3章の1
肉体を内部から蝕む苦痛に顔を歪めながら、長谷川琴美は緩慢な動作で瞼を上げた。
まず認識したのはベッドに被せられた、白いシーツである。どうやら自分は寝床で横になっているらしい。背中からは柔かなクッションの弾力が感じられる。
次に小さな電球で照らされた、薄暗い部屋の天井を視覚が認識する。コンクリートは剥き出しで、それがひどく無機質な印象を受けた。
右手からは点滴の管が伸び、スタンドに掛けられた輸血パックと繋がっていた。
自分の横たわっているものの他にも左右に二つベッドが並んでおり、自分は中央に寝ている状態だ。二つのベッドに人はいない。
部屋の隅には簡素なデスクが一つ据え付けられているが、そこにも誰も座っていない。
自分だけがこのベッドでぽつねんと横たわっている。それがやけに寂しく、虚しい。
何故自分はこんなところで寝ているのだろう?
ぼんやりとした思考で、今日の出来事を振り返る。
今日は確か同級生二人と比良坂へ遊びに来ていた。
一緒に来たのは、仕事のパートナーの狗賀志郎とクラス委員の御堂樹里。
一通り遊んだ後、夕方の公園で一休みしていたのを覚えている。
そして、その公園でホットドッグの屋台を発見して…………
「そうだ、ハールマンは!?」
ガバッと、跳ね上げるように身を起こす。否、正確には起き上がろうとした。
身を起こそうとしたその時、胸に激しい痛みが走った。心臓に刃を突き立てられたような痛みに、蹲って声もなく悶える。
豊かな胸と口元を押さえてゲホッと咳き込むと、口腔に鮮血の味が甦る。
喉から鉄錆の臭いが熱さを伴ってせり上がって来ようとした。
どうにか呼吸を整える頃には、少しだけ冷静さを取り戻せた。
そう、自分はハールマンに分身を斬られた時のフィードバックが原因で気を失ったのだ。
あれから二人は一体どうなったのか。
出血多量の影響で鉛のように重い頭を左右にふりながら、どうにか立ち上がろうとする。
そこでやっと気付いたが、ここは彼女の属する魔術結社『ファウスト』の本部に設置された医務室だ。
ここに自分が運び込まれているという事は恐らく志郎はハールマンに勝利したか、あの状況からの逃亡に成功したという事では無いだろうか。
とにかく安否を確かめなくては。
点滴のスタンドを杖代わりに、素足で冷たい床へ降り立つ。
魔女の衣装は脱がされ、今の服装は素っ気ない無地のTシャツと黒いハーフパンツだ。シャツは自分には少しサイズが小さく、豊かな胸が内側から生地を圧迫してやや窮屈だった。
身体に残る痛みは未だ激しいが、泣き言を口にしている場合ではない。
よろよろと、草食獣の赤子のような足取りで扉を目指す。
ドアノブに手を被せようとしたその時、
「おや、起きていたか」
彼女の目前で外側からノブが回された。
廊下からドアをくぐってひょいと医務室に入ってきたのは、妙齢の女性である。
タイトなスーツを着こなした、すらりと背が高くバランスの取れた身体は、モデルもかくやと言わんばかりに日本人離れした十頭身。
腰まで真っ直ぐに届く艶やかな黒髪。切り揃えられた前髪の下で磨き抜かれた黒曜石のように深い輝きを放つ、大きな黒い瞳が麗しい。
ある程度は自らの美貌や色香に自信のある琴美ですらも、思わず見とれる程の美女であった。
「あっ、あの、すいません。私、友達を探そうと思って」
女性の美しさに飲まれながらも、何とかそれだけ口にすると女性も微笑を返す。
「志郎と、確か御堂という女の子の事だろう。一応君の友達は二人とも無事だ。肩を貸してあげるから、私と一緒に行こうか」
一応という言葉にやや含みを感じるが、それを聞いて琴美は安堵の息を吐いた。
やはり志郎はあのフリッツ・ハールマンに勝ったのだ。
申し出をありがたく受け入れ、女性と共に廊下を歩く事にした。
