その4
エンは飛翔するように空を駆け抜けた。
鋭く高度を落とし、滑空していく。
目標は前方。吹き飛ばされ、虚空に身を泳がすネリスへと突き進む。
剣を横に薙ぐと、ネリスも空中で対応してきた。
青い光がネリスの体外に膨れ上がると、球体状の壁となった。
魔法の障壁だ。自然と身体を覆っている膜よりも強力な、防護の意志を持ったもの。
跳ね飛ばされたネリスは壁に守られながら落下し、着地と同時に地を穿つ。
そこにエンも飛び込む。やや上空から、剣を上段に構えてからの斬撃を障壁に叩き込んだ。
加わった衝撃が地面を大きく変形させ、破砕の轟音を鳴り響かせる。
音は続く。打つ音から刔る音へと。
エンの一撃から生み出された衝撃波が、赤い質量となってネリスの障壁を押し、後方へと引き摺っていった。
徐々に引き摺る力は弱まり、やがてネリス側からも押し込んでくる。エンも攻勢に転ずる機会を与えず、斬り込んでいく。
攻防が速度を生み、高速で地面を疾走する。
赤と青。炎と氷。熱と冷気。
赤の炎熱と青の氷冷が行く。
急激な温度差は大気を歪ませ、吹き荒ぶ突風となって空に怯えを教え、啼かせた。風圧で木々がざわめきの覚えとなる揺らぎを見せている。
荒れ狂う圧力は地面から土砂を巻き上げて、周囲の物へ打ち当たった。
二つの色は止まらない。
剣と魔法の攻防の中、純粋な力をぶつけていく。
押し進もうとするエンの力と、それを叩こうと待ち構えるネリスの力。
高速の中、衝突の一瞬の停止から景色が映り込んで来る。
先程、走ってきた渡り廊下が建物を挟んで奥に見えていた。現在は最初にいた場所へと向かって逆走している状態だ。
剣と全身を動かしながら、エンは高揚していた。
あのネリスと互角だ。いや、それ以上かもしれない。
魔剣の真の力が覚醒した今、とにかく勝利を信じて剣に心を乗せて振るっていく。
勝てる、と。
否。勝つんだ、と。
込み上げる想いは剣と心だけに収まらず、言葉としても飛び出した。
「ネリス! お前を倒す!」
「それは不可能ですわ! 何をその気になっているんですの? ――あなたごときが!」
エンの連撃を捌きつつ、ネリスが返す。
しかし、その表情に台詞ほどの余裕は感じられなかった。最初に何度か見せていた、挑発の笑みは消え去っている。
敵意を表しながらの、真剣な面持ちだ。
自分たちの力が通用している。それを理解できたエンは、攻撃の手を緩めない。更に攻勢を強めていく。
剣圧が障壁を斬り付け、火花を散らしながら、
「いや倒す! なぜなら……オレは絶対に、お前を倒すことを諦めないからだ!」
「根拠に乏しいですわね! そういうのは、ただの思い込みと言うんですのよ!」
ネリスは剣を弾き返し様に魔法を放つ。
直撃するが、魔剣の熱の防護で掻き消した。 舌打ちをし顔を歪ませるネリスに、今度は魔剣が言葉を繋ぐ。
《思い込みではない! 我らの力が一つになった今、負けるはずがないのだからな!》
「……ですから、それが――」
《違う! 思い込みを超越する、意志を信じた反逆を成し遂げる力だ!》
魔剣の強い語調に怯んだネリスに、エンが更なる声を続かせる。
「それがお前を倒す力だ!」
叫び、障壁に剣を突き刺した。
刃は氷の膜を前にして止まるが、噴き出す炎が表面を焼いて喰らい付く。そこから踏み込む勢いに膂力を加え、突き出した。
障壁に軋む音を出して、小さなひび割れを起こした。
