ヤンデレは二次元に限る
これまでの作品とは傾向が違います。
閲覧にご注意ください。
両親が亡くなり、私は一回り年下の妹の鈴子を女手一つで育て上げた。姉妹二人きりになったのは、私が二十三歳、妹はまだ十一歳のときだった。
私は妹を溺愛し、彼女が伴侶を得て幸せになるまで自分の幸せなど二の次でいいと、恋愛などしてこなかった。妹が元気で仕事が順調、それだけで十分だった。
そんな妹が二十四歳で結婚することになったときは本当に嬉しかった。
式で花嫁の手紙を聞かされたときは号泣しすぎて、周囲に呆れられた。まぁ深酒しすぎて涙腺も緩んでいたから仕方がないけど。
式が終わり、親友の坂上壱夜に車で送ってもらっていた。彼は大好きなお酒に一切手を付けなかった。私がベロベロになることを見越して、そうしたらしい。本当にいい親友を持ったものだ。
「おい、琴。もう泣くなよ。それ以上泣くと目が溶けるぞ」
「放っておいてよ、壱。だって今日は鈴の晴れ舞台だよ? ようやく掴んだ幸せなんだよ? 嬉し涙が止まらないのはしょうがないじゃない」
そう反論すれば、彼は運転しながらしんみりした声で言った。
「……鈴ちゃんはずっと幸せだったよ。お前がいたからな」
「壱……」
壱夜は高校からの親友。爽やかな好青年で女にモテモテなのに、なぜかこの年まで独身を貫いている変わり者。……まぁ独身なのは人のこと言えないけど。
これまで鈴には言えなかった弱音を黙って聞いてくれ、「お前はよく頑張っているよ」と優しく頭を撫でてくれる。そんな壱夜は大切な親友だ。
しばし無言の後、壱夜が口を開いた。
「あのさ、琴。俺、鈴ちゃんの式が終わったら、お前に伝えたいことがあったんだ」
「うん、何?」
「俺、おまえのこと……」
続きに耳を傾けようとした瞬間、目の前にとんでもない光景が飛び込んできた。
「……! 壱! 前!」
対向車線を走っていた大型トラックが、こちらに向かって走って来たのだ。
「キャー―――!!」
「うわぁ――――!」
身体に衝撃が走り、私の記憶はそこで途切れた。
それからどれぐらいの時間が過ぎたのかはわからない。私は“九条琴美”という人物になっていた。それも前世の“戸田琴子”の記憶を持ったまま。
それに気づいたときは、自分が誰なのかわからなくなって混乱した。自分の中に二つの人格が存在しているように感じたから。
もちろん誰かに相談したかったが、できなかった。こんなこと話しても、頭のおかしい奴と言われるのが目に見えているからだ。
どうして前世の記憶があるのかを考えた。もしかしたら心残りがあったからかもしれない。それは妹のことだ。自分の結婚式の夜に姉が事故に遭ったなんて、ショック以外の何物でもない。自分たちと同じようにホテルに泊まらせればよかった、帰さなければよかったなどと、自分を責めていないか心配だった。
でも鈴子は一人じゃない。支えてくれる旦那さんがいる。それだけが救いだった。それに私が育て上げたんだから、ちゃんと立ち直ってくれていると思う。鈴子は強い子だから。
壱夜のことも気になった。彼は生き残ってくれているだろうか。そうだったらいいな。優しい彼ならきっと、私の分まで鈴子を見守ってくれているだろう。
前世で出来た大人だった私は、今世でもそのスキルを利用して自分の感情を整理し、なんとか自分の中で折り合いをつけることができた。
九条琴美という私は、まぁまぁ高いスペックをもった少女だった。それに前世の記憶を合わせたら、とんでもない少女の出来上がりだ。
上々の外見はアラフォー知識をフル活用して磨き上げ、難関大学卒の頭脳で勉強も問題ない。仕事で培った対人スキルで友好関係もまずまず。二度目の人生を謳歌していた。
そんな私も高校生になりました。
