その2
エンは身の震えを感じていた。
理由は目の前の少女。ネリスから伝わる威圧感だ。
彼女は装甲を着けてもいないので、体格的にも目立つタイプではないはず。
それなのに異様な存在感がある。
そして理解した。彼女は危険だと。上手くは言い表せないが、本能がそう言っている。
ネリスは何も言わず、軽く腕を上げた。
反応したエンの視線よりも、更に明確な対応を取ったものがあった。
彼女の部下たちだ。素早く囲いを解き、ネリスの背後で一例に並び待機した。隊列には寸分の乱れもなかった。
ネリスは下げた腕を胸の前で組み、エンを見た。
その瞳には激しい怒りが篭められていた。漂う冷たい殺気に同調し、周囲の空気の温度を更に低下させる。
「あなた解ってますわよね?」
鋭い視線で射られ、エンは付き纏ってきた恐怖に身を硬くした。上手く機能しない唇を噛み、喉の奥から振り絞るように声を出そうとする。
だが答えるよりも早く動作がくる。ネリスが片腕を軽く前方へと振った。
すると地面から二本の氷が噴き出し、こちらへと走ってくる。
エンは動かなかった。氷の走った先はエンから少し左右に逸れた軌道だったからだ。しかし氷が真横を通り過ぎると、冷たく打ち付ける風に押され一歩を下がった。
今のは威嚇の一撃だろう。魔法から生まれた、ただの風圧にさえ退いてしまった。
足が竦んでくる。こいつはやばい。他の生徒なんかとは比べものにならない強さを感じる。
恐怖に呑まれそうになるエンの手元から声が掛かった。
《怯むな! 貴様の前に立ちはだかる敵は、我が炎で焼き払う!》
魔剣からの鼓舞に気を持ち直したエンは、剣を構え握る手に力を込めた。
剣に意識を集中し、強い力をイメージする。
前方のネリスは目を見開き驚いていた。魔剣が喋ったのを間近で確認したからだろう。
その隙を突いて剣を振り払った。虚空を裂くだけの動きだが、そこに熱が生まれた。
炎の波。剣から吐き出された、焼き付くす力を持った奔流だ。うねりを上げて一気にネリスまで到達すると、抵抗する間も与えず彼女を飲み込んだ。
炎に包まれていくネリスを見て、背後からざわめきの声がする。
その反応を得たエンは肩から力を抜くが、
《なんだと……!》
打って変わって重い声を出したのは魔剣だった。
エンは原因がなんであるかをすぐに理解し、剣を構え直した。
炎はその効力を果たし、散っていた。
だが中心にいたネリスは悠然とその場に立っている。腕を組んだままの姿勢で、その場から一歩も動いてない。制服もそうだが、髪の一本にもダメージがなかった。
あれだけの炎でも全く効果がないというのか。
周囲からはすでに先程とは真逆の安堵の空気が流れていた。
戦慄に固まっていると、ネリスが動いた。
長い髪を指で梳いてから弾くと、大きく揺らし、
「ふふ、面白い手品ですわね?」
口調は軽いが視線はこちらを刺してくるものだった。そして余裕の態度から、また腕を振った。
さっきと同様に氷がくる。今度は正面のエンを目掛けてだ。高速で地を這う冷気の塊が迫る。
エンは魔剣を前に出す。
熱の壁が前方で氷を遮ろうとするが、氷は止まらなかった。壁とぶつかると大きく広がり、壁ごと押し潰す勢いだ。エンの足元が背後に引き摺られ、ついには防御が破壊された。
衝撃で吹き飛ぶエンの元へ連続で氷がくる。寸前で真横に飛んで身を躱した。転がる体勢から身を起こすと、走り出す。
一瞬でエンがいた地面が氷漬けとなった。
一撃を抑えるだけでもきつい攻撃を連発できるネリスに、エンは恐ろしさを抱くしかなかった。
氷のネリスと呼ばれる少女の底知れぬ力。それに逆らうのがどれほど愚かなことなのか。身に染みて解った。
《逃げろ小僧!》
