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2章の5

 肩に突き刺さった矢の痛みが一瞬で吹き飛んだ。

 まずは驚愕が脳天から爪先まで全身を駆け巡り、それが収まると次は怒りが込み上げてくる。


 相棒に重傷を負わせた敵に対してよりも、むしろ自分自身に対してである。


 まだ実戦経験の浅い琴美に無茶をさせてしまった。

 ドッペルゲンガーを出す前に止めればよかったと、今更ながら後悔する。

 辛うじて冷静な表情を崩さす、志郎は奥歯を噛みしめる。



「長谷川さん、しっかりして!! 長谷川さん!!」



 樹里が血を吐いて倒れた琴美に駆け寄りその身体を抱き起こすものの、すでに意識はないらしく呼び掛けに応えは返ってこない。

 表情は虚ろで顔色は血の気を失い青白く、時折咳き込みと共に口腔からドロリとした鮮血が溢れていく。



「なんだかよく分からねえが、もうそいつは動けねえようだな。どうするガキぃ、足手まといが増えちまったぜ?」



 ゲタゲタと耳障りな大声で、ハールマンが笑う。


 確かに苦しい状況だ。

 この二人を庇いながら果たして自分一人でハールマンを倒せるのか?


 これはいよいよ、命を捨てる覚悟をしなくてはならないようだ。

 だが、せめて傷付いた相棒と何も知らない無関係な同級生は逃がしてやりたい。


「御堂、俺が死んだらお前は長谷川連れて逃げろ」


 二人を背中に回すように立ち、背後の樹里に向かって言い放つ。

 それを受けた樹里の円く大きな眼が驚愕に見開かれる。


「こんな時に何言ってるの!?」


「巻き込んじまった罪滅ぼしだよ。なあに、俺だって死ぬつもりはねえさ」


 そう言うと顔をしかめて、肩に突き立ったままの矢に手をかけた。

 骨に響くぶちぶちと筋肉の千切れる感触に寒気を覚えながらも力任せに引き抜き、投げ捨てる。

 次に肩の具合を確かめるようにぐるぐると回し、上下にすくませた。


 痛みは激しいが、やはり大きな血管は傷つけられていないようだ。

 骨にヒビくらいは入っているかもしれないが、いつもの事である。


 刀を一振り、刀身に伝う血糊を払うと、切っ先を膝下にまで垂らした下段構えを取る。



「さあ、かかってきな!!」



 ここで死にたくはない。死ぬつもりはない。それは偽らざる本心だ。

 自分一人だけでもハールマンを斬ってみせる。

 力及ばず死ぬにしても、何も抵抗せずに殺されるつもりはない。

 最低でも手足の1〜2本は持っていく!!


 叩きつけるような気迫に、ハールマンは一瞬気圧されたように見えた。しかし、次の瞬間には肉切り包丁を構えて歪んだ笑みを作る。


「へっ、男じゃねえかテメエ。それによく見りゃなかなかの美形だ。気に入ったぜ、テメエは俺がレバーソーセージにして食ってやるぜ!!

 そして、女共はテメエの肉を食わせてから生け贄に捧げてやる!!」



 アオオーーン!! と狼男が喉をそらして天に吠える。



 根元的な恐怖心を揺さぶられるその咆哮に負けじと、志郎も雄叫びを上げた。


「なめるんじゃねえよ、駄犬が!! テメエ一匹くらい斬ってみせらあ!!」



 開戦を告げるように両者が地を蹴った。


 先手を取ったのは志郎だ。

 下段から掬い上げるように、胸元めがけて鋭く突きを放つ。


 対するハールマンはその刺突を後方へ退いてかわし、凶刃を右手一本で振り下ろしてきた。

 しかし、志郎も後ろに足を運んでそれを回避し、そして素早く突きを小手へ変化させる。

 得物の間合いならば包丁よりも日本刀の方が勝る。

 流れるような動作で右手に剣尖を打ち下ろした。


「ぎゃっ!!」と絶叫が迸る。ハールマンの手首が内側から中程まで、ザックリと斬り開かれていた。

 灰色の毛皮の中で厭に赤い色をした筋肉が蠢き、その断面がびゅうっと勢いよく鮮血を吐き出している。

 激痛に呻きながら、ハールマンが飛び退いた。苦し紛れに繰り出した左手の爪を巧みに剣で捌き、志郎もすすっと距離を取って下がる。

 ハールマンを見やると魔人の肉体に備わった治癒能力により、すでに手首の出血は止まりかけている。真っ赤な肉の断面はあっという間に縮まり、灰色の毛皮へ覆われ消えていった。