入学したのは私立青鞜学園。超難関進学校らしい。適当に手を抜いても合格したんだから、私って本当にすごい。誰も褒めてくれないから自画自賛。
しかしクラス発表を見た瞬間、衝撃が走った。頭の中に前世での膨大な記憶の断片が一気に流れ込み、処理しきれなかった私はその場で卒倒してしまったのだ。
目を覚ますと保健室のベッドの上だった。まだズキズキと痛む頭を押さえながら起き上がると、その気配を感じ取ったのか、カーテンが開いて男性が顔を覗かせた。
「起きたようですね。大丈夫ですか?」
優しく話しかけてくる彼は年齢三十前後。黒い柔らかそうな髪、銀縁眼鏡の奥にある少し目尻の下がった優しい目。細身だけどまぁまぁの筋肉質な身体が、白衣の上からでも見て取れる。
わぁお、イケメンだぁ。
「あの、私は……」
「ああ、倒れたのでここに運ばれてきたのですよ。もう入学式は始まってしまいましたから、式が終わるまでゆっくり休んでいってください」
「……ありがとうございます」
お言葉に甘えて、もう一度ベッドに横になり目を閉じると、すぐに眠りの中に引き込まれていった。
「……さん、九条さん」
自分の名前を呼び掛けられ、ゆっくりと目を開けると、さっきいたのとは違う男性がいた。まだぼんやりとしたまま、じっとその男性を観察する。
第一印象は軽そうな若い兄ちゃん。茶髪で顔は整っているんだけど、どこかホストっぽい。うん、こういう軽いの、苦手なタイプ。
「もう大丈夫か? 式もオリエンテーションも終わって、他の生徒は下校しているんだが」
その言葉にギョッとして、腕時計に視線を移せば、もう昼過ぎだ。
当然、式が終わるころに起こしてくれるだろうと思い込んでいたので、カーテンの向こうにいた白衣の彼に視線を移す。すると申し訳なさそうな表情を返された。
「ああ、すみません。熟睡していたので、起こすのがかわいそうになって」
おい! そこは起こせよ!
私はがっくり肩を落とし、小声で呟いた。
「すみません。お手数をおかけしました……」
「仕方がない。これから説明するから、もう平気ならそこから出てこい。門倉センセ、コーヒー入れて」
「はい、はい」
言われるままベッドから出て、勧められるまま椅子に腰かける。白衣の彼にコーヒーを手渡され、恐縮しながらそれを受け取る。軽い男が同じようにそれを受け取った後、一口飲んでから口を開いた。
「じゃあまず自己紹介からな。俺は進藤。受け持つのは一年A組――つまり、お前の担任だ」
今度は白衣の彼が、ニッコリ笑って自己紹介をした。
「保険医の門倉です」
「九条琴美です。重ね重ねご迷惑をおかけいたしました」
うっかりそう言うと、進藤先生は噴き出した。
「お前、全然高校生っぽくねぇな。言い方、俺らより年上っぽい」
訊けば、二人は私の一回り上。つまり今年二十八歳らしい。でも精神年齢は私の方が年上だ。
マズイな……。もっと高校生っぽく、キャピキャピしなきゃ。
コーヒーをいただきながら、オリエンテーションを受ける。明日は別のオリエンテーションやら健康診断やらがあり、週末を挟んで授業が開始されるそうだ。
それを聞きながら、私は睡眠で整理できた記憶の断片を組み立てていた。そして一つの結論を出した。
ヤバイな……。ここ、前世で妹がハマっていた乙女ゲームの世界だよ……。
※※※
「きーてよ、お姉ちゃん。この前買った乙ゲー、もー最高なのっ。まだ途中だけど」
「ふーん……。あんた好きだね、そういうの」
「学園ものでね、ヒロインは新入生なの。で、同級生とか先輩とか先生とか、攻略対象が全員イケメンでちょーかっこいいの」
「そういうゲームは美男美女しか出てこないものなんじゃないの?」