言われなくてもすでに行動で同意していた。エンは渡り廊下側に走り出す。背後から迫った氷を振り切り、廊下を駆けていく。
すでにネリスも追ってきていた。怒気を全面に出した形相で、
「待ちなさい! 逃げるなんてどちらが腰抜けですの!」
言うと掌から細かい氷の塊を呼び出し、高速で撃ち出した。
氷の弾はエンの背後を刔り、足元にまで到達する。
エンは速度を殺さず斜め前へのステップを踏んで避ける。
どこか身を隠せる場所はないかと辺りを見回す。廊下の端には色々な建物があるが、どこも扉が閉まっていて入れない。
このまま吹き抜けの渡り廊下を直進して裏庭に逃げるしかなかった。
ネリスは脚も速く、こちらと互角くらいだった。
しかしこちらは弾を避けながら進んでいるため、差は徐々に詰まっている。
頭上に放ってきた弾を屈んで対処すると、廊下の終わりが見えてきた。建物の影から裏庭の木々も確認できた。
エンは回避行動を捨て速度を上げると、廊下を渡り切って建物の影へと飛び込んだ。
そして地面を脚で強く踏むと、身を反転させて加速を回転する力の向きへと持っていき剣を振り払った。
この位置からの攻撃は一瞬とはいえ、ネリスの死角になっている。しかもネリス自身も速度に乗っているため、急な対処は困難なはずだ。
この奇襲が成功すれば形勢は逆転する可能性もある。そこまでいかなくとも剣での近接戦に持ち込める。距離をとって戦うのは分が悪すぎるが、剣でならという思いもあった。
エンはこの一撃に力と期待を注ぎ込んだ。
思惑通りネリスが飛び出してきた。眼前の状況を見て身を止めたが、もう刃はネリスへと届こうとしている。
だがネリスはそんな危険な状態でも顔色一つ変えなかった。
衝突音が響く。
斬った音ではない。刀身と何かがぶつかった音だ。
そして手応えもなかった。それが意味するものをエンはしっかりと理解した。現在の状況が答えとなって目の前にもあるからだ。
剣はネリスの手元で圧縮された冷気によって防がれていた。しかも片手で、だ。軽々と受け止められた。
エンは絶望に支配されそうになったが、振り切って全身に力を入れた。
切り替えして近接戦へと持ち込む。
速度重視の連撃でネリスへと剣を走らせる。刃がネリスに向かうが、身体に届く前に氷の膜のような物に遮られてしまう。
頭にも胴体にも手足にさえも届かない。突きでも通らない。
その様子を見ていたネリスは口元を歪めて笑みを作る。感情のない上辺だけの冷たい笑みだ。
それから手元の冷気を前へ出した。エンが剣を当てて押し返そうとするが、冷気は炸裂しエンの身体は吹き飛ばされた。
背中から地面に倒れるが、痛みを堪えてすぐさま立ち上がった。
そこにネリスの氷の弾が容赦なく追撃する。
エンは近くの木の影に走って身を隠した。木が削られていく音が響き、次には背後が凍り付いた。
木が凍っている。氷によって、その生命力を奪われてしまっていた。
影からネリスを覗くと、彼女は腕を振ろうとしていた。
地面からの轟音と同時に木から姿を見せて走り出す。背後で木が粉々になる音が聞こえるが、振り返る余裕などない。前だけを見て駆け抜け、建物の影へと移った。
壁を連打する音は響くが、こっちなら多少は持ちそうだった。背中を預けて休んでいると、ネリスが弾を放ちながら声を上げた。
「あらあら、もうおしまいですの? つまらないですわ」
尊大な語調だ。こちらとの力量の差を踏まえた上での、あえて見下してきた言葉である。
エンは何も言い返せない。事実全く相手にもなれていないからだ。剣も炎も通じず、逃げるのが精一杯な現状で強気に出ることなどできなかった。
しかしエンの沈黙を破るものがあった。それは手元からの、