音に反応してネリスが素早く身を引き剥がしにきた。
距離は取らせないと踏み込もうとするが、突如眼前に氷の壁が立ち塞がった。
剣で壁を切り裂く。開けた視界の先では、距離を稼いだネリスが腕を上空へと挙げていた。
その先には中空に滞在する四本の凍てつく凶器となる槍が浮いている。
あの魔法を使う余裕を与えてしまったエンは一瞬だけ悔しげな顔をしたが、すぐさま構わず前へとでた。
脚を止めてはいけない。ネリスの得意な撃ち合いには持っていかせないためだ。
そのための加速を敢行する。
攻撃の動きが来る。
一本目。一直線にこちらへと放ってくる。
速いが、今のエンならば見切れなくはない。
ステップを踏んで横に躱すと、続けて二本目が待ち構えていた。
こちらの足元へ着弾するような、急な落下の軌道だ。
エンは咄嗟の跳躍で避ける。足元で地面が穿たれた音がし、衝撃の風圧が髪を揺らめかせる。
三本目。空中で身動き取りづらいエンの身体に当てようとする投擲。
瞬時に身体を捩って、剣を押し当て弾き飛ばす。
四本目。最後は弾いた際に生じた隙を突く一撃。
だがエンは弾いた勢いを利用して軌道の更に上を行き、氷の槍を足場に駆け上がっていく。
そこから、またも跳躍する。
前方で再び槍を構えたネリスの、遥か上空へと跳んだ。
ネリスは空を仰ぎ見て、驚きを顕にしている。
エンは剣を振って炎の波を作ると、振り抜きのモーションと同時に放った。
それもネリスにではなく上空へ。狙いは本体ではなく槍だ。
炎で直接炙られた槍が溶けていく。
「なっ……!?」
ネリスの驚愕の声を押し込めるように、エンは斬撃を障壁へと叩き込む。
気を取られて防御姿勢でなかったネリスが、背後へと退いた。体勢を立てなそうと正面を見るネリスに、エンは突貫した。
「うおおおおおっ!」
加速の勢いを全身から剣に移し、前方へと突き放っていく。
障壁に激突すると、先ほど欠けた部分から大きな皹が入っていき、ついに防護の力を砕いた。
だが、それだけでは止まらない。
剣は届かないが、貫く威力を纏った炎はネリスまで延びると、熱の壁となるように衝突をみせた。
強烈な高熱の打撃が入り、ネリスの身体は吹っ飛ばされる。
炎は周囲に拡散し、地面で爆ぜては直線の通り道を造りあげていく。
その到達点には建物があった。ネリスは背後にまで迫っていた校舎の壁を突き破り、室内の暗闇へと消えていった。
破壊された校舎の一角から激しい砂煙が立ち上がり、夜空へと昇っていく。
「おおお……!」
エンは勝利を告げるような、雄叫びを上げた。
魔剣も赤い光を輝かせ、その状況を讃えている。
しかし熱は冷めてはいない。逆にまだ燃え上がっていく。更に激しい炎の渦が、全身を駆け巡る。
今や静まり返った場に、咆哮と光と熱だけが暗闇の中での特異な現象となり、存在を示し続けていた。
ネリスは身体の激痛を無視して立ち上がった。
眼前には破壊された壁や、室内の備品などが散乱していた。
背後には部屋の扉が、廊下まで飛び出していた。ネリスの背中を受け止めたことで、無残にも変形してしまっていた。
前方を見る。殆どが薄い暗闇だが、そこで赤い光を放ち続ける物がある。
ネリスを吹っ飛ばした張本人である少年だ。
彼の全身には爆発した灼熱の炎が吹き荒れ、その猛威は止まるところを知らない様子だった。
……こんなこと有り得ませんわ……!