「もーお姉ちゃんはすぐそういうこと言うんだから。主人公はね、“九条琴美”って言うんだよ。お姉ちゃんと名前似てるよね。だから余計に感情移入しちゃったんだ」
「鈴……」
※※※
どうしてもっと早く気が付かなかったんだろう。自分が“九条琴美”である時点で気づくべきだった。
だが私はそのゲームをやっていたわけではない。妹の話を適当に聞き流していただけで、連呼されたメイン攻略対象者の名前しか知らないのだ。顔も、どんな人物かも、どんなイベントがあって、どの選択肢を選べばいいかも知らない。
まぁいいや。ここがゲームの世界で私が主人公であったとしても、決められたルートに乗っかってやる必要はない。たとえゲームの知識があったとしても、それを使ってどうこうする気もないし、逆ハーレムを築く気もない。
恐らく攻略対象者は例外なくいい男で、キラキラしているんだろう。それを侍らしていい気分に浸りたい気持ちはわからんでもないが、それはあくまで二次元だからだ。
現実世界でそんなことをしたら周囲から反感を買うし、尻軽女扱いされるのが関の山。現代では一夫一妻制だし、多数の男と付き合う時間も労力も無駄。
だいたい誰にでもいい顔して好感度上げて、でも最終的に本命以外振るんでしょ? ああ、もったいない。努力が水の泡。最初から一人に絞ったほうがいいでしょ。
ちなみに精神年齢アラフォーな私は、じっくりゆっくり大人な恋愛がしたいんですよ。それも十歳以上年上と。
正直言って高校生なんて、たとえ先輩でも所詮ガキ。物足りなくってきっと無理。
かといって、この目の前にいる攻略対象のホスト教師は問題外。チャラ男は圏外です。
なんてことを考えているうちに、話は終わってしまったようだ。先生二人は仕事のことを愚痴り始めてしまった。ううっ、帰るに帰れない……。
ちょうどそのとき、スカートのポケットに入っていた携帯電話が鳴った。しまった、マナーモードにするの忘れてた。
「こら九条。校内では電源切るか、マナーモードに……」
「すみません! 以後気を付けますんで、見逃してください!」
渋々頷いたホスト教師を確認し、私は電話に出た。
「もしもし?」
『もしもし琴ちゃん? ママよ。倒れたって聞いたけど、大丈夫なの?』
「大丈夫だよ。睡眠不足だったみたい。ちょっと寝たからもう平気。心配かけてごめんね」
『それならいいんだけど……。パパも心配していたわ。迎えに行こうか?』
「大丈夫、一人で帰れるよ。仕事忙しいんでしょ? パパにも大丈夫だからって伝えておいて。一応メールも入れておく」
『そう? 無理しちゃ駄目よ。今日は早く帰るからね』
「うん、待ってる。じゃあね」
心配性だな、二人とも……。でもその気持ちが嬉しくて、心がじんわりと温かくなる。
前世で両親は亡くなってしまったけど、今世では健在。私に溢れんばかりの愛情を注いでくれている。そのごく平穏な生活が、今の私には幸せで堪らないのだ。
電話を終えた私に、ホスト教師が尋ねた。
「九条、親御さんか?」
「はい。母でした」
「さっき連絡したからな。本当にもう平気なんだな?」
「はい。ただの睡眠不足ですから」
本当は違うけど、それで誤魔化す。
すると黙っていた門倉先生が、たしなめるように私に言い聞かせた。
「夜更かしは駄目ですよ、九条さん。成長期に睡眠は必要不可欠。お肌にもね」
「はい」
優しいな、門倉先生。こういう人が彼氏だったら幸せなんだろうなぁ、きっと。
入学してから一年半。シナリオ通りなのかは知らないが、名前だけ知っている攻略対象者に付きまとわれ、避けて逃げて、時には論破し、私はフラグをへし折りまくった。
どうしてかは知らないけど、きつい言葉をかけても喜んで、冷たくしても付きまとってくるんだよ。お前ら、ドMかって思った。いや、本当に。