負傷して迷惑をかけた事に謝罪もしたいが、とにかく早く顔を見て話がしたい。
レンガを積み重ねた洋館の壁沿いに、美女と美少女が肩を並べて歩く。
ファウスト本部は、比良坂市の郊外の林道の奥にひっそりと鎮座している。かつては資産家の別荘として使用されていた、古風な洋館を改造した施設だ。
数年前の事であるが、とある霊媒師がいた。
曰く、腹話術人形に幽霊を宿し、人形に幽霊の言葉を喋らせるという独特の降霊術で知られ、一時期はテレビや雑誌等のメディアの露出も多く、一流とは行かないまでも二流・三流のタレントとしてはそこそこの人気を集めていた。
しかし、その霊媒師はある時期を境に忽然と消息を絶ち、現在も行方不明である。
ファウストメンバーの話によると、その霊媒師はこの本部が別荘として使われていた頃オーナーに招待され、余興に自身の降霊術を披露したのだという。それ以降オーナーとその家族や当時の使用人もろとも、ようとして行方は知れない。
その霊媒師とやらも十中八九は本物ではないインチキであろうが、最後の最後に手に追えない本物の悪霊を喚び寄せてしまったのだろうか。
とにかく、そのような薄気味悪い事件と噂のおかげで放置されていたこの館を買い取ったのがファウスト首領であり、ここを本部に組織を結成したのが、直弟子にあたる創設メンバーの三人の幹部だった。
どうやら三幹部はその霊媒師に関する事件にも関わっていたようだが、それについては機会があれば詳しく語る事としたい。
さておき、行方不明のオーナーとやらは古書収集が趣味だったらしく、この館の内部にはちょっとした図書館なみの蔵書を抱える。その他にも薬品調合や大規模な儀式の祭壇を組める敷地も備える本部は、まさに魔術師達の城であった。
廊下を歩くだけでも何処かから怪しげな呪文や薬物の刺激臭が漂っているが、二人ともこの程度ならば慣れたものだ。
ほどなく廊下の突き当たりの一室へとたどり着いた。
「ここに志郎はいる。命に別状はないんだが少し困ったことになってね。今、解決策を練っているところなんだ」
まあ入りたまえという女性の言葉に従い、木製ながら重いドアをくぐり部屋へ入る。
部屋に芦を踏み入れた彼女をまず迎え入れたのは、むっとするような甘い香気だ。
お香でも炊いていたのだろうか。不思議と心を落ち着かせるような香りが立ち込めている。
「おっ、もう起きたのか。さすが若いと体力がある。回復も早いな」
部屋に入るなり、コートの青年がそんな言葉を琴美へ投げ掛ける。
がらんと広い部屋の中央にぽつねんと置かれたベッドに、狗賀志郎は横たわっていた。
身体に白いシーツをかけられて顔しか見えないが、苦しそうに顔を歪めながらも胸が上下している。
お香の作用もあるのだろうが、どうやら眠っているようだ。
そこそこに整った顔の頬に走った、獣に引っ掛かれたような創痕が殊更に痛々しい。
志郎を除いてその部屋に居たのは三人である。
まず一人目、腕を組んでベッドに眠る彼を見下ろしているのは先ほど琴美へ声をかけた、長刀を背負ったロングコートの鋭利な眼差しの青年だ。
彼には琴美も面識がある。ファウスト幹部の一人、鳥羽明久である。
二人目は窓際の椅子に脚を組んで座り、微笑を浮かべている青年。こちらは知らない顔だ。
鍔広のポルサリーノ帽に黒のケープ付きのマントという、鳥羽よりは分かりやすく術者らしい服装をしている。
肌の白い細面に睫毛の長い二重瞼と相まって、ちょっと見ただけでは男か女か判別できないような中性的な顔立ちをしている。
しかし、方向性こそ違うが、こちらも鳥羽に負けず劣らずの美男だ。
骨ばった細長い指には骸骨、蛇、コウモリ、フクロウといった魔の象徴であったり凶兆であったりするモチーフの刻まれたリングが幾つも通されている。
