2章の6
志郎が歩み寄った瞬間、琴美を抱きかかえた樹里が青い顔をして後ずさった。
奥歯をカチカチと噛み鳴らしている音が聞こえた。明らかに怯えている。
一応の生命の危機は去り冷静さを取り戻すと、今度はハールマンとその取り巻きを殺害した志郎への恐怖が生まれていた。
無理もない。ハールマンとの壮絶な死闘を物語るように、彼の身体は自身の流血と敵の返り血で深紅に染め上げられている。
「ああ……悪い、怖いよなそりゃ」
多分に戸惑いを含んで、かすれ声を出す。
「とりあえず事情は後で説明するから、もうちょっと待っててくれよ」
本当に悪かった、と最後に付け加える。
「鳥羽さん、どうする? 騒ぎになる前に逃げるか?」
上司に今後の行動について尋ねると、鳥羽は首を横へ振った。
「いや、どうやら公園の周囲に結界が張られている。あと数時間は一般人は入って来ないだろうし、この騒ぎも外へは漏れていない。死体処理班を呼べば問題ないだろう」
言うなり携帯電話を取り出してどこかへ連絡をした。どうやら件の処理班らしい。
それを聞いて志郎は安堵した。夕方の町のど真ん中の公園での戦いなど、さすがに初めてだったのだ。
ほとぼりが冷めるまでは身を隠そうかとすら考えていた程である。
大学の進学を目指しているので、こちらの仕事で学業に支障をきたすのは好ましくない。
安堵の息を何度も吐いているうち、連絡を終えた鳥羽が通話を切る。
「三十分くらいでこちらには到着するだろう。その時に、そこのお嬢さんも含めて、一度本部へ移動するぞ」
近くの植木の傍らに腰を下ろして力を抜いた志郎が、気だるげに「あいよ」と返す。
「しかし、また腕を上げたものだ」
志郎が座っている位置からやや離れた場所の茂みを漁り、鳥羽は無造作にそれを宙へかざした。
「ヒッ」と樹里から短い悲鳴が上げる。志郎もこれにはさすがに顔を引きつらせた。
鳥羽が握っていたのは、ハールマンの生首である。
血走った眼をかっと見開き、ぐわりと大きく開いた口からは粘い唾液と血がどろりと糸を引いて滴り落ちていた。
「この鏡のような断面、凄まじいな。腕力だけではこうは行かんぞ」
「ああ、分かった分かった! お褒めにあずかり光栄だから、それしまってくれ!!」
慌てた様に鳥羽を制そうとしたその時、志郎の全身に粟粒が立った。
本人は気づいていなかったが、この時彼が感じたのは“宿敵”の気配だった。
宿敵。
それは、この世に生まれたからには必ず出会い、刃を交える運命にある者同士である。
心臓を鷲掴みにされるような圧力を全身に感じながらも、背後を振り向く。
夕暮れを過ぎて夜の帳の降りた公園の植木の、木の下闇。
そこに気配を感じた。
腰の鞘に納めた刀の鯉口を切り、居合い構えをとる。
鳥羽も志郎のただならぬ様子と闇に潜む者の気配を感じたか、手元の生首を地面に置くと、操り人形・夜行に金棒を構えさせて戦闘態勢に移し、自身も背中の村正を一息に抜き放つ。
表裏一体の乱れ刃が闇の中の微かな光を吸い込み、妖しく輝いた。
ほどなく両者の視線に応えるように、闇の中から人影が浮かび上がってくる。
大鴉のような漆黒のマントを纏い、髑髏のステッキを手にした怪人だ。
からかうように、おどけたように、道化を思わせる仕草で拍手を打ちながら、銀の総髪を引いて近づいてくる。
立ち振る舞いのひとつひとつに、妖気ともいうべき異様な迫力が伴う。
しかしそれ以上に志郎の鼻を刺激したのは、その凄まじいまでの死臭だ。
魔法薬に用いる毒薬や植物の臭いと混じりあった腐った血肉の臭いが、マントの怪人の全身から漂っている。
人間や動物を生贄に捧げる類の術者とも何度か戦った経験はあるが、こんな酷い臭いを纏わりつかせた相手は今まで見たことがない。