フラグ回避に一番苦労した粘着質だった男には「あなたと付き合うぐらいなら遥ちゃんと佳枝ちゃんと、百合の世界を築いた方がマシです」と言ってやった。
事実、二人はかわいい。うん、愛でたいよ、マジで。
引かれたと思った二人の友は、初々しく頬を赤く染めていた。うん、イイ。狼さんになりそうだよ、精神年齢アラフォー姐さんは。
私の百合宣言に、粘着質男はドン引きして去って行った。これで対象者、全滅に成功しました。
ふふふ、私の辞書に不可能という文字などない。
時は過ぎ、いつの間にか私も高校三年生になった。
ある日の放課後、私は上機嫌で勝手知ったる部屋のドアを開けた。中に入って、机に向かって作業をしていた大きな背中にギュッと抱きついた。
「せーんせ。来たよ」
ああ、この程よく筋肉がついたこの背中、生唾ものです。うーん、素敵。せんせーの匂いだぁ……。
匂いを嗅ぎながら頬ずりしていると、振り向きもせず、困ったような声を掛けられた。
「あと少しで終わるので、そこでお茶でも飲んで待っていてください」
「はーい……」
ちぇっ。くそ真面目だな。ま、そこが大好きなんだけどさ。
彼と自分の分のお茶を入れて、彼の机の上に置き、私はそばの椅子に腰かけて、じっくり彼を観察していた。
ああ、後ろから見ても素敵。そりゃ正面が一番なんだけど。
特に眼鏡の奥の瞳が素敵。よーく見ると、まつ毛が長くて嫉妬しちゃう。少し茶色っぽいその目を見ていると、吸い込まれちゃいそう。
いや、笑ったときに覗く白い歯もいいね。八重歯がキュート。普段の控えめに笑うのもいいけど、子供みたいに無邪気に笑う顔が一番好きだな。
だってそれを見られるのは私だけなんだよ? そう、彼女である私だけ。
……キャー―――ッ。彼女って響き、イイ!! 顔が真っ赤になっている自覚、あります。
でもでも笑顔もいいけど、時折見せる真剣な顔が一番好きかなぁ。だってかっこいいんだもん。うん、攻略対象みたいにキラキラはしていないんだけど、優しさの中にある男らしさって言うのかな?
少し強引に抱きしめられて、掠れた声で「好きですよ」って耳元で囁かれたい!! これ力説!
いや~ん、想像だけで白飯三杯は軽くイケる!!
「……さん、琴美さん。仕事終わりましたよ?」
自分の世界に入り込み過ぎて、気づいたときには大好きなその顔は息がかかりそうなほど近くにあった。
「ぎゃあ――!!」
驚き過ぎて思わず叫ぶと少し拗ねたような表情を浮かべた、机を挟んで正面に座っている門倉先生。
「そんなお化けを見たときのような態度、傷つきますね……」
「ごめんなさい。ちょっと考え事していて」
「ふーん、僕を忘れるほど熱中することって何ですか?」
うわぁ、拗ねてる。かわい――! もうどんな表情も、私の心を鷲掴む。
「……せんせーのこと考えてたのっ」
「本当ですか?」
「本当だよ。それ以外のこと、考えられなくて困るぐらい。せんせー、どう責任とってくれるの?」
膨れっ面でそういうと、苦笑しながら頭を優しく撫でてくれた。この、頭なでなで、大好き。
「すみません。でも僕も琴美さんのことばかり考えてしまって困っていますよ」
「嘘だよ」
「本当ですよ。琴美さんのことを考えるたび、ドキドキして仕事にならないのです」
嘘でも嬉しい。だって先生モテるだろうし、当然女性経験豊富だろうし。ムカつくけど、過去のことをどうこう言ってもしょうがないしね。
でも未来は絶対に譲れない。
「ところでせんせー。いつ手を出してくれるの?」
「……ぶっ、ゴホッ……ゴホッ」
私の問いに、先生は飲んでいたお茶が変なところに入ったみたいで、かなりむせている。