ネリスにとって、これほどの相手との戦いは初めてのことだった。イリーやライナとの戦いでも、ここまでのダメージを負ったことはない。
それなのに今、確実に追い詰められている。しかもこんな名前も知らない、一介の剣士などに。
そんなことはありえない。あってはならない。決して自惚れなどではなく、積み上げてきた実績で裏付けされた根拠がある。
自分は最強クラスの魔法使いだ。太刀打ちできるものなど、他の勢力の三人を除き、他にいるはずがない。
ずっとそうだった。あまりに圧倒的な実力で、他の生徒から尊敬と畏怖の対象とされてきた。常に他の者の上に立ってきたことでの威厳と自信もある。
だからだ。だからこそ。
このネリスリッド・エトワルドが負けるなどということは、絶対にありえないのだ。
ネリスはいつの間にか握り締めた拳が、震えているのを見た。その腕に力を込め、更に震わせる。
怒りだからだ。決して恐怖ではないと言い聞かせるように。
それからネリスは相手のことを考えた。
まずあれは一体なんだ、と。剣が喋るのはこの際放っておくとして、あの沸き上がる炎はなんだ。
あれは魔法ではない。
その理由は単純で、魔法は個人で容量が決まっているために、一定以上の力は出せないからだ。
だが、あの少年は違う。彼の攻撃は明らかに強くなっている。最初の炎の攻撃は全く効かなかったが、次の炎はダメージを受けた。そして先程の殴り付けられた炎は、それよりも遥かに強烈だった。
威力は使用者の気力によって多少の上下はするが、こんな爆発的に強くなることは理論的にありえないことだ。
手加減の線はないだろう。する理由がない。しかも彼はこちらの攻撃で手痛い負傷までしている。そんなリスクを背負ってまで、わざわざ手加減する意味はない。
段階的に強くなっていった、と考えるのが自然だ。
だから魔法ではないという結論になる。
では一体何なのか?
その答えをネリス持っていない。ただあの喋る剣が、少年に何らかの力を与えているのは推察できた。
そこで思考を切り替える。
相手がどうだと考え過ぎたところで意味がないからだ。
どんな敵だろうと、自らの力で捩じ伏せる。今までそうしてきたようにだ。
ネリスは深く息を吸うと、歩き出す。
校舎への配慮か、向こうから動きを見せる気配がなかった。それか余裕を見せているのか。後者ならば、その行動を間違いだと言える。いま相対している敵は、そこらの平凡な魔法使いではないのだから。
校舎から出ても、歩みを止めなかった。校舎を背にしては、お互いやりにくいからだ。
ネリスは校舎を横目に確認できる場所まで移動すると足を止めた。少年も片手で剣を持ち上げ、身体を正面へと向けてくる。
改めて近くで見ると威圧される。
彼を取り巻く炎もそうだが、彼の瞳の力強さにもだ。こちらを射抜くような視線を送ってくる。その瞳に炎が映り、紅く光っている。
深い眼だった。どんな絶望にも屈しない強い瞳。ネリスにとって危険すぎる眼をしていた。
なんとか動揺を隠すための態度を取るが、そこでまた言葉が生まれた。あの剣からだ。
《燃やせ、心を!》
応えるように、少年が剣の切っ先をこちらへと向けた。
少年の炎も更に猛り、こちらに喰らい掛かってきそうな勢いだ。
ネリスの全身に悪寒が走り、震えをもたらした。
一体、何だと言うのか。
こんな少年が、こんな剣が何だと言うのか。
いくら強く意気込んでも、理性で抑え込もうとしても、振り切れるものではなかった。
このどうしようもない不安。自分はこの少年と剣を恐れている。それだけは本能で理解できた。
……何かしなければ、飲まれてしまいますわ……。
自身に言い聞かせるようにして、固まっていた身体を動かす。
まず動いたのは口だった。上手く機能しなくなっていた喉から声を振り絞る。
「何なんですの……あなた『たち』……!」
ネリスの正直な疑問だった。
自身を脅かすほどの力を持つ存在。いるはずはないと思っていた、自身を超えるかもしれない存在。そんな存在に対して沸いてきたものだ。
しかし答えは待たない。
なぜなら相手が動きを見せていない、今の状況は好機だからだ。
腕を上げる。集まる冷気が一瞬にして四本の氷の槍を生成した。