手首にも同じように多くのブレスレットが通されていた。
こちらも恐らくは呪術的な意味合いを込めた文字や数字が、精緻な筆跡でびっしりと刻まれたものや、パワーストーンの類であろう艶やかな光を湛えた石を嵌め込んだものばかり。
腰のベルトには鞘に納められたねじくれた形状の短剣を差し、首に掛けているのは大振りなルビーのペンダントである。
身に付けたアクセサリーの一つ一つが、恐らくは何らかの呪いや魔力の込められた曰く付きの品々であろう。
興味深そうな顔で、静かに志郎を眺めている。
そして三人目は志郎の傍らで顔を青ざめさせた、心配そうな表情の小柄な少女――御堂樹里だった。
全身を震えさせながらも、しっかりと彼の手を握っていた。
それに若干の嫉妬を感じたが、今はそれどころではない。
「どうしたんですか、狗賀君…………ハールマンとの戦いで怪我したの?」
「いや、ハールマンには勝った。見事な剣捌きだったよ。しかし、あいつを倒した後、殺人鬼達を操っているという、スカイスタンなる妖術師が現れた」
何でもその妖術師が志郎の肩へ触れた瞬間、彼は絶叫をあげて倒れてしまったとの事だ。
「で、ごらんの有り様だ」
無造作に鳥羽が志郎から白いシーツを剥ぎ取る。上半身は裸で、鍛え抜かれた逞しい肉体が外気に晒される。
樹里は裸体を目にする羞恥からわずかに頬を染めていたが、それでも目をそらさず志郎を見つめていた。
「なに、これ……?」
かすれた声でようやく一言、絞り出す。
擦過傷、裂傷、打撲痕。
肉体に刻まれた無数の傷が、死闘の激しさを物語る。
だが、そんなものは目に入らない。それらを塗り潰すように、夥しいミミズ腫れが志郎の肉体に張り付いていた。まるで壁に枝葉を伸ばした植物の蔓か、蛇の群れが絡み付いているようである。
「ねえ、なにこれ!? 狗賀君なにをされたの!?」
我を忘れて傍らの女性へ掴みかかるように問う。それに気分を害した様子もなく、あくまでも優しい口調で「トウビョウだよ」と告げた。
「所謂『憑き物筋』と言われる血筋に取り憑く、キセルほどの大きさの霊蛇だな。苦蛇や長虫とも呼ぶ。古くから山陰、山陽、四国地方では特に恐れられていて、家にそれぞれ一〜二匹は飼っている集落もあったそうだ。
江戸時代に上野忠親の書いた『雪窓夜話』には、“かの蛇神持ちたる者、遺恨ある人の名を言いて、『誰がしに往け』と咀ば、七十五匹の蛇ども鎌首を持ち立て、群がり群がり蜿蜒とのたくりて、仇ある家に襲い来る。それひとしく家内の人たちまちに悩まされ、身体腫れるあり、腰痛あり、針にて刺すがごとく、小刀にて削るがごとし”という記述がある。
これだけでも何となくわかるだろうが、トウビョウは主人の敵意、悪意を敏感に感じとり、その負の感情の矛先となった人間に取り憑く。そして、取り憑いた者の肉と皮の間に潜り、そこを這いずり廻ってとてつもない激痛を生む。
ただ、民間伝承では殆どの場合、本人の意思とは関係なく悪意のみに反応して他人を襲う厄介なものとされている。つまり、使役に関しては制御が難しい部類の霊獣なのだが、そのスカイスタンとやらが本当にトウビョウを自在に操っているのならば大したものだ」
「今はそんな話はどうでもいいから、志郎を助けてよ!!」
「慌てるな、これからトウビョウを落とすのだよ。だから、君も手伝いたまえ。少し荒っぽいことをやるから人手が欲しい」
いつの間にやら美女の手には、杖術に用いる全長四尺程度の杖が握られている。
「自己紹介が遅れたが『ファウスト』三幹部の一人、桐山依子だ。そしてあそこの椅子に座っている怪人が」
「同じく三幹部、マックス・フォン・シュレック子爵。鳥羽の説明は省略してもいいかな?」
怪人という言葉に気を悪くした様子もなく、飄々と笑う自称子爵。それを受けて、鳥羽も思わず苦笑する。
