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1章の2

 F県見島市の外れの峠道は、道距離の短いトンネル内部のライトに照らされながらも、しんと暗く静まりかえっていた。

 二年ほど前に山の麓にトンネルが開通した為、今となってはハイキングか物好きがドライブに使うくらいしか使い道のない、寂れた道路だ。


 時折走り屋気取りが現れる事もあるが、今夜はそれも見あたらない。


 灯りに引かれて集まる鬱陶しい虫の羽音だけが、やけに虚しく空気を振るわせている。

 一寸先は闇とはいかないまでも、市街地から離れた山道の闇は深い。鬱蒼と茂った木々の陰が幾重にも連なり、トンネルのライトと月明かりだけでは目が慣れても周囲を見渡すのは難しいだろう。


 開発の進んだ都会とは違う、本物の闇がまだ生きている地方都市の夜である。



 とはいえ、それでも昔とはずいぶん状況が変わった。


 30〜40代ほどの世代が子供の頃には、明け方や夕刻の山林から時折ミミズクの鳴き声が聞こえたりしたものだ。


 また、夏の夕刻に少しばかり山に入り込み河川に近づくと、かつては淡い光を輝かせる蛍が飛び交う姿も見られた。


 しかし、今ではそういったものは殆ど見られない。

 代わりに真新しいビルが各所に建てられ、いくつかの山は切り崩されトンネルが穿たれた。先に書いたトンネルの他にも新しい道路が敷かれ、比例して車の数も増えていく。


 月日と共にこの片田舎にも確実に開発の手は伸びていた。



 同時に多くの怪異も駆逐されたように見えた。


 この街には古くから怪談の伝わる場所が幾つかある。



 例えば夕暮れ時に歩くと、見上げんばかりの大入道に出会うという小道。

 

 例えば大昔、戦に敗れ落ち延びた大名の姫が殺されて埋められた為、そこにある木を切ると祟られると云われる林。


 昔は大層恐れられ町の者はそういった場所に近づかないようにしていたが、今の若者たちは肝試しと称しては平気で踏み入っては馬鹿騒ぎをする。


 この山道にもそういった話があるようだが、もはや覚えている者は地元にも殆どいないようだ。


 しかし、燃え尽きる前の蝋燭の火が一瞬大きく膨張するように怪異もまた、文明の灯に住処を追いやられながらも最期の輝きを放とうとしていたのかもしれない。


 闇夜に轟く絹を引き裂くような女の悲鳴は、まるで怪異達の反撃の狼煙のようであった……。



 時間を遡ることほんの十数分前のことである。

 ゆっくりとブレーキをかけ、山沿いの道路脇へ車が停車した。

 ドアが開くと中から出てきたのは青年。車内の助手席には、女性がひとり残っている。


 年齢は両者ともに、二十代半ば程か。

 青年からはどうにも軽い印象を受ける。大方、ナンパした女性とドライブでもしていたのだろう。



 ――――よりにもよって、不運なことである。




「何か、あったんですかぁ?」


 間延びした口調で青年が訪ねる先には、ガードレールの前にぽつんと佇む人影がある。そこにいたのはひょろりと背の高い男だ。

 ガードレール脇の電柱の陰に隠れるように立っていたのが気になって、青年は車を停めたのだ。


 男は振り向かない。



「あの〜、落とし物でもしました?」


 もう一度訪ねると、今度は男が振り向く。


 車のライトと月明かりを頼りに相手の顔を探ると、黄色人種のそれとは違う白い肌が見える。男は西洋人であった。

 綺麗に整えられた口髭に高い鼻。細長い手足の痩身を仕立ての良い黒のスーツに包み、頭の上にはソフト帽を乗せた絵に描いたような紳士だ。


「捜し物をしていたんですよ」


 その口から紡がれたのは、意外にも流暢な日本語だった。

 それに少し驚いた様子の青年に対して男は続ける。


「でも、もういいんです。捜し物は見つかりました」


「あっ、そうっすか」



 のんきな言葉を口にした時、青年は不審な点に気がついた。周囲を見回しても車やバイクが見あたらないのだ。


 こんな深夜の山道を、この男は一人で歩いてきたとでもいうのか?