保険医の門倉先生と付き合い始めて半年。お互いの親も公認で、高校卒業したら籍を入れることになっている。あ、私は大学に進学するけどね。
先生が一回りも年下の、子供な私を恋人にしてくれたのは嬉しい。
でも一向に手を出してくれないのが唯一の不満です。
「言ったでしょう? 高校生のうちは、手は出しません」
「チューだけでもいいの。ね、チュー」
唇を突き出して迫ると、片手で顔を抑え込まれた。
「むがっ……ひどいよぉ」
「駄目です。ご両親とも約束しましたから。けじめはきっちり守りましょう」
「……はーい」
本当に頭固いんだから。でもそれを守ってくれるところが、大事にされてるんだなぁって幸せ感じちゃう。
先生はさっきまでの困り顔から一変、優しい顔で言った。
「いい返事です。そんないい子の琴美さんにはご褒美をあげましょう。今日はパウンドケーキですよ」
「わーい、せんせーのお菓子好きー!」
先生と付き合い始めてから、放課後にこうして一緒に話すことが日課になっている。なぜか放課後は保健室に誰も来なくて、先生もたくさん構ってくれる。
だから外でデートできなくても、この秘密の関係を誰にも言えなくても不満はない。それに先生はいつも手作りのお菓子をくれるしね。
「ねー、どうしたらせんせーのようにおいしいお菓子が作れるの?」
「愛が籠っていますから」
「私もせんせーに愛情たーっぷりのお菓子作りたい!」
「嬉しいですが、残念ながら甘いものは作る専門ですから」
「そこは愛の力で食べてよ」
「無理です」
「ちぇっ」
いじけながらパウンドケーキにパクつく。
ん~、おいし~。甘さ控えめで、くせになりそう。しいて言えば、ここに生クリームを添えて食べたい。
夢中で食べながら先生と話していると、急に睡魔が襲ってくる。
うーむ、夜遅くまで勉強しすぎたかなぁ? 一応、受験生だし。
目を擦っていると、先生が心配そうに顔を覗きこんできた。
「琴美さん、どうしました?」
「なんか眠くて……」
「また夜更かしですか。受験生だから仕方ありませんが、ほどほどにしないとまた倒れますよ?」
「またって……いつの話? 今さら入学式のときのことを持ち出さないでよ」
もう二年前のことなのに。
――ああ、駄目だ。瞼がだんだん重くなって……。
「琴美さん、そんなところで寝ないでください。琴美さ……」
先生の呼びかけにも応じることができず、私は眠りに引きずり込まれた。
乙女ゲームの主人公に転生して、でも決められたシナリオ通りの人生が嫌になって、フラグをへし折って、攻略対象ではない先生と恋人になった私。
次第に前世のことを考えることもなくなり、時が経つにつれて前世の記憶はどんどん薄れていった。
だから肝心なことを思い出せなかった。そしてきっと、今後も気づくことはないだろう。
全キャラクターを攻略し終えた、妹の言葉を……。
※※※
「琴美さん、そんなところで寝ないでください。琴美さん」
机に突っ伏して眠り込んだ、自分の向かいにいる愛しい恋人を揺さぶる。起きる気配がないことを確認して立ち上がり、部屋に鍵を掛けた。
そして彼女に近づき、その身体を抱き上げる。彼女の腕が、力なくだらりと落ちる。
向かったのはカーテンの向こうにあるベッド。こんなおあつらえ向きの職場は便利だなと、微かに口端を上げる。
壊れ物を扱うようにそっとベッドの上に彼女を降ろし、あどけない表情を浮かべるその寝顔をじっと見つめる。
彼女の傍らに腰を下ろすとギシッとベッドが軋む。手を伸ばし、柔らかい頬に触れ、親指で赤い唇をなぞる。
彼女の唇に顔を近づけたその瞬間。
ピー、ピー、ピー。
自分の行動を邪魔するかのように、けたたましく携帯電話が鳴った。
「チッ」
舌打ちをし、彼女から離れる。カーテンの向こうまで行き、苛立ちを隠さぬまま通話ボタンを押す。