今なら速度もなく、無防備な状態だ。躱し切れないだろう。卑怯ではない。相手も武器を構えたのだ。それは戦いの意思表示。いつ攻撃されても、文句は言えない。
そこには一瞬の迷いもなかった。攻撃の動作に転じたと同時に槍を飛ばす。
しかも四本一辺に、だ。
一本だけでも強力な一撃を、凌げるものか。そんな思いを込めて繰り出した。
だが氷の凶行は少年の身体に触れる前に、呆気なく掻き消される。彼の身に纏う炎に、喰われたのだ。
ネリスは戦慄する。冷気の扱いに長けたはずの自らが、凍り付いたような嫌な感覚だ。
攻撃を躱すのではなく、先手を打って無力化するでもなく、避ける必要さえないということ。
そして少年が一歩を踏み出す。
音がきた。地面を踏み締める短い音。
続くのは声だ。それも二つ。
どちらもが力を帯びていた。問いに対し、絶対の自信を持っていると主張するような、力強い言葉が返ってくる。
「オレは……!」
《我は……!》
少年が地面を蹴った。身体が速度を得ると、彼の周囲から炎が噴き上げる。
纏った熱の中心から、二つの重なる声が響いた。
『――炎の反逆者だ!!』
その回答は完璧だった。
力。速さ。気力。あらゆる強さを詰め込んだ、全霊の剣と炎が来る。
あの剣が言った通りのものだ。
反逆を成し遂げる力。
その言葉に相応しい一撃で、立ち向かってきた。
あまりに完璧な姿に、ネリスも本来の姿を取り戻していた。
なぜなら、自分は王なのだ。王は挑戦者を前にし、動揺したりはしない。どんな相対者でも、持ち得る最大限の力で屈服させる。それが王の戦い方だ。
ネリスは正面を見据える。もはや怯えを忘れ、慢心も捨てた。ただ純粋に、刃向かう敵を倒すためだけの力を行使する。
それはネリスの中で最強の魔法だ。槍が効かない以上、もう残された技は一つしかない。普通の人間相手では、殺してしまうかもしれない威力を持っている。
だが構わない。それほどの覚悟で向かって来る相手だ。自身の最高で叩くに値する相手だからだ。
ネリスは両腕を広げ、全身に青いオーラを集中させる。 狙いは必要ない。接近してくる少年を鋭い視線をぶつけると、両手を交叉して前方へ突き出した。
発動する。
ネリスの足元が凍り付くと、瞬く間に周囲へと広がっていった。全てが凍っていく。土も、草も、木々も、人工の廊下も建物も。大気すらも襲う冷気の猛威に、温度を奪われていった。
ネリスを中心に氷の柱が突き上がる。
そして少年に到達すると、纏わり付いた氷が彼の全身を凍らせ固まらせ、氷は柱のように空高く伸び、やがて内部へと閉じ込めた。
それはまるで氷の柩。抵抗すら許さず、極寒の檻へと葬り去った。
界隈は白色に包まれ、仄かな光を放っていた。
静まり返っている。動作を起こすもの全てが、凍ったからだ。まるで時すらも凍てついたように、流れを停止させていた。
何もかもが動かない。
その中で透き通る氷が生み出す輝き。凍らせた物の活力を吸い上げているような光だけが、地面と空を照らしていた。
それ以外は何もない。そのはずだ。
しかしそこへ違和感が入り込んでくる。
白い光だけでなく、僅かな赤があった。微弱な点滅を繰り返し、混じっている。
柩の中からだ。
少年と剣の外郭を赤い光線が覆っていた。
点滅は徐々に感覚を短くし、ついには絶え間無く輝きを発し始める。
ネリスはその光景を、息を飲んで見つめていた。自らも停止する風景の一部分となって。
首筋を流れた冷汗が、周囲の氷よりも冷たく肌を撫で付けていた。
エンは凍えそうな中でも、消えることのない熱を感じていた。
全身は凍って動かない。指の一本を動かそうにも、感覚が麻痺している。こんな寒さでは、血液の流れすらも固まってしまいそうだ。
それでも確かな温かさだけはあった。体内から溢れるような、体外から覆うような。よくは解らない感覚だ。とにかく温かいことだけは感じる。
魔剣の加護なのだろうか。防護機能がなければ即死だったかもしれない。
視線だけを下方に持っていくと、魔剣も凍っているのが見えた。残った温度を支えにして、口元から気力を振り絞る。
「おい……魔剣……」
《なんだ小僧》