 手首を完全に切断するつもりだったが、やはりそう簡単にはいかない。

 反射神経・動体視力もさるものながら狼男の肉体は分厚い体毛に覆われており、厄介なことにそれ自体が刃を通し難くしている。



 苦虫を噛み潰したような顔で再び刀を手に、ハールマンへ立ち向かう。


 相手との距離は今は十数メートル開いている。小細工は考えず、攻めることを覚悟した。

 どのみち、この化け物相手には一撃必殺を狙うしかないのだ。


 下段から頭上右に高く剣を置き、蜻蛉の構えになる。

 次の手には自身の気性に合った攻めの流派、示現流を選んだ。


「チェエエエ!!」


 猿叫を発し、野獣のような脚力を発揮してハールマンに襲い掛かる。


 対するハールマンも志郎へ向かい真っ直ぐに走り出す。そして何を思ったか、足を思い切り跳ね上げた。


 砂埃と共に、拳骨と同じほどの大きさの石が志郎の顔面へ迫る!



 舞い上がった砂に視界を遮られながらもかわす。間一髪、ヂッと頬を掠めて石が後方へ飛んでいく。

 頬から血が一筋垂れていく感覚が酷く気持ち悪い。


 冷や汗が流れていくのを感じつつも敵の姿を探すと、ハールマンは彼の脇を抜けて少女達へと迫っていた。

 ハールマンの台詞を信じるならば今は殺す気がないようだから、人質にでもする気か。


 どちらにせよ、指一本触れさせない。



 しかし、駆けていく背中へ棒手裏剣を放とうとしたその時、黒々とした光沢を放つ巨体が琴美と樹里を守るように狼男の進路へ立ちはだかった。


 右手に携えた鈍器で包丁を防ぐと同時、左手の拳が鼻面を殴る。

 更にうめきを発するハールマンの首に喉輪を決めると、軽々と投げ飛ばしてしまう。


 恐ろしい怪力であった。

 見事な弧を描いて、志郎のすぐ近くの位置にまでハールマンが仰向けに投げ出される。げえっとカエルがつぶれたような声が漏れた。


 突然現れた巨体に志郎の目が釘付けになっていた。


 見覚えのある。いや、ありすぎる存在だ。



「あれは、夜行か」




 そこには180センチはあろうかという巨体を重厚な甲冑で鎧った鎧武者の姿があった。

 鎌倉武者が用いた野太刀を背負い、手には丸太のような大金棒を持っている。

 兜、胴、籠手、脛当てに至るまで鈍い黒鉄の光沢を放ち、胸には朱色の梵字が荒々しい筆遣いで殴り書きしてあった。


 牛を思わせる、一対の太く鋭い角を備えた兜の下から顔が見える。

 鼻から上には爛々と黄金色に輝く単眼が鎮座しており、耳まで裂けたように大きな口に、銀色の牙が日月のように輝いていた。


 その関節は自在な動きを可能とする球体関節。

 それでいてわずかな軋みすらも鳴らさず、生身の人間のように滑らかな動きで金棒を肩へ担いでみせた。


 口は腹話術人形のように上下に開閉する機構となっており、ぐりぐりと動く一つ眼と相まってそれだけで様々な表情を見せている。


 それは、精巧に作られた人形であった。



 夜行――首なし馬に跨がり百鬼夜行を統べ、出会う者の尽くを投げ飛ばし蹴り殺す、怪力無双の鬼大将。


 日本古来の妖怪を模した人形を扱う術者に、心当たりは一人しかいない。


「いつまで経っても本部に来ない、連絡も入らないと思って様子を見に来たら、こんなところで妙な化け物相手に大立ち回り。

 しかも、存外に苦戦しているようじゃないか」



 コツコツと革靴の音を響かせ、余裕の足取りで人形の傍らへ歩いてくる者がある。


 鼻筋の通った端正な容貌の青年だった。


 オールバックにがちりと固めた黒髪に、右手首には水晶玉を嵌め込んだブレスレットが夕陽を集めて照り返っている。

 季節感のない白いロングコートの裾をはためかせ、威風堂々とした姿勢は崩さない。

 何よりも刃物を思わせる、一重瞼の鋭い瞳が目を引いた。



 背中には銀無垢の鍔と、朱塗りに金箔で龍の細工が施された、ど派手な鞘に納められた長尺刀を背負っている。

 徳川を祟り続けた妖刀として名高い村正である。


 役者のような、とでも評するべき冷酷仕立ての美男が夕闇の中に現れた。


 鳥羽明久(とばあけひさ)

 志郎と琴美が所属する魔術結社『ファウスト』の幹部にして、組織の創設メンバーの一人。


 他者の研究成果の奪取という、ファウストの過激な理念を最も色濃く体現する者である。


 召鬼法と呼ばれる特殊な呪を施した人形を操る秘術を得意とするが、本人も柳生新陰流剣術の優れた使い手だ。ファウストにおいて間違いなく最強の一角を担う魔術師が、忽然とその姿を現した。