今この場所に、魔術結社『ファウスト』を設立した三幹部が集結した。
「どれ、こんなもんで良かろう。こいつ相手には殆ど気休めだが」
ベッドに上半身裸の志郎を厳重に麻縄で縛り付け、桐山依子は満足げに腕を組んで頷いた。
その手には使い込まれた杖がある。全長四尺一寸の樫の木で作られた直杖だった。
鳥羽も木刀を携えていた。背中の村正に間合いでは劣るが、彼の技量ならば問題なく扱えるであろう。
琴美も愛用の杖で武装している。戦闘服たる魔女の衣装ではないのがやや頼りなく感じるが、志郎を救うという意気込みはこのメンバーの中で最も強い。
シュレック子爵のみこれといった武器を用意せず、素手である。腰の短剣なども特に抜く気配はない。相変わらず飄々とした姿勢は崩さないままだ。
「それではもう一度、これから行う儀式についての説明をするぞ。これから私が加持祈祷をして、志郎の身体に巣食うトウビョウをいぶり出す。
仕事なら実際に護摩檀を組む外護摩でやるのだが、今回は身内の問題だし、省略してもよかろう。心のなかで壇を組む内護摩で祈祷を行うとしよう」
魔術において世界共通で重要視されるのは精神のイメージである。
シャーマン等は儀式を行使する祭壇や神殿を心の中に生み出す事で、霊的な存在を自らへ降ろす事が出来る。
また、魔術師は自身が神や聖人の代弁者=神や聖人そのものであると強く念じる事によって悪霊や魔神を従える事が出来るし、悪霊や魔神の姿を鮮烈にイメージすることによって、それらに実体を与える事すらも可能とする。
火の気のない場所に炎を生み出すのも、雲ひとつない天に稲妻を走らせるのも然り。その光景を明確にイメージ出来なければ、それを実現する事は出来ないのだ。
「古くからトウビョウ落としには、取り憑かれた人間の身体に蛇の血を振りかけて祈祷をする方法が取られてきた。というわけで今回は先刻、明久が山で捕らえてきたこのアオダイショウさんに尊い犠牲となっていただく!!」
手に持っているのはやや大きめのガラス瓶だ。その中では、よく育った太い胴体のアオダイショウが鎌首をもたげている。
依子の台詞を聞いてこの場で唯一の一般人、御堂樹里がやや顔色を悪くする。至極当然の反応であろう。
それに気付いているのか否か、志郎の枕元へ蛇の入った瓶を置くと、神妙な表情と語り口で依子が更に追い討ちをかける。
「ここで最も注意すべきはトウビョウが暴れ始めた時だ。
憑き物に憑かれた状態は普通の人間でも物凄い怪力を出す。狐憑きの症例に、小さな女の子を大の男が数人がかりでようやく押さえ込んだという報告もある程だ。普段から馬鹿力のこいつがそんな状態になれば、どれだけ危険か分かるだろう。
だからこそ縄で縛っているわけだが、これはさっきも言ったが気休めに過ぎない」
とん、とん、と杖で肩を軽く叩き、厳しく言い放つ。
「襲いかかって来たら、死なない程度にぶん殴れ。特に長谷川は容赦するな! 殺すつもりでやらんと、誇張抜きで八つ裂きにされるぞ!」
硬い表情と無言の頷きで返答する。ルーンの杖を強く握り直した。
「しかしアレだな、半裸で縛られた男子高校生とか……かなりの背徳感だ」
「真顔で何を言っとるんだお前は。生唾飲み込むな、舌なめずり止めろ」
「ハハハハ」
本気なのか冗談なのかよく分からない事を言う依子、冷淡にツッコミを入れる鳥羽、ただ笑うだけのシュレック子爵。
これから危険なトウビョウ落としの儀式をやるにしては、微妙に緊張感がない。
「ねえ、本当にこの人たちに任せて大丈夫なの?」
心配そうな顔で、樹里がそっと琴美へ耳打ちする。
「……愉快な人達なのは確かだけど、魔術の腕前に関しては私よりも遥かに上よ。名実共にうちの結社のトップ3総出でやるんだから、たぶん大丈夫」