「何だ」
先ほどとは打って変わった低い冷ややかな声に、電話口ではからかうような同僚の軽い声がした。
『イライラすんなよ、怖ぇよ。お前の邪魔しないように、わざわざこうして電話してやってんのに』
「すでに邪魔しているのがわからねぇのか。性格も頭も軽い馬鹿が」
『酷くねぇ? 門倉センセ。本当なら直接そっち行ってんのにさ。電話かけて今平気かどうか聞いてんのに』
自分を非難する言葉に、どんどん苛立ちが募る。押問答が時間の無駄で仕方がない。
「要件を言え」
『もう怒るなって。健康調査持って行きたいんだけど』
「明日にしろ」
『なになに? 今お楽しみ中?』
「黙れ」
電話口では盛大な笑い声が響き、思わず電話を耳から遠ざける。笑い声が止んだところで、再び耳に近づける。
『しかしお前は悪魔だな。聖人君子の振りして、九条や親御さんに“卒業まで指一本触れません”なんて誓っておきながら、放課後の保健室で自分の彼女に一服盛ってさ。一体どこまでしたんだよ。こんなことしてるなんて知られたら、お前嫌われるぞ』
その言葉に眉間に皺が寄る。今、彼女に見せたことがないほど冷酷な表情を浮かべているだろう。
電話だからその様子がわからないのか、相手は尚も続けた。
『まさかお前が九条に惚れるとはね……。確かにかわいいし、いい子だけどな。入学式の日にお前に釘刺されたから深入りしなかったけど、それがなかったら俺もヤバかったなぁ』
「進藤……」
『だーかーら、怖いっつーの。別に生徒以上の感情は持ってねぇよ。それに害虫駆除に協力してやっただろ? もっと俺に感謝しやがれ』
「はいはい頑張った頑張った。もういいか? 切るぞ」
『ちょい待て。……お前さ、本当に九条にバレてねぇの?』
「当り前だ。証拠を残すことはしていない」
その返答に、明らかにホッとした進藤。
この男は軽い口調でからかってくるが、いつも自分を心配してくれている。癪だが、少しは感謝している。噯にも出さないが。
進藤は声を低くして念を押す。
『やるなら絶対にバレるなよ。その本性は一生隠し通せ。でなきゃ、九条はお前から逃げるぞ』
「ああ、ご忠告どうも」
感謝の全く籠っていない返事をし、今度こそ電話を切った。そして電源を落とす。乱暴に携帯を机に投げ捨て、あらためて彼女の眠るベッドへ近寄る。
「琴美……琴……」
彼女に視線を止めたまま、うわ言のように呟く。彼女のすぐ横に腰かけ、優しく髪を撫でる。
三十年――いや、前世を合わせると五十年、俺は待ち続けた。琴と結ばれる日を――。
琴の妹・鈴ちゃんの結婚式が終わった後、俺は彼女にプロポーズするつもりだった。
だが、結局できなかった。
そして前世の記憶を持ったまま転生し、俺は絶望した――琴がいない人生に。
無気力なまま生活し、荒れて喧嘩に明け暮れ、適当に女を抱いては捨てた。そしてすべてに飽きて親に言われるままに医者になり、紆余曲折を経てこの学園に勤務することになった。
そして二年前、彼女に出会った。一目見て、琴だと気づいた。容姿や声はまるで別人だが、その魂は彼女だと信じて疑わなかった。目の奥に見え隠れする、芯の強さが琴そのものだった。
“門倉壱流”として生を受け二十八年。彼女に出会った瞬間、ようやく俺は幸せというものを感じた。そして今度こそ琴を俺のものにする。出会ったその日に決め、悪友で同僚の進藤に協力を仰いだ。
今世の琴――九条琴美は頭の回転が速く、かわいらしい容姿でかなりモテた。しかし警戒心の強い彼女は言い寄ってくる全員を拒絶し、逃げるように保健室にやって来ては俺に愚痴を言ってくる。どうやらうまく懐かれたようだ。
話せば話すほど、彼女は琴だった。前世と何も変わらない、正真正銘彼女自身だった。愚痴を黙って聞いて、元気づけるように優しく頭を撫でてやる。
