏に浮かぶ3つの影
噴き出した鮮血が大地を染める。
「……ふぅっ! まぁったく、何度も何度もっ!誰が来たって同じだよっ! ただの人間があたしを倒せるわけないでしょっ!」
自ら生み出した血溜まりを踏み越えて、小柄な少女が前進する。
年の頃は12、3才といったところか。
ただしこの少女、人間ではない。
少女の頭部には明らかに人間のものではないパーツがついている。黒い毛が生えた先端が特徴的な、黄色基調の大きな獣耳。さらに腰には大量の毛でふっくらした、先が少し白くなっている2本の尻尾。
尾裂狐。
200年の時を経て、人間に化ける術を得た妖狐。
それが少女の正体だ。
狐耳の間に赤い髪留め。額に紅の刺青。
くたびれた巫女装束は胸のあたりがはだけている。着崩しているというわけではない。サイズの大きい服を無理矢理着ているといった印象が強い。黒い肌着が控えめな胸を覆っている。
主力武器・狐火を従えて、死屍累々の大地を進んでいく。
そんな少女の前にまた、1人の人間が立ち塞がった。
「がはははははっ! 人を誑かし、肉を貪り血を啜る、性悪な化け物め! 数多の妖怪を調伏した拙僧、重三院敦盛が退治してみせようぞっ!」
筋骨隆々、背は高いし声もでかい。おまけに汗が煌めき、肉体派オーラを撒き散らしている。
暑苦しいことこの上ない。
狐の少女はこの異様な存在に眉を顰めた。
「人間なんて脂っこい肉、もう食べないよ。……兎とかのほうがおいしいし」
食べたことはあるらしい。
「あ、でもでもっ、食べたのは狐のとき……、お墓を掘り起こして食べたことがあるくらいだからね。生きた人間は食べたこと無いよ。
最近は食べてないし、食べるつもりもないんだよ?」
「ふんっ、食べたことを認めたようだな。我が大槍の豪激っ、その身に受けて成仏せいっ!」
「ちょっとぉっ!? あたしの話、聞いてよっ!」
突きこまれた槍の風圧で、狐の少女の髪が舞い上がる。
「くうっ! もう、そんなんだがら、あたしはっ!!」
狐の少女は尻尾を振って体を傾け、大槍を回避する。そのままがら空きの胴体に迫り、
「……っ!」
人間よりはるかに硬く鋭いその爪で、筋肉を引き裂き心臓を打ち抜いた。
「うぐっ、ぐべっ!!」
どす黒い血が大地に新たなシミを作ったが、既に少女はそこに居ない。腕を引き抜くと同時に別の敵……人間へと向かっている。
「ひっ、やめっ!」
「殺されたくなかったら、近づいてこなきゃいいんだよっ!!」
「うわっ! あああぁぁぁぁっ!」
キュインッ
キィンッ
日の傾きかけた空に、人々の悲鳴と金属音そして一方的に蹂躙される音が響く。
「ふうっ! ……今日はこれで終わりかな」
狐の少女は手に付いた血を振り払った。
その眼前には新たに増えた死体の山。その向こう、本物の山に沈む夕日が少女の顔を赤く染めている。
「……」
疲れたような、少し寂しそうな少女の顔を、黄昏の風が撫でていく。
「美烑様ーっ!」
狐の少女――美烑に近づいてくる影が2つ。
ひとつは、人間サイズ。
ひとつは、人間の子供よりもさらに小さい。
名前を呼んだのはその小さい影のほうだ。名を炬香という。
「……炬香ちゃん、お兄ちゃん」
美烑は声に気が付いて振り返った。その美烑の胸に炬香が抱きつく。
「うわっ。……炬香ちゃんあたしまだ汚いよ?」
美烑はそう言って人間の血がべっとりついたままの自分の手を示した。
「炬香が自分で抱きついているから、大丈夫なのですよ~」
頭をぐりぐりっと押し付けながら、炬香は尻尾をふりふり。
それに合わせて黒い袴……、プリーツスカートにしか見えない布が広がる。そのスカートの下からは一本の狐の尻尾の他に、狐のような細くて小さな足が生えている。
この小さな娘も人外だ。
ただし、美烑のような妖狐ではない。どちらかといえば付喪神、西洋的な言い方をすれば精霊に近い。
「落ちそうになったらちゃんと俺が支えてやるよ」
「お前は来るなですっ、梓ぁっ!」
そしてもう1人。
こちらは人間。
茶髪がかった長い髪を肩の辺りでまとめた和装の青年。
名は梓。
女性らしい名前だが、彼はれっきとした男だ。
「相変わらず口悪いな、炬香は」
「ふんっ、炬香が主君と崇めるのは美烑様だけなのですっ。ちょっと手伝ったくらいのお前に懐いてやるいわれはないのですっ!」
炬香は梓に向かってイーッという顔をした。
実は梓も、美烑を討伐しようとしてきた人間の1人だ。職業は風水士。一般的には陰陽師といったほうがわかりやすいかもしれない。
梓がここにやってきた時、とある地縛霊が暴走していた。周囲の妖力やら魂やらを取り込んで、ますます巨大化していくのを前に、何もできずに呆然とする美烑がそこには居た。