この寒さと身動き一つできぬ身体でも魔剣の口調はしっかりとしたものだった。
エンはそこに安心を覚え、唇の端を吊り上げ笑みを作ると、
「まだいけるよな……? 勝てるよな……? こんな氷すぐに壊して、ネリスをぶっ倒せるんだよな……!」
氷の内部に響く声は、力強さを増していく。それに答える声もまた、頼もしかった。
《当然だ。我は魔剣だぞ。造作もないことだ》
じゃあ、とエンは言葉を漏らしてから一度切り、次に全身を動かし始める。張り付いた氷が、肌を刺すような痛みを与えてくるが構わない。
残った温かさを頼りに無理に動き、神経を回復させると、指先に力を加え魔剣を握り締めた。
そしてエンは言う。凍えそうな中でも、途絶えない熱を持った想いで。
「行くぞ、反逆者! オレたちが望む場所に行くために、オレがこの心を燃やす!」
《行けよ、反逆者! 我らが向かう場所に立ち塞がる者あらば、我が炎で貫き通す!》
心が共鳴していく。
微弱だった温度は跳ね上がり、全身から熱が放出される。溶かされていく氷が蒸気となって、内部で濛々と立ちこもった。
『おおおおおお……!』
エンと魔剣が同時に雄叫びを上げた。
体内で溢れてくる熱を吐き出すかのように。
叫びにつられ炎が甦る。炎は一面の氷の上を駆け抜け、溶かしていった。
氷だけを綺麗に消し去ると、大地に息吹を呼び起こしていた。溶けた水気が草や木々に潤いを与えた。
雫が吹いた風に運ばれ、空中に広がっていく。細かな水滴の一滴ずつが炎の色を写し取り、夜空を鮮やかに彩る。
『……おおおおおおお!』
止まらない灼熱を呼ぶ咆哮。
エンは止まっていた時をも呼び戻す、加速を見せた。反逆を完遂するための一撃を入れるために。
障壁を展開したネリスに突っ込んでいく。
しかし怯まない。速度を緩めることなく、大上段の斬撃で踏み込む。覚悟を決めた剣だ。
鋭い剣閃に、爆発した炎が続く。
一直線に延びていく炎は、けたたましい音を上げ衝突する。荒れ狂う焔の獣が、ネリスの障壁を突き破った。
エンが行く。
暴れ回る炎の中で、その身を打ち付けながら焼かれるネリスを斬り付けた。
この一撃に想いを乗せた。
失った大切な物を取り戻す。奪われた物を返してもらう。この熱い想いを持った魔剣と二人で、必ずやり遂げると。
それが終わったとき。
反逆が終わりを告げたとき。
言ってやりたい。オレたちが魔法に、世界に、運命に反逆する者なのだと。
暴走した熱量の塊は上空へと駆け上がって行き、闇を紅く染め、見えなくなった。
炎が止む。あれだけの激しい一撃にも関わらず、周囲への被害は感じられなかった。
ただ一つ。仰向けに倒れ、気を失っているネリスを除いてはだ。
エンと魔剣の反逆は終わった。
学園最強の一角と言われた、ネリスを倒すという快挙を成し遂げたのだ。一介の剣士と不思議な剣。二人の反逆者によって今、達成された。
エンには、まだ実感が湧かなかった。
死闘の後に残ったのは静けさと、吹き抜けた風だけ。
そしていつの間にか視界には、空と星だけが広がっていた。
《小僧……! おい、小僧……!》
微かに声が聞こえる。
もう一人の反逆者の声だ。焦っているような語調だった。
どうしたのかと思い、視線を移そうするが、なぜだか上手くいかなかった。
力が入らない。もう意識を保っているだけでも億劫だ。
……疲れたから、また後にしてくれ……。
エンはゆっくりと瞼を閉じた。最後に意識が途切れる瞬間、こちらを呼び掛ける声が変化した。
何を言ってるのかは、もう解らない。
しかし今まで厳しく当たってきていたその声が、不意に優しさを持ったような気がした。
そんな印象だけが、深く残った。
翌日。
エンは学生寮の廊下を歩いていた。
周囲の生徒がエンを見かける度に、奇異な目を向けたり噂話をし始める。
あからさまなので伝わってくるが、本人はそんなこと至って気にしてない様子だ。
あの死闘の後、エンは気付くと医務室のベッドに横たわっていた。隣にはネリスが眠っていて目覚めは最悪だったが、すぐに勝利した実感が湧き、嬉しい気持ちで満たされた。
ベッドから起き上がると、近くにいたライナが飛び付いてきたりと色々大変だった。