「まさかホームズだけでなく、ハールマンまでも倒されるとは、予想以上だ。やるものだな、少年よ」
関心と嘲笑の入り混じった口調で、怪人が志郎へ感嘆する。
老人のようにしわがれていながらも、異様に重苦しく響く不気味な声だった。
怪人の異様さに飲まれかけながらも、志郎はやっとの思いで声を絞り出した。
「一体、お前は何者だ?」
「おっと、これは失礼」
やはり道化じみた大げさな身振りで、怪人がステッキを旋回させる。
「私は妖術師スカイスタンと申す者。歴代の殺人鬼達を蘇らせ、彼らにこの町で首を狩らせている殺人事件の首謀者さ」
事件を背後で操っていたのはこの男か。
刀を握る手に力が入る。
鳥羽も表情を強張らせている。
「さて、次は君の番だ。君の名前は? ああ、そこの人形使いは知っている。鳥羽明久だろう」
む、と鳥羽が不機嫌そうに顔を歪める。
どうやら敵は志郎にご執心のようだ。
「狗賀……狗賀志郎だ!!」
スカイスタンの妖気を跳ね返すように、気合を入れて怒鳴る。
それにさして怯んだ様子もなく、妖術師は顎に手を当てて志郎へじっと興味深そうな視線を向けていた。
「どうやら、狼の血が混じっているようだな。時代が移り、国が変わろうとも、私の前にまた狼が立ちはだかるとは面白い」
本当に楽しそうな顔で、スカイスタンが笑う。
「何だと、うちの家のことを知っているのか?」
狗賀家は狼の神を奉る宮司の家系だ。
その血筋は時折志郎のような獣並みに鼻が利いたり、人間離れした身体能力の異能者を輩出する。
「さて、それはご想像にお任せするよ。ハールマンは狼の力を呼び起こしたので期待していたのだが、不甲斐ないモノだ。やはり紛い物に本物は狩れないという事か」
地面に転がった狼男の生首を一瞥し、
「今日は戦う気はない、ただの顔見せだ。では、また会おう」
マントを翻し、スカイスタンは彼らへ背を向けて闇の中へ向かおうとする。
「待てコラァッ!!」
殆ど無意識のうち、志郎はその背中めがけて駆け出していた。
一息に間合いを詰め、出会い頭の抜き打ちで勝負を決める田宮流の抜刀術を放っていた。
それがスカイスタンの胴体を二つに斬り離そうとした刹那、横合いから影が飛び出し斬撃を阻む。
深編笠を目深に被り、刀を手にした黒の着流しの男だった。
体格は志郎よりも小さいが、驚くほどの力で鍔迫り合いから押し返してくる。
編み笠の下からかすかに伺える両の眼は異常に鋭い。
狼男ハールマンとの戦いで疲弊した精神が、不覚にもそれに一瞬飲み込まれてしまった。
「うおっ」
思わずよろめく志郎へ、着流しがさらに切っ先を突きこんで来た。
胸を刺されるかと思ったが、浅い。これは誘いか。
それを理解した瞬間、銀光が右肩へ閃き、灼熱の痛みが走った。
「がっ」と呻きながら、もんどりうって倒れてしまう。
痛みに耐えながらどうにか視線を敵へ向けると、倒れた自分を着流しが虫けらを見るような冷たい目で見下ろしている。
手にした刀の切っ先からは、鮮血が滴っていた。
殺されると思ったが着流しは何の感情も見出せない無表情で刀を鞘へ納めると、スカイスタンの元へ歩んでいく。
いつの間にやら、妖術師の傍らには着流しのほかにも、甲冑に身を包み顎に豊かな髭をたくわえた巨漢と、深紅のドレスの妖艶な美女が付き従っていた。
「残る殺人鬼はこの三人だ。彼らを見事破り、私の元までたどり着けることを期待しているよ。狼の末裔よ」
着流しが氷のような視線を投げ、巨漢と美女がにやにやと笑う。
それが酷く志郎の神経を逆撫でした。
このまま余裕で勝ち逃げするつもりか。
せめて一撃入れなければ気がすまない。
痛みに耐えながら、立ち上がる。
「チェエエエエエエエエエエッ!!」
蜻蛉の構えから地を蹴って走った。猿叫を迸らせ一直線にスカイスタンへ向かう。