それより、私が足を引っ張らないようにしなくちゃ、と改めて覚悟を決める。
「そうそう、単に愉快な人達ではないのだ!!」
妙なテンションの昂りを見せる桐山依子には、琴美も樹里ももはや苦笑いしか返せない。
「では、そろそろ始めるとしようか。危険だから、君は外へ出ていなさい。この部屋には結界が張ってあるから、外にいれば安全だ」
そう言われ、未練ありげな顔で樹里が退室した。渋々といった感じだが、仕方ない。この場にいても彼女に出来る事は残念ながら無いのだ。
「それでは……行くぞ」
依子が左手で首根っこをつまみ上げ、蛇を瓶から引き出す。
「蛇よ、許せ」
ピシッ! と鋭く風を切って、空いた右手を払う。小刀やナイフを隠し持っている様子もないが、それだけで蛇の首がぼとりと落ちた。
蛇は頭を失っても身体を捩らせて暴れている。鋭利な切り口からは、じわじわと血が溢れていく。
それを志郎の胸へ振りかけ、出来上がった血溜まりに指先を浸して、いよいよ祈祷を始めた。
「自此莫過祓給清給……自此莫過祓給清給……」
祝詞を唱えながら独特の呼吸法で体内の気を高め、相手の身体へ送っているのだ。それによって、やがてトウビョウはいぶり出されるはずである。
十分もしないうちに、変化が訪れた。
志郎の皮膚にミミズ腫れが新たに浮き上がって来ると、それが全身をうぞうぞと這いずり廻る。
いよいよトウビョウが暴れ始めたようだ。体内を蛇が這う激痛に苛まれ、志郎の顔が瞬く間に歪んでいく。
同時に彼を縛っている縄からミシミシという軋みが聞こえ始めた。
「そろそろ来るぞ!!」
鳥羽が声を上げて木刀を正眼に構える。琴美も杖を中段に留め、迎撃の体勢を取った。シュレック子爵は軽く拳を握っている。
「自此莫過祓給清給、自此莫過祓給清給、自此莫過祓給清給、自此莫過祓給清給……!」
祝詞に力がこもっていくのに比例して、志郎の身体の震えも増していく。
「自此莫過祓給清給、自此莫過祓給清給、自此莫過祓給清給…………無上霊宝神道加持!!」
叩き付けるように力強く祝詞を言い放った。
その瞬間、轟音を伴い、ベッドが一瞬のうちにひしゃげた鉄塊のオブジェと化した。頑丈なはずの縄がいとも容易く千切れ飛ぶ。
その勢いのまま、志郎は天井まで届くほどに高く跳躍していた。
野猿のような身のこなしで、近い位置の者へ飛び掛かる。不幸にも、本来は少年のパートナーである魔女がその標的となった。
大振りな動作だが、拳が矢継ぎ早に鉄槌のように打ち下ろされてくる。
風圧だけでビリビリと顔が痛む。恐らく一撃でも食らえば骨を小砂利のように粉砕され、筋肉と内臓を挽き肉のように潰されて命を落とすだろう。
「くっ!!」
突き出された拳を何とか杖で捌き、いなし、顎めがけて石突きを跳ね上げた。上手く当たれば脳震盪を起こすはずだ。
しかし顎を打ち据える寸前、志郎は持ち前の反射神経を発揮してそれをかわし、続いて低い姿勢での体当たりを仕掛けていた。
ラグビーのように肩からぶつかるタックルだ。食らえば琴美の華奢な身体は容易く弾き飛ばされ、背中から壁に激突することは想像に難くない。
「うわっ……!!」
眼前に志郎が瞬く間に接近してくる。間に合わないと半ば死を覚悟したが、横合いからシュレック子爵が強烈な飛び蹴りを見舞い、その攻撃を阻む。
肩口へ楔のように打ち込まれた蹴撃に体勢が崩れ、動きが一瞬停まった。更に依子が脇をすり抜けながら、杖で脚の脛を払う。
鈍い音がして、僅かに膝が折れた。流れるような連携だ。
トドメとばかり、背後に迫っていた鳥羽が木刀を斬り下ろした。
脳天を打って気絶させるつもりだろうか。
「ガアアッ!!」
獣のような唸りを上げて、無茶な動作で身体を捻りつつ、跳躍してその剣を回避する。
鳥羽の頭上を飛び越えたその瞬間、鳥羽が背中に携えた刀に志郎の手が掛かっていた。