だが、それ以上に大変なことが起こっていた。魔剣の話によれば、ネリスが敗れた報は、瞬く間に学園全体に広がったらしい。ネリスを倒したエンガード・フレイムハートは、炎の反逆者の二つ名と共に、学園中に知れ渡ることとなったのだ。
そんなわけで良くも悪くも注目や噂をされるのだが、今のエンにはそんな些細なことはどうでもよかった。
軽やかな足取りで、寮から渡り廊下へと出る。
目指すは訓練所だ。
そう。あの場所はもうエンが所有する土地となったからだ。
気分は最高潮だった。まだ死闘のダメージが抜けてはいなかったが、浮かれる気持ちを抑え切れず、気付けば自然と足が向かっていた。
これから仲間たちを呼び戻し、また剣術訓練に励む毎日が待っている。
そう思うだけで笑みが零れてくる。
腰で揺れる魔剣の音も、心地好い音色に聞こえてくる。
エンは嬉しさの余り、意味もなく魔剣を引き抜いた。
すると近くにいた生徒たちが、ひ、と短い悲鳴を上げると、一目散に逃げていった。
そんな様子など見えてないエンは、魔剣の刀身だけを見つめる。今は真紅から、通常の白銀に戻っていた。
満面の笑みで眺めるその姿は、傍から見ると完全に危険人物である。
「なーなー、魔剣」
《なんだ小僧》
相変わらず平坦な声だが、そんなことは気にせず、
「昨日の凄かったな! なんかお前が赤くなってー……なんか燃えるやつ!」
《その語呂の貧困具合も凄いと思うがな》
「えー? あれだよ、あれ。お前がごごごってなって、オレのこの手が真っ赤に燃えて、身体がしゅごー! ぼぼぼぼぼって! 勝利を掴めと、どどどどどっ!」
《更に酷くなったぞ!》
「まー、とにかく凄かった!」
興奮覚めやらぬ口調のエンを前に、魔剣が光を発し、
《当然だ。あの状態は全ての炎を支配している状態にあるのだからな》
「へぇー……あ、じゃあさ、もしかしてあの状態で火とか触れても……?」
期待の眼差しのエンに、魔剣は、ああ、と同意する返事を送ってから、
《無論、火傷する》
「全然支配してなーいっ!」
僅かにがっかりな感を見せつつ、また歩を進め始める。
それからエンはまた思い出したように言った。
「そういえば、お前さー……オレが心を燃やすと強くなるんなら先に言ってくれって。気付くまでに危うく死ぬとこだったぞ?」
《言ったところで、どうこうできる問題でもないからな。それに『燃やさないと』といった強迫観念が、逆に雑念となって妨げになる可能性もあった》
「それは……そうかもだけど。でもこれからはちゃんと、大事なことは言ってくれよ? こっちも契約した身なんだし」
《詳しい事情は何も聞かず契約するとは、凄く勢いで生きてる感あるな、おまえ》
「あ、おまっ! それオレの……!」
まさかの返しにエンは渋面を作ったが、すぐさま柔らかく崩した。
……全く変な奴だよな。
なんだかんだ言っても、自分と魔剣の相性はいい気がした。こいつとならば、これからも上手くやっていけると。そう思えてくる。
理論的ではないが、それでいい。
なぜなら感情で生まれた関係だからだ。感情で心を燃やすことでの絆だ。そこに理論は要らないのだろう。
……これからも頼むぜ。
とは言っても、これ以上は戦う必要もないので、昨日のような死闘もないとは思うが。むしろあんな戦いを日常的にやってたら命がいくつあっても足りない。
それでも魔剣と生活はして行きたい。今度、仲間たちに紹介しよう。きっと楽しくなるはずだ。
エンは温かな気持ちを胸に秘めた。
すでに訓練所の前まで来ていた。
一息を吸って、早まる気持ちを押さえると、ゆっくりと扉を開く。
訓練所はあのときの内装に戻っていた。
日の当たる、小さな窓辺。本棚に並ぶ戦術書。隅には立て掛けられた、多種の武器がある。
飾り気のない部屋だが、そこがいい。
エンにとって馴れ親しんだ風景そのものだ。空気まで当時のものに思えてくる。
深呼吸をして、空気を取り入れる。あのとき空気だ。
もう一度吸ったエンは、そこで違和感を覚えた。
よくよく嗅いでみると、部屋内に異質な香りがしたからである。
鼻腔を擽る、少し甘ったるい匂い。これは紅茶だ。
エンは匂いのする方角に目を向ける。
……あれ?