 すうっと、冷たいものが背筋を伝う。何だかよく分からないが、ここに居るのは良くない気がする。

 思い出すのは、祖父から聞いたことがある怪談だった。見島市の山には夜になると“コトリ(子盗り)”と呼ばれる、人攫いの妖怪がでるのだと。

 その内容は明らかに数十年前に流行った『怪人赤マント』を真似たような話であり、昔は馬鹿馬鹿しいと笑っていた。

 しかし、深夜の山中で怪しい人物に出会ってしまった今となっては、その下らないはずの迷信すらも恐怖を加速させる起爆剤となってしまう。


 逃げなければ。


 そう思うものの足がすくんでなかなか動けず、身体は震えるばかり。

 それに気づいたのかは判断が付かないが、男が口元をつり上げて笑顔を作る。


 その時、男の顔に凄まじい変化が生まれた。



 裂けるような笑みとは、まさにこれを言うのだろう。

 まず、口の両端が耳まで裂けたかと思うように大きくつり上がった。

 人間の顔を模した柔らかいゴム製のマスクを力一杯引っ張ればこんな表情が出来るのかもしれないが、生身の顔でやるそれとは相手に与える恐怖や驚愕は段違いだろう。


 だが、それよりも青年を捕らえたのは、男の両の眼だ。

 糸のように細くなったかと思えば次の瞬間には顔の半分を占めるほど、息を吹き込んだ風船のように急激に膨張する。

 やはり、顔面の皮膚はゴムのような素材で出来ているのかと思うほどのとてつもない伸縮性だ。

 まるで眼球ひとつひとつが、独立した意志を持つ生物のように蠢いている。信じられない程めまぐるしい動きであった。

 その不気味な眼の魔力に縫いつけられ、身動きのとれない青年を嘲笑いながら、男は電柱の陰から長い棒のような物を取り出した。



 先端にグロテスクなコウモリの意匠が施された、異形の長槍が姿を見せる。


 月光を浴びて鈍い輝きをたたえたそれを、自慢げに肩へ担ぎ、


「私が探していたのは、今夜の生け贄ですよ。それは貴女だ」


 芝居がかったセリフ回して言い放つ。

 魔眼が見据える先には助手席の女性がいた。事態を把握できていないのか呆然としている。


「おい、逃げるぞ!!」



 男へ背を向け、車へ駆けだそうとした青年が悲鳴のように放ったその台詞が、彼の最期の言葉となった。


 背後から野球のバッティングのようなフォームで、異形の槍が人外の怪力を込めて振り払われたのだ。



 コウモリの羽に仕込まれた斧刃が、瞬時のうちに胴体を切断する。

 肉を潰し、骨を砕く。

 背筋の凍り付く音を立て、走り出した勢いのまま両断された身体が内蔵と鮮血を棚引かせて真っ二つに吹き飛ばされていた。恐るべき剛腕である。


 車のフロントガラスへびちゃりと粘い水音を立てて、バケツをひっくり返したような大量の血液がへばり付いた。女性の視界が赤いカーテンに塗りつぶされる。


 突然の惨劇に女性は悲鳴を上げるが、足が竦んで逃げられないのか助手席で震えたままだ。


 哀れな犠牲者のぶつ切られた半身からは、タコかイカの触手のように長い腸が伸びている。

 無惨な死体を見下ろす男が、ごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。


「ふむ…………」


 なにを思ったか男は片膝をついて腰を落とすと、無惨に千切れて血なまぐさい湯気を上げる上半身の中へ無造作に手を突っ込んだ。血にぬめる中、柔らかい臓腑をかき分け、肋骨の隙間をまさぐる。