前世の琴はそれを気持ちよさそうに受け入れていたから、魂が同じなら彼女もそれを受け入れるだろうと。予想通り彼女は嬉しそうに、警戒心のない笑顔を俺に向けた。
そして一年半後、ようやく彼女は俺の恋人になった。最近互いの両親にも挨拶を終え、彼女の高校卒業と同時に籍を入れることに決めた。
大学進学は許可したが、結婚後すぐに孕ませて、自宅から一歩も出さないようにしてしまえばいい。そうすれば琴は本当に俺だけのものになる。
今は誠意を見せるため、学校関係者としてのけじめをつけるため、指一本触れないと約束した。
だが、バレなければ何の問題もない。結婚まで一線は超えないが、少しずつ琴を俺にピッタリの身体に作り変えるのだ。
純真無垢で穢れを知らない美しい琴。それを穢すことができるのはただ一人、俺だけだ。その背徳感でゾクゾクし、俺は歓喜に震えていた。
前世では二十年待ったが、今回はもう待てない。本当なら今すぐにでも琴を自分のものにしたいし、決して離しはしない。
死ぬまで――いや、俺たちは未来永劫一緒だ。
俺だけを見て。その美しい瞳に、俺以外の男を映さないで。
もしそんな男が現れたら、俺はそいつを消してしまうから。
俺のことだけを考えて。
他のことを思う琴をボロボロになるまで犯し、壊したくなるから。
俺にだけその笑顔を向けて。
その笑顔が、俺に一線を越えることを踏み止まらせるから。
ずっと俺に騙されていて。
そうすれば琴は俺に愛され、何も知らずに幸せになれるから。
だからどうか、俺の本性に気づかないで。
大切な琴に、酷いことをしたくないから。
「琴……愛しているよ。前世の分まで幸せになろう」
深い眠りに落ちている彼女の柔らかく赤い唇に、そっと口づけた。
※※※
「お姉ちゃん、聞いてー。やっとあのゲーム全クリしたんだぁ」
「まだやってたの? 飽きないわねぇ」
「だってさ、あのゲームおかしいんだよ。普通、好感度上がりやすい選択肢ってあるでしょ? でも全部間違いなの。『これはないわー』っていう選択肢が正解なの」
「製作者が捻くれてんのね。もしくはヤケクソにでもなったのかしら」
「攻略見ずにやったから、もう時間食っちゃって。でも隠しキャラもちゃんと攻略したからね。頑張ったわぁ~」
「その努力を他にまわしてくれたらねぇ……。しかし隠しキャラなんてものがあるのね。いろいろ考えてるのね、製作者も。大変だわ」
「しかもその隠しキャラね、全攻略キャラの好感度を最高まで上げて、最後の最後でバッサリ全部振ると攻略できるって言う面倒なキャラなの。もー好感度上げるのも大変でさ。しかも、超ヤンデレ。主人公の前では聖人君子みたいな敬語キャラで、キスすらしない堅物なの。だけど保険医だからか知らないけど、主人公に睡眠薬飲ませて眠らせて、その隙にいろいろしちゃうの」
「うわぁ、引くわぁ……」
「でね、気になってどういうキャラか調べたの。そしたらね、主人公が本性に気づかないうちはいいんだけど、気づいて主人公が自分から離れようとすると、拉致監禁、薬物投与は当たり前。精神崩壊するまで凌辱して、自分から離れられないようにするんだって」
「怖っ。そんな物騒なゲーム捨てなさい!」
「えーっ、いいじゃんヤンデレ。私、好きだなぁ。……ま、あくまで二次元に限るけどね。実際にいたら絶対イヤ。怖すぎる。主人公、絶対気づかないでって願ったぐらいだからね」
「もう、そんなゲームする暇があるなら勉強しなさい。テスト近いんでしょ。成績下がったらお小遣い減らすわよ」
「げっ。……はーい」
多分続かないので補足がてらの登場人物紹介
↓
↓
↓
九条琴美
(ゲーム)