《一つだけ言っておこう》
魔剣の平淡な声だ。
だが感情の掴みづらいこの声が、今のエンには心強かった。これだけの力の差を前にして冷静でいるということ。それほど自信がある証拠になる。
エンは魔剣に、言い返してやれ、と目線で伝えるように、勇んだ気持ちで見ていた。
僅かな合間の後、魔剣は言葉を繋いだ。
《こいつの特技はこうやって剣に腹話術をさせることだ。従って剣に罪ない。許してやれ》
「おまえ何急に保身に走ってるんだっ!」
《何を言う。我はただ状況がどちらに転んでもいいように便宜を図っているだけだ》
「それを保身っていうんだよっ!」
耳元で壁が削れる音が響く。
氷の弾ですら建物の壁を破壊するのに数分も掛からない威力だ。恐らくやろうと思えば、一発で破壊できるはず。こうやってじわじわと追い詰め、なぶり殺しにしていく腹だろう。
壁が連続して打ち付けられいく。強度を保てなくなった壁の一部が吹き飛び、地面を叩いた。
《一先ず仕切り直さないとまずいな》
「でも、どうやって?」
《交渉ならば任せろ》
自信に満ちた口調の魔剣。
そのまま強い光を発生させる。魔剣が大声を出すときに起こる現象である。
《聞け、ネリスリッド・エトワルド!》
周囲へ響き渡った音を契機に、攻撃が止んだ。
続きを待っていたのか、向こうからの応答はややあってから、
「何ですの? 降伏なら聞きませんわよ?」
《そうではない。一度仕切り直してから戦おう》
「はあ……?」
魔剣の要求にネリスは不快そうな言葉を返した。当たり前だ。絶対的に有利な状態でもなぜそんなことをしなければならないのか。エンでさえ、そう疑問に思ってしまった。
だが魔剣は自信満々な態度を崩さない。
《解らんのか? ここで建物を巻き込んで戦えば、生徒や教師からネリス派閥への不満が出るだろう。だから一度停戦し、西側の戦闘訓練区域で戦おうと提案している》
それとも、と前置きし続けて、
《一時の感情に身を任せ、破壊活動を続けるか? それでは学園を手中に納めようとする者としての裁量に欠けるのではないか? それに今我々を叩かなくても、貴様の実力ならばそのくらいの猶予を与えても全く問題はなかろう?》
「た、確かに言われてみればそんな気もしますわね……」
ネリスの口調が迷いを帯びている。
……すげぇ! 見直したぞ!
エンは胸襟で魔剣を称賛した。
建物への被害は盾にしてるエンが悪いというのに、それを巧みな話術で正当化している。しかもネリスの立場も利用して心証が悪くなりそうな不安を煽り、尚且つ納得のいく要求にこじつける。
もはや完全にこちらの思惑通りに事が運びそうな展開になっていた。
あとは仕切り直してから、どうやってネリスと戦うかだ。エンには万策尽きてはいたが、魔剣には打開策があるのかもしれない。そうでなければ、このような作戦をしても意味がないのだから。きっとあるはずだ。
希望が見えてきたエンは、魔剣を強く握り締めた。まだ戦える、との意思表示を込めて。
魔剣は、解ってる、と言わんばかりに無言で薄く光ってから、返答に詰まっているネリスに向かい、
《簡単な選択だぞ、ネリス。我々の要求するものはこうだ》
一息をついてから、
《いいからつべこべ言わず一旦黙って失せろ! このデカ乳女っ!》
直後に背後の壁が一撃で破壊された。
薄暗い空間に赤髪の少女が立っている。
ライナだ。ネリスと同じような空間から、一つの戦いを見守っていた。
その表情は憂色を隠せないでいる。
画面には氷を撃ち放つネリスと、逃げるエンの姿が映っている。
エンが突如起こした騒動は途中から見ていた。しかし、まさかネリスに直接勝負まで挑むとは。