 やがて、くすんで黄みがかった暗褐色でありながらも闇の中でも判別できるてらてらとした独特の光沢のある塊を掴みだした。肝臓である。

 嬉しそうに表情を歪ませてそれを口元へ運び、咀嚼する。

 くちゃくちゃと柔らかいものを噛む音と溢れる血を舐める音とともに、それを瞬く間に胃袋へ納めてしまった。

 次は半開きのまま血の溜まった口腔へ、ポケットから取り出したバタフライナイフを突っ込む。血に浸された赤い舌を切り取り、やはり口へ運ぶ。

 続いて耳をそぎ鼻をそぎ目玉をくり抜き。次々と顔のパーツを食い続けた。

 ついには千切れた上半身を両手で掴み上げ、手や肩や首へ直接歯を突き立てはらわたを啜り出す。


 人間の身体が次々と食い散らかされる地獄絵図を眼前に展開され、顔面蒼白で声もなく震えている女性など目に入らぬように、男は屍を一心不乱に貪り喰らい続ける。


 ぐわりと大きく開けた口で首に数回噛みつくと、肉の殆どを骨ごと食われ皮一枚で繋がった生首が、ぶらり、ぶらり、振り子のように揺れる。

 目玉をくり抜かれて暗い空洞になったそこからは、すでに生前の面影すら失われていた。やがて細い薄皮が首の重さに耐えかね、ぶつりと切れてしまう。

 鈍い音を立てて道路に落ちた生首は傾斜に沿って転がり、ガードレールの真下の山林の闇へと消えていった。


「ははははは、旨いものだ。なるほど、これがこの身体か」


 獲物をしとめたばかりの肉食獣のように口元を真っ赤に染めて呵々と笑っていると、絹を裂くような悲鳴があがった。恐怖に耐えかね、助手席の女性が転げ落ちるような勢いで車外へと逃げ出したのだ。