乙ゲー主人公。非の打ちどころのない美少女。頑張れば逆ハーを築いてしまう。
(現実)
アラフォー女・戸田琴子の記憶を持ったまま転生。そのスキルをフル活用し、上手く世渡りする。考え方が基本的に大人。前世の記憶に引きずられ、十歳以上年上の男性がタイプ。匂いフェチ。口癖は「最近の若いのは――」。
ゲームのシナリオ通りの人生が嫌で、回避したと自分では思っているが、結局一番危ないキャラクターを捕まえてしまった。
門倉と付き合い始めたころには前世の記憶はほとんどなく、門倉が隠れキャラということには気づかない。
高校卒業と同時に門倉と結婚。大学に通うも二年生で妊娠が発覚し、中退する。その後は二人の子持ちとなる。ほぼ家に引きこもり。
思考、生活そのすべてが門倉一色。門倉の本性に一切気づくことなく、ある意味一番のトゥルーエンドを迎えた人。
門倉壱流
(ゲーム)
保険医。乙ゲーの隠れキャラ。何でもアリのヤンデレで危険度MAX。
攻略対象全員の好感度を最高まで上げた後に一刀両断すると攻略できる。全員の好感度を上げることは至難の業なので、超レア。攻略を見ながら進めても、なかなか攻略できない。一部のファンから絶大な人気。
(現実)
琴子の親友・坂上壱夜の記憶を持ったまま転生。琴子の生まれ変わりである琴美に異常なまでに執着。悪友で同僚の進藤を使って琴美の周囲を牽制させた。そして晴れて恋人となるが前世での失敗を活かし、交際後すぐに婚約させてしまった。
とにかく危険なヤンデレ。多分ゲーム以上に。結婚まで指一本触れないと約束したが、薬で眠らせた上でもういろいろやってしまっている。ただ、一線は越えないようには気を付けているらしい。
お菓子作りが上手。でも食べるのは苦手。琴美を餌付けするためだけに練習した。そのほとんどに睡眠薬が混入されている。
実は保険医は週に数回だけの仕事で、普段は実家の経営する病院で心療内科医をしている。勤務のない日でも琴美に会うためだけに、放課後学校に来ている。
職業上の知識を利用し、琴美を自分に依存させるように仕向け、実際成功している。
結婚後はすぐに孕ませる予定だったが、二人で過ごす時間もいいなと思い、一年は避妊する。妊娠が発覚したとき、男だったら養子に出そうと本気で思っていた人。
ほぼ琴美のことを考えて生活。家中に盗聴器や盗撮カメラを設置し、日中琴美が何をしているかを観察。贈ったアクセサリーにも盗聴器とGPSを搭載。犯罪の温床。
ちなみに琴美が琴子の記憶を持っていたことは知らない。
進藤
(ゲーム)
乙ゲーの攻略対象。主人公の担任。ホスト教師。軽い。意外に生徒想いで人気。
(現実)
門倉の悪友。門倉の本性を知る唯一の人物。犯罪の温床である門倉にドン引きだが、琴美に出会う前の門倉の無気力さを知っているので、生き生きしている姿を見ているともう何も言えない。琴美に同情しながらも、助けることはしない。
〈前世〉
戸田琴子
アラフォー社会人。両親の死後、妹を嫁にやることと仕事を生きがいにする。さばさばした性格。十歳以上年上がタイプなので、結婚は諦めていた。もしあのまま壱夜にプロポーズされていても、きっと断っていた。
坂上壱夜
琴子の親友。でも本人は高校から片思い。琴子の隣に居続けながら周囲を牽制。仕事ができる社会人。変態でもなく病んでもおらず、ごくごく普通にいいやつ。ただ、きっと振られた。
戸田鈴子
琴子の妹。姉が大好き。琴子と壱夜が結婚すればいいなとずっと思っていた。
琴子と壱夜の死後、嘆き悲しんだものの旦那の「泣いてばかりいたらお義姉さんに怒られるよ」という言葉で必死に立ち直る。
第一子が琴子と同じ誕生日だったため、琴子の生まれ変わりだと信じて慈しみ育てる。
琴子の願いどおり、幸せな人生を送った。