部屋の中央に、一人の少女がいた。
金髪ロングで豪華な装飾を施した制服。
ネリスである。彼女は部屋の雰囲気に合わない、やたら高級そうな椅子に足を組み、腰掛けていた。そして同じく高級そうな机に置いてあったカップを手に取り、優雅に紅茶を啜っている。
……なんで?
なぜネリスが、この部屋にいるのだろうか。ここはもう彼女の土地ではないはずなのに。
沸いて来る疑問に対処できず、魔剣に視線をやった。魔剣も事態が飲み込めないのか、何も反応がない。
このままでは事態が進展しない。
意を決し、エンはネリスとの対話に望む。
「あのー? ネリス……さん?」
「あら、ごきげんよう」
「あ、ああ、ごきげんよう……じゃなくって! どうしてここに?」
それを聞いたネリスは不適な笑みを浮かべ、
「一応正式な決闘に負けましたので、わたしく今日から暫くここにお世話になることにしましたわ」
「えぇ!?」
さらりと飛び出した衝撃の発言に、エンが盛大に嫌そうな顔を見せる。しかしネリスはさも当然とばかりの態度をしている。彼女はそんなエンを見て、
「あら? まさか嫌ですの?」
「まさかじゃなくて嫌なんだっ!」
「……あら? もしかして嫌ですの?」
「言い方変えても嫌だからっ!」
するとネリスは溜息をつき、紅茶に口を付けてから、
「わかりましたわ。そこまで言われるのでしたら、仕方がありませんわね。――勝手に居座りますわ」
「ちょ……なんで!?」
「深い理由はありませんわ。わたしくと貴方は敵同士でしたのよ? ――嫌がらせに決まっていますわ」
「浅っ! 確かに浅いけど悪質っ!」
「悪質だなんて心外ですわね……きちんとした解決法もありますのに。嫌がらせを止めてほしければ、同意をすればいいだけですわ」
「どっちにしても嫌だーっ! 手口からして悪質極まりないからなっ!」
「……というわけで、よろしくお願いしますわね」
「強引にきたーっ!」
ネリスは完全に居座る気満々だった。
どうしたものかとエンが苦悩していると、今まで無言だった魔剣が沈黙を解く。
《おい小僧》
「なんだ魔剣」
《確かにこれは一大事だな。まさかお互いが了承した決闘の場合、負けた方がその勢力の傘下に入らなければならないとは――はは、まさか誰も思ってもみまい。しかも再戦の希望は最低でも一ヶ月後とは……ま・さ・か! そんな制度まであるとはな!》
「お前知ってたんじゃねーかっ! どう考えても知り尽くしてるだろ!」
《とにかくだ、小僧》
魔剣はそこで一度区切り、ややあってから赤色の強い光を放った。
《これハーレムいけるなハーレム!》
エンは急いで訓練所から飛び出すと、右手に持った物体を全力で遠くへぶん投げた。魔剣は遠くの草むらの中に消えていった。
《こら! 何をするか拾え馬鹿者!》
ゼイゼイと肩で息をつくエンの背後から、威勢のいい快活な声が響いてくる。
「貴方ついてますわよ! このネリスリッド・エトワルドと一緒の時間を過ごせるだなんて! ――あ、ここの内装も、もうちょっと替えておきますわね? わたくし見た目が質素なのって我慢なりませんの」
エンはもう何も言う気力もなく、地面に膝をついて頭を抱え、その場でうなだれた。
遠くで何かが抗議の声を飛ばしてきてるが、それは全力で無視した。
「どうしてこうなったぁーーーっ!」
耐え切れなくなり、空へと不満を投げ付ける。
空はそんなエンの心情とは裏腹に、雲一つ無い快晴だった。