しゃらんと刃が擦れる音がして、派手な鞘から妖刀が引き抜かれる。
そして着地した瞬間、身体全体ごと捻って、その刃を旋回させる。長大な刃の軌跡が歪な円を描いて閃いた。
四人とも一斉に飛び退いてそれから逃れる。
見ると切っ先にほんの微かに壁が斬り崩され、小さな瓦礫がからからと床に零れ落ちていた。
硬い煉瓦の壁すらも斬ることを可能とする。恐るべきは妖刀村正の斬れ味か、それとも狗賀志郎の人間離れした剛力か。
琴美の背筋にぞっと冷たい感覚が走る。
「……しまった」
斬撃の間合いから逃れると、刀を奪われた鳥羽がそう小さく呟く。
殺意のみを湛えて輝く眼に、乱れ刃紋の妖しい光が鬼火のように散った。
それに呼応するかのように、身体中でうねうねとミミズ腫れも蠢く。トウビョウの暴走はもはや最高潮のようだ。
しかし、憑き物に操られた頭でも、どうやら手に持つそれが殺傷力を備えた凶器と認識できる程度には知恵が廻るらしい。
ただ手に持っているだけとしか形容できない、構えも型も何もない不細工な格好だが、それでも村正を手にした志郎からは言い様の無い迫力が感じられる。
「鳥羽、失態だな」
鳥羽の隣へ並び、シュレック子爵が相変わらずの笑顔で皮肉を言う。
「全くだ、お前らしくないぞ」
依子も隣に立ち、くくっと笑いながらそんな事を言う。
「まあ、そう虐めてくれるな。そろそろ終わらせるさ」
武器を奪われたにも関わらず、鳥羽も余裕の表情は崩れていない。
「ちょっと、何でそんなに緊張感ないんですか!?」
「大丈夫大丈夫、このくらい余裕さね」
背後で怒鳴る琴美――志郎が村正を手にした瞬間から、その顔色は青ざめている――に、依子が軽い調子で手をヒラヒラさせて応えた。
「と言うかな、そんなに自信がないなら引っ込んでろ。相棒に助けられてばかりの役立たずがしゃしゃり出て来ても邪魔なだけだ」
依子が冷笑を浮かべてそんな事を口にする。
口をぱくぱくさせる琴美など視界に入らないかのように、そのまま三幹部は揃って志郎へ向かい走った。
四者入り乱れての捕り物が開始されたが、琴美は呆然としている。
先の依子の発言。
恐らくは琴美を焚き付ける為の言葉だろうが、自分でも信じられないほどにこの一言は彼女の心を揺さぶりをかけていた。
(……言ったわね、私だって役に立って見せるんだから!!)
その時、先程村正に削られた壁の破片が目に留まった。
すぐに自身の得意技である“妖精の矢”を使う事を思い付いた。
小指の爪程度のごくごく小さいサイズなので、彼女の技量では大した威力にはならない。
しかし、今の彼女はそこで落胆などしない。
相棒をトウビョウの支配から解き放つ為に、命がけでぶつかる決意はすでに固まっている。
マントを翻し、シュレック子爵が志郎の眼前へ飛翔した。
横殴りに振るわれる村正を紙一重で見切り、相手のそれに倍する速度で鉄拳を見舞う。
正拳が胸元へ打ち込まれ、次いで、太腿へ脚を鞭のようにしならせてのローキックを見舞った。
だが、これも志郎の動きを完全に止めるには至らない。
わずかにたたらを踏むのみに収まり、再び気が狂ったような斬撃を繰り出してくる。
「まだ止まらないのか。そろそろ疲れてきたぞ」
手首をぶらぶらと揺らし、呑気な口調でマントを翻しながら剣をかわす。
「想像通りに打たれ強い。ならば、これはどうだ」
不敵に笑い、依子が杖を構え直した。
杖の先を左手で握り、右手は添えるように。右足を後ろへ引いて、そのまま杖を緩やかに頭上へ翳す。
夢想流杖術“霞”の構え。
桐山依子は東洋系魔術に関する豊富な知識を持つが、多くの武術にも精通している。
中でも得意とするのは、二天一流・宮本武蔵の決闘相手の一人、夢想権之助を祖とする夢想流の杖であった。
「イヤヤヤヤヤァーーーー!!」