驚愕だった。これはライナだけでなく学園中の人間がそうであろう。
だがエンのことをよく知るライナにとっては、他の者以上に思うところがあった。
……どうしてこんなこと……。
無謀過ぎる。先程まで一介の剣士だった彼が、学園最強の一角であるネリスに勝てるわけがない。
ネリスとは敵対しているし、正直気に入らないところがある。しかしその実力は本物だ。幾度か直接対決したが、勝敗はつかなかった。
同じく学園最強と言われた自分ですら引き分ける相手なのに、エンが敵う道理がない。自惚れではなく、それが魔法の才能を持たないエンにとっての非情な現実である。
しかし今のエンにはおかしな点もあった。
剣術一筋だったはずの彼が、急に炎の力を使い出したことだ。しかもあれは魔法じゃないかもしれない。映像からなので断言はできないが、少なくともあのような魔法は見たことがなかった。
そしてもう一つ。彼の他に喋る者がいること。
最初は何かと思ったが、何度か喋る内に剣が言葉を発してるという結論しかでなかった。
あれは何なのかと思い、
……エントの言ってたこと、本当だったんだ。
彼は確かに喋る剣だと言っていた。俄かには信じがたいが、こうして結論も出ている以上は信じる他にない。
今も画面から声が聞こえてくる。
ネリスの攻撃を避けながら走っているエンが、
『絶対ワザとやってるだろ、お前!』
《そんなわけがあるか。こちらの要求と相手の特徴を簡潔に述べただけだ。それ以外の何があると?》
『挑発と罵倒以外の何物でもなかったぞ! 人心掌握術とやらはどこ行ったんだよ!』
《ちゃんと心得ているぞ。ならば今こそ言おう。我は魔剣だから『負けん』!》
『うっわ、つまんねー! ――おっと危ねぇ! 今氷が腕に掠ったぞ!?』
『あなたたちふざけてますの!? どこまでも馬鹿にして……きぃーーーーっ!』
そこでネリスからの強力な一撃が飛び出したが、エンは間一髪で逃れた。
ライナは安堵の息をつく。
どうにか彼を助けてやりたいが、エンとネリスがお互いに決闘いう形を取ってしまった以上、下手に手が出せない。
今のライナに出来るのは、こうしてただ戦闘状況を見ていることくらいだ。もどかしい気持ちは立ち見として表れていた。
そんな様子を近くで見ていた男が声を掛けた。
「とりあえず座って見とけ、ライナ嬢」
禿頭で筋骨隆々の大男だった。
指摘されライナは渋々椅子に座ると、
「解ってるよ、スラム。でもエントが……」
「ライナ嬢はあのボウズに肩入れし過ぎだ。幼なじみだからってあまり入れ込むなよ。他の者に示しがつかん」
「むぅ……」
不満そうにするライナだったが、スラムが正論なのもあって強くでれなかった。スラムはライナの側近だ。だからこうして注意を促してくれている。
それ自体は有り難いことなのだが、やはりエンのことになると引けなかった。
……解ってるよ、このハゲっ!
心の中で行き場のない怒りを発散する。
大きなくしゃみを出したスラムから目を逸らし、物思いに耽る。
いつもの妄想が始まる。この学園で天下を納めた暁にはエンとラブラブな学園生活を送るというものだ。
朝はエンを起こしてから一緒に朝食を摂り、昼は学園外に散歩や寮の部屋でイチャイチャしたり、夜はあんなことやこーんなことなどを! 抗争終了後の雑務などは、まあ適当で。
そんな壮大な計画まで出来上がっている。
ライナが妄想に身をよじって破顔していると、画面に変化が起こった。
不意に鈍い音がしたのだ。
何かが穿たれた音。何かが倒れた音。
そして少年の短い呻き声。周囲の生徒から小さなざわめきもある。
あ、と声を出し、ライナは表情を一変させた。沈痛そうな面持ちで見た画面には、エンが倒れている姿が映っていた。