「辛いようなら、手を貸すぞ」


 背中の長刀に手をかけながらの台詞に対して、ふんっと短く息を吐き怒鳴り返す。


「せっかくだが、お断りするね。こいつには相棒が痛め付けられてんだ。俺の手で斬らなきゃ面子が立たないんでな」


「そうか、なら好きにするといい。俺はこの子達を守っておく」


 簡潔にそれだけ口にすると、鳥羽は夜行と共に少女達の傍らへ立つ。


 その姿を一瞥もせず、志郎は身を起こし始めているハールマンと対峙する。言葉通り、本気で一人だけで倒すつもりのようだ。



「あっ、あの、どちら様ですか?」


 突然姿を現した謎の青年へ、この状況では少し間抜けな質問を恐る恐る、樹里が口にする。


「あの剣術馬鹿のバイト先の上司さ。君らは私が守るから安心しなさい」


 冷たい美貌に反して意外にもその口調は柔らかいものだった。


「そ、それじゃあ手助けした方が」


「大丈夫、あいつの戦いを見てなさい。きっと勝つさ。それに、手出しするなって言ったのはあいつだしな、発言には責任持たなきゃいかんのさ」


 どことなく楽しんでいるような口ぶりで、部下の戦いを眺めている。

 樹里も心配さを滲ませながらも、結局は同級生を見守るしか出来なかった。



 全身に殺気をみなぎらせて、狗賀志郎は刀を正眼に構えた。


 同級生は鳥羽が守っているのだ。ならば余計なことは考えずに戦える。


 切っ先の向こうで倒すべき敵が、殺人鬼フリッツ・ハールマンが投げ飛ばされたダメージを回復させ、起き上がって来ている。


 怒りと憎悪を込めて血走った眼が射貫くような視線を送って来た。


 それに負けじと志郎も睨み返す。



(…………斬る)