普段の美烑なら、自分を襲ってくる人間の1人でしかない梓の言葉なんて聞く耳をもつはずもなかった。しかし、美烑も気が動転していたし、何より自分が何もできなかった地縛霊を押さえ込んで見せた梓に信頼できる何かを感じたのだ。
かくして地縛霊は成仏。残った妖気やら魂の欠片やらを、美烑が長年愛用していた櫛に収め、さらに鳥居の霊力と美烑の妖気で形作られたのが炬香である。
妖力を使っているという意味では美烑がお母さん、やり方を教えたという意味で梓がお父さんと言えなくもない。
梓としては、邪魔者を排除してさぁ戦いの準備は整ったというつもりだったのだが、美烑に感謝されたり、いつの間にか宴の席を用意されて歓迎されたりしているうちに、家族みたいな関係になってしまった。
終には「お兄ちゃん」とまで呼ばれる始末である。美烑の方がはるかに歳をくっているはずなのだが。
「そ、それでね、お兄ちゃんそろそろ……」
気が付けば美烑が上目遣いで見上げていた。
「ん?ああ、わかった」
美烑が目を閉じて祈るような顔をする。顔も高揚して唇が軽く開いている。
その小さな唇を梓が奪った。
「んはぁ……ん、んちゅぅ……」
軽く唇を押し付けるだけの軽いキスではなく、唾液を交換し合うような濃厚な接吻。
はっきりいってエロい。
「……(怒)」
美烑の胸の中で炬香が静かに怒っている。
それでも止めないのは、これが必要な行為だと知っているからだ。
暑苦しい人間が言っていた「肉を貪り血を啜る」という行為、それは妖狐として存在するために必要な精気を取り込むためのものだ。その代わりになっているのがこの濃厚なキスなのである。
狐は土性の陰獣……陰気を持つ生き物であり、自身の中で精気を生み出すことができない。普通の狐であるうちは精気が多かろうが少なかろうが大した問題ではない。
しかし一度妖狐になってしまうと事情が変わってくる。
妖狐はその肉体のほとんどが、霊力だとか妖気だとかよばれるエネルギー体で構成されている。その妖気を生み出すのに必要なのが精気なのである。
そもそも妖狐化する際に多くの精気がいるため、ある程度溜め込んではいたのだが、それも無限というわけではない。特に最近は人間に襲われることが多く、妖気を使ってしまうことが多くなってきた、というのも原因のひとつだ。
精気が減ってくると体が取り込もうと要求してくるようになる。
結果、他の生物の「肉を貪り、血を啜る」ことになるのだ。
「んぁっ……んちゅっ、んっんっ……」
粘膜接触を通じて梓の中で生成された精気を美烑が取り込んでいる。
しかしいかに風水や陰陽道の知識があっても、普通の人間が精気を吸われ続ければ最悪の場合死に至る。
精気を新たに生成するために必要なものがある。
それが狐の持つ陰気だ。
梓は、自身の持つ陽気と美烑の陰気を混ぜ合わせて精気を生み出している。つまり、美烑に精気を与えると同時に、美烑から陰気を取り込む必要があるのだ。
だからこそ唾液を交換し合う濃厚なキスをしている。
まぁ、お互い好きじゃなきゃそもそもしないんだけれども。
ものすごーくいやそうな顔をしながらも、美烑の頬を垂れてきた唾液を炬香が舐めている。炬香も人外であるため、精気を必要とするのだ。
美烑から直接もらってもいいのだが、もらった分だけ美烑が精気を失うことになる。炬香としては美烑に迷惑をかけたくないので、嫌々ながら梓の世話になっている。
3人がぺちゃぺちゃと体液を舐めあう音があたりに響く。
一見エロい光景だが、ここは腐臭漂う戦場だ。辺りを見渡せば、既に腐り始めた……数日前に返り討ちにされた人間の死体が転がっている。
そうしているうちに日が完全に山の向こうへ落ちた。
「んちゅっ、はっ……はぁ~」
ゆっくりと唇を離した美烑は、ぼーっと梓を見つめた。唇の端からよだれがつーっと垂れた跡が残っているのが相変わらずエロい。
炬香も似たような表情になっている。
「満足したか?」
「ん~」
顔やら髪やらを撫で回す梓の手に、美烑が頬を擦り付けて答える。
ひとしきり目を細めて甘えていた美烑が、満足したように目に力を入れて梓の向こうを見やる。
「それじゃ、……帰ろうか」
「ああ」
「はい、……って炬香より先に答えるなですっ、梓ぁ!」
3人が向かう先には林のなかへと一直線に伸びる石畳がある。その終点、山の頂には小さな赤い鳥居が立っていた。
鳥居をくぐったそこにあるのが美烑稲荷。3人が暮らす神社である。
ちなみに美烑の本名は「美烑の前」、または「美烑御前」。「まみあか」の真ん中をとって「みあ」と呼ばれている。
本名を「美烑御前」という以上、建前上はこの神社の御使いなのだが、本人曰く会ったこともないのだとか。