 キーは殺害された青年がもっていた為、車を走らせることは出来ない。自分の脚で逃げるしか選択は残されていない。


 青年を惨殺した男への恐怖に支配された心で、濃い闇の中をひたすら走る。


 冷酷な笑みを浮かべて、血の滴る槍を手にした殺人鬼は余裕の足取りで次の獲物を追いかけていった。



 実際にはほんの数分に過ぎなかったが、女性にとっては永劫にも等しく感じられるほど苦痛に満ちた時間だったに違いない。

 踵の折れた靴はすでに脱ぎ捨て、裸足のまま冷たく硬い地面の上を足の裏から血をにじませて逃げる。

 何度も転び擦り傷だらけになったその背後から、嘲笑を浮かべた男の槍が幾度となく突き出されると、その度に女性の柔肌を薄く裂いて赤い血が流れた。


 明らかに相手をじわじわといたぶり、恐怖を味あわせる為の手口である。


 それでも女性は振り向く事もなく必死に逃げていたが、やがて足をもつれさせて派手に転倒した。

 右足のふくらはぎが深々と抉られ血が流れている。男の槍による傷であろう。


 命がけの鬼ごっこの終わりを告げるように、槍が高く掲げられた。

 右手一本で握られ、ぴたりと宙空で制止した刃が胸元の位置へ留まる。心臓を貫くつもりだ。


「さようなら、お嬢さん」



 冷酷な表情で槍が刺突された。


 腕が伸びきり、唸りをあげて女性の胸へ凶刃が迫る。




 しかしその時、女性の前へ弾丸のように割って入る影があった。


 影が伴うは剣の光。

 鞘から抜き放つ迷い無き太刀筋が、異形の槍の一撃を受け止め大輪の火花が咲き誇る。


 殺人鬼の貌に驚愕が浮かんだ。


 影の正体は刀を手にした少年であった。

 歯を食いしばり、指が白くなるほど柄を強く握り、凄まじい力で槍を押し返す。

 状況理解が遅れたか、または少年の予想外の膂力に度肝を抜かれたか、男が体勢を崩しのけぞりながら後退する。


「いえぇぇぇい!!」


 その機を逃さず、裂帛の気合いと共に少年が斬り込んだ。鳶が鳴くような鋭い風切り音と闇を裂く白々とした輝きが、男へ襲いかかる。

 狙いは槍を握った右手だ。手甲へ切っ先が潜り込み、赤い肉と白い骨を露出させた。

 殺人鬼がたまらず悲鳴を上げ、腕を押さえてうずくまる。


 それを見やりながら正眼の構えを解かず、少年はすすっと距離をとって下がる。


 最初から今ので殺せるとは思っていない。牽制できれば十分だ。



「長谷川!!」



 背後を振り向きもせず、少年――狗賀志郎が、相棒の名を呼ぶ。

 いつの間にか女性のそばには、魔女の衣装に身を包んだ琴美の姿があった。

 女性は青白い顔でぐったりと身体を弛緩させ、瞼を下げている。既に気を失っているようだ。


「お前はその姉さんを逃がしてこい。ここからなら、時田診療所が近い」


「えっ、でも……」


「簡単に殺されやしねえから安心しろ。ただし、なるべく早く帰って来いよな」


 首だけ動かして、横顔で笑ってみせる。長い犬歯を剥き出した野性的な顔であった。嘘を言っているようには見えない。


 琴美も腹を決めたのか、脇に女性を抱え、杖にまたがり浮遊した。

 慌てたように男が槍を構えてそれを追おうとすると、志郎がその進路を遮る。

 あっという間に、杖にまたがった魔女は女性と共に夜空の向こうへ消えていった。


「さて、男同士で色気がねえが、しばらく付き合って貰うぜ」


「ガキが、よくも邪魔をしてくれたな……予定変更だ、今夜は貴様を生け贄にしてくれよう。このホームズが悪魔となる為のな!!」


 挑発するような口調に殺人鬼――ホームズという名前らしい――の顔が怒気に彩られた。


 剣士が油断なく刀を正眼に構え、憤怒の形相で槍を構える殺人鬼と対峙する。


 ホームズには武術の心得などはないのだろう。どこか不格好な姿で、槍を肩に担ぐように身体と平行に立てて構えている。素人丸出しの格好だ。

 しかし、その怪力から繰り出される鉄塊の一撃には、岩をも砕く殺傷力が込められている。


 対称的に、志郎のぴたりと剣尖を中段に留めた端正な構えからは、長年の修練の成果が見える。


 余裕があるかのようにすら見えるが、実は内心穏やかではない。

 先刻の槍の一撃を受けた手には、じぃんとした痺れが今も残っている。刀を取り落とす程ではないが、受け止めた瞬間にはかなりの衝撃だった。


 そして何よりも、先ほど刀で斬ったはずの相手の手の傷から流血が止まっている。


 闇の中で見た光景は信じられないものだった。


 ビデオに録画された映像を逆再生するように血が止まり、ばっくりと開いた傷が閉じて肉と骨が隠れ、瞬く間に薄皮が貼る。そのすべてが数秒のうちに済まされた。


 優れた身体能力に、凄まじい治癒能力。


 正直、日本刀の一振りで殺すには余る相手だ。

 だが、こちらには長年学んできた武術の技がある。それは単なる腕力や体格の差を補って余りあるはずだ。そう信じて戦うしかない。



「……やっかいな身体してるな、あんた」


 それに応えるように殺人鬼が暗がりの向こうで、ふんと鼻で笑うような短い息を吐き、


「我々の身体は特別製だ。首を切り落とすか、脳を壊すか、心臓を潰すか、胴体を切断するかはしなければ、止まらない」


「そりゃいいこと聞いた。ありがたすぎて涙が出らぁ」


 つまり、下手な小細工は通用しない。殺すならば、一撃必殺を狙うしかないという事だ。



 もはや覚悟は決まった。

 喉から気合いの声を迸らせ、志郎が面打ちを真正面から見舞う。


 ホームズはそれを迎え撃つように、斧槍を力任せに横薙ぎに振るった。




 月光を浴びて輝く二つの刃が、闇の中で交差した。

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