丹田から裂帛の気合を放ち、疾風のように突進した。
志郎の体内に潜むトウビョウもその気迫に打たれたか、一瞬、反応が遅れた。
無茶苦茶に振るわれる凶刃の一つ一つを、樫の杖が丁寧に弾き、反らせる。
打てば太刀、突けば槍、払えば薙刀。
千変万化の操作によって、彼女の杖はまさしく万能の武器となっている。
「ほっ!!」
刃の嵐を掻い潜り、杖を片手突きに繰り出した。
夢想流杖術“稲妻”だ。
先端が吸い込まれるように額へ突き込まれ、鈍い音が鳴り響く。
志郎の身体が鼻血を引いて仰け反った。
「やったか?」
これでも志郎が倒れるには至らない。反抗の意思を見せて、再び刀が構えられた。
しかし、膝ががくがくと笑っている。杖術の達人たる桐山依子の渾身の一撃はさすがに効いたようだ。
これを好機と見て幹部達が仕掛けようとした。しかし、それよりも早く、石礫が志郎の水月を打つ。
琴美が後方から放った“妖精の矢”だ。
たまらず身体をくの字に折った彼へ、更に朗々と呪文を言い放つ。
「父は火、子は火、聖霊は火、悪魔の枷! ベタラニヨウ、べジュネ、カシュン! そしてベアイファ・サタヴィアス、マシュファタネルシェ、キーヤキー、バロンス、カトリヤノス! これらの名で呼ばれる神よ、悪魔らを縛り給え!!」
振り払ったアサメイの先端から、光の呪縛が迸った。
殺人鬼ハリー・ハワード・ホームズ戦で行使した白魔術が、トウビョウに操られた肉体の全身を締め上げる。
「早くしてください、長くは持ちません!!」
呪縛に抵抗する相手の力をひしひしと感じながらも、叫ぶ。
「よくやった、後は私に任せておけ!!」
心からの賞賛を口に破顔し、護符を手にした依子が飛翔する。
志郎の背後へ廻り込み、トドメとばかりその護符を貼り付けた。
「オンバジラギニ・ハラハジハタヤ・ソワカ!!」
胸に付着したままの血溜まりがまるで石を投げた水面のように波打ったかと思うと、そこから細長い紐のようなものが次々と這い出してくる。
鱗が黒曜石のようにぬめる光沢を放つ、眼の無い漆黒の蛇である。
全長は十数センチ程度、胴体の太さは鉛筆やペンとほぼ同じようだ。
伝承通り、首周りには金色の環の模様があるのが見て取れた。
「ほら、これに入れておけ」
「うむ、かたじけない」
鳥羽が護符の貼られた小さな壷を投げると、それを受け取った依子が蛇たちを次々と捕らえ、その中へ放り込んでいく。
瞬く間に蛇共は全て容器の中へ納まってしまった。
「なるほど、これがトウビョウなる霊蛇か」
興味津々といった顔でシュレック子爵が壷を覗き込む。
「ちなみに、トウビョウという名前には色んな説がある。
クダギツネのように、筒に入れて飼うことから筒憑と呼ぶとか、土で出来た瓶で飼うから土瓶、または瓶のなかに入れたものを飯や湯の初穂で養っているので、湯瓶と読んでいる文書もある。
藤の蔓が蛇を思わせるから藤の字をあてている、なんて説もあるな。実際、考古学でも藤の字の付く名字の家系と蛇神信仰の関連性は指摘されている。大蛇を臆することなく跨いだ勇気を龍神一族に買われ、鏃に唾を付けた矢で三上山の大百足を退治した伝説で有名な俵藤太こと藤原秀郷も、水霊信仰を司る小野派一族と因縁があるそうだ」
相変わらずの説明口調な依子だが、なるほど、蛇共が群れをなしてのたくるその様は、絡み合う藤の蔓を思わせるかもしれない。
「そんな説明はどうでもいいけど、とにかく良かったあ……」
全身傷だらけで床に転がり、気絶した志郎を抱きしめ、琴美が心からの安堵の息を吐く。
(ごめんね、こんなに傷だらけにしちゃって)
柔らかい掌で頭をそっと撫でる。
「んあ……」と小さく口を動かして不明瞭な事を言ったが、志郎は目を覚まさず、ようやくトウビョウの痛みから解放され、安らかな寝息を立て始めていた。