背後で鳥羽の静止の声が聞こえた気がするが、知ったことか。
「チェストォッ!!」
薩摩示現流の剛剣“一手打ち”が唸りを上げて振り下ろされる。
猛火の如きその太刀を受け止めたのは、甲冑の男の大剣である。
どっしりと両足を地に据えて、志郎の剣を受けきっていた。
この男も生前は多くの人間を楽しみのために殺めた殺人鬼であろうが、その顔に浮かんだのは戦闘と殺戮への喜悦に歪んだ狂気の笑みではなく、意外にも静かな微笑であった。
それに一瞬、呆気に取られる。
「やるな、少年」
そう言って、巨漢が剣を横薙ぎに振り抜いた。受け止めた刀ごと志郎の身体が弾き飛ばされる。
熊のような猛獣を思わせる、剛力を込めた一太刀だ。
今日何度目かの地面との激突に、どうにか受身を取って体勢を立て直すと、今度はサーベルを手にしたドレスの美女が踊りかかった。
高く跳躍して頭上から攻撃してくる。深紅のドレスの裾が怪鳥の翼のように広がり、右手一本で構えたサーベルの剣尖はその嘴となって志郎を襲った。
脳天めがけて打ち下ろされるそれを何とか回避すると、着地と同時、今度は素早い動きでカマイタチのように全身を浅く細かく裂いてきた。
疾風を思わせる身のこなしから繰り出される斬撃は、今の状態では受け止めるのがやっとで防戦一方となってしまう。
翻弄されているうちサーベルに脇を抉られ、血が迸った。体勢を崩したところで美女の追撃が更に続く。
空いた左手を掲げ、右肩から左下腹部まで鉤爪を一息に振り下ろしてくる。
氷の美貌に浮かぶ亀裂のような笑みは、紛れもない狂気を湛えていた。
「ぐううっ!!」
軽く掠めただけで鋭い痛みが走り、赤い飛沫が弾け飛んだ。
見ると美女の左手の爪に抉りとられた血肉がべっとりと付着している。どうやら彼女の爪はナイフなみに切れるらしい。
「ウフフ……アハハハハハッ!!」
それをけたたましく笑いながらさも美味そうに舐めとり、血染めの美女が走り去る。
散々なぶられた痛みに膝を付きそうになると、再び着流しが眼前に走り出てくる。
刀は鞘から抜かず腰を地面に据えて、空気を鼻から吸い込んだ。
そして、大きく開いた口の奥に青白い火花が散る。それに志郎はハールマンの雄たけびを思い起こした。
まずい!! と思った。
本能的に飛びのいた次の瞬間、その口から放射状に業火が噴出した。
眉毛と前髪がちりちりとあぶられ、嫌な臭いを放つ。
どおっと背中に脂汗が流れていく。
ハールマンと戦ったとき以上に命の危機を感じていた。
殺人鬼をまとめて三人相手にしては、万全の状態でもおそらく勝てない。
しかし、それでも意地を張って立ち向かおうとした、そのとき、
「満身創痍でよくやるものだ、だが、今日はもう眠りたまえ」
背後から不気味なしわがれ声が鼓膜を震わせた。
肩にかぶさる手袋ごしでも感じられる、骨ばった冷たい手の感触。
それを認識したと同時、全身に激痛が走った。
皮膚の下を得体の知れないものが這いずり廻る、おぞましさを伴う痛みである。
「ぐああああああああああああああああああああああああ!!」
悲鳴をあげてのたうちまわる。
何も考えられない。
全ての感覚が痛みに塗り替えられていく。
「ふむ、この国にきてから見つけた拾い物だが、なかなかだな」
激痛に苦しむ志郎に、実験動物を目にした学者のような口調でスカイスタンがそんな台詞を言い放つ。
そしてすぐに興味を失ったかのように歩き出した。気配が遠退いていく。
鳥羽と樹里が駆け寄ってくるのが辛うじて分かったが、すでに志郎は気を失う寸前だ。目の前は真っ暗で何も見えない。
この状況では、スカイスタン達にはおそらく逃げられてしまう。
急速に薄れていく意識のなかで、志郎は誓った。
ここで俺を殺さなかった事を、後で死ぬほど後悔させてやる。