 その覚悟を口には出さずに、切っ先を小刻に動かして幻惑させた後、頭上へ振りかぶった。


 繰り出される手は、片手面打ち。

 志郎の学んだ田宮流居合い術は、鞘から抜き打つ一太刀の間合いを重要視する。

 そのため、『柄に八寸の徳、見越しに三重の利』というように、通常の六寸の柄よりも二寸も長い柄の刀を使用するのだ。


 その得物の特性を最大限に活用した片手斬りは、驚くほどの間合いを生んでハールマンへ襲いかかった。



 彗星のような軌跡を伴い、刃が大気を引き裂いて迫る。

 それが頭蓋を割る寸前、ハールマンの肉体が土煙を巻いて掻き消えていた。



 右上方へ跳び跳ねて、今の一撃を逃れたようだ。

 かなりの飛距離が生まれており、両者の間に大きく距離が開くこととなった。

 着地した後、側面からの攻撃を仕掛けるつもりだろうか。


 八相に構え、迎撃体勢を取る。


 しかし次の瞬間には、予想を越える攻撃が待ち構えていた。

 ハールマンは空中でぐるりと身を捻ると、そのまま見えない壁を蹴るように真っ直ぐ志郎へ突進――否、急降下を仕掛けてきたのである。


 グオオン!! と獣の唸りを伴い、片手殴りの包丁の一撃が見舞われる。

 胴体が真っ二つに千切られるか、内臓をぶち撒けるか。

 どちらもごめんだ。

 回避する暇は与えられていない。ならば、受け止めてみせる。

 水平に薙ぎ払われる刃を峰に左手を押しあて、垂直に構えた刀で防ぐ。


 鉄を叩きつけられる鈍い音と衝撃が腕から肩へ走り抜ける。

 手にじんとした痺れを覚えるよりも早く、斬撃の凄まじい威力にぶわりと足が浮き、志郎の身体は無様に吹き飛ばされていた。


 視覚がぐるりと回り、自動車に轢かれたような感覚が全身を襲う。ほどなく、地面に叩き付けられたと気付いた。


 派手に転倒させられてしまった。

 地面に叩きつけられた肩がおろし金で擦ったようにじくじくと痛む。擦過傷になっているのだろう。

 おまけに地面に顔面から突っ込んだ為に、土と熱い口付けをする羽目になり、砂のジャリジャリとした不快な感触と鉄錆臭い血の味が口腔に満ちた。

 鼻も打ってしまったようで、つんとした痛みが鼻腔の奥に広がってきている。


 追撃が来る前にどうにか素早く起き上がって体勢を立て直し、べっと砂利と血混じりの唾を吐く。


 今の攻撃には意表をつかれた。

 狼男の優れた身体能力ゆえの芸当か。何にせよ、初撃をどうにかやり過ごせたのは幸運だ。

 改めて人間と動物のキメラたる獣人の能力に畏怖を覚える。それと同時に、今の攻撃がまた来ても次は上手く捌いてみせると心の中で決意した。



 警戒してその場を動かず様子を伺っていると、再びハールマンが宙を飛んだ。


 休む間もなく空気の壁を蹴っての急降下が、連続で叩き込まれて来る。


 爪が額を裂いた、牙が肩を掠めた、包丁が太股を引き裂く。


 四方八方から襲い来る包丁が、爪が、牙が、たちまち志郎の全身を切り刻んだ。


 腕や腹や太股の痛みが激しい。右頬には鋭い鉤爪で引っ掛かれた裂傷が四本走って、彼の整った顔立ちを痛々しい様相にしていた。



「狗賀君!!」


 あまりの惨状に樹里が悲鳴を上げるが、志郎は痛みに青ざめた顔色ながらも精一杯の笑顔を返す。太く長い犬歯をむいた、野性的な笑みだった。

 普段ならば怖がっているだろうが、今はそれに頼もしさがあった。


 ヒュウ、と感心したように鳥羽も口笛を吹く。あそこで笑えるとはなかなか肝が据わっていると感心しているようだ。


 まだだ、まだ俺は戦える。


 長く息を吐いて、気合いを入れ直す。


 傷は確かに多いが、しかしどれも致命傷を辛うじて避けている。

 それどころか攻撃を受け続けるうちに、彼はハールマンの攻撃を見切り始めていたのだ。



 それに気付いているのか苛立つように獣面を歪め、再び狼男が跳躍して見えない壁を蹴った。

 今度は左側面からの攻撃だ。

 視線を向けもせず、気配だけで右方向へ避けてみせる。

 更にその勢いを乗せて身体を旋回させ、横薙ぎに刀を一閃した。

 大口を開けて志郎の首筋を喰い千切ろうとしていた狼男の額から、一文字に血が爆ぜた。

 剣が脳に達する事はなかったようだが、それでも驚くほどの量の血が流れ落ちていた。


「畜生め、さっさと死にやがれぃ!!」


 傷の痛みとしぶとく抵抗する志郎に痺れを切らしたか、ハールマンが刃を振りかざして正面から迫る。


 対する志郎はハールマンとは逆に冷静である。

 確かにハールマンの腕力は飛び抜けているが、そこには技も型も流派もない。

 落ち着いて対応すれば、無茶苦茶に振り回される包丁を見切ることは決して不可能ではなかった。


 繰り出される斬撃の尽くを見切り、いなし、包丁を空振りさせる。火花と剣戟の音が鳴り響く中で太刀捌きの冴えが増していく。



「りゃあああっ!!」


 防御から一転、隙を見付けて志郎が攻撃へ転ずる。


 左手で逆手に包丁を構えたハールマンと、八相に刀を構えた志郎が、真正面から激突する。


 腕力ではハールマンには敵わないが、技術では志郎が勝る。暴風のように繰り出される猛攻を掻い潜り、精密な動作で切っ先を斬り込ませる。どばっ! と鈍い音と血飛沫を伴い、ハールマンの左肩が割れた。


「ぐおっ!!」



 血飛沫を引いて、ハールマンが這いずるような足取りで距離を取る。


 そして今度は胸をそらすと、鼻から勢いよく空気を吸い込み始めた。それを咆哮へと変換して解き放つ。



「アオオオオオオオオオオーーーーーン!!!!」



 志郎へ向けて放たれる音の暴力。それはすでに衝撃波に近い。

 木々が怯えるように震え、大地すらも揺るがす。

 爆音が扇形に砂埃を巻き上げ、小石を粉々に砕きながら志郎を襲う。


 爆発的な肺活量が生む、魔狼の雄叫びだった。


 受ければさすがにひとたまりもない。

 身体を丸めてゴロゴロと地面を転がりながら攻撃範囲から逃れ、相手の様子を伺う。


 再び胸を反らして空気を吸い込もうとしている。そこに隙を見出だした。


 好機とばかり、棒手裏剣が投擲される。

 びょお、と風を切って投げた手裏剣が胸元と喉笛へ見事に命中し、深々と突き刺さった。


「うっ、げえっ!?」


 せり上がってくる血を喉に詰まらせたか、ハールマンがゴボゴボと異様な水声と共に深紅の泡を吐き出した。でろりと垂れた舌からは、粘い血塊が零れて大地を汚す。


 大技と言うものはそれが強力であればあるほど、威力に見合う隙があるものだ。

 それを理解もせず立て続けに使おうとするからこうなる。

 ハールマンに微かな憐れみを覚えながら、志郎の足が地を蹴った。


「づああああああっ!!」


 喉から気合いを振り絞って剣士が跳躍し、殺人鬼へ真っ向から飛びかかる。


 手裏剣を抜こうともがくハールマンの左肩の付け根へ、落下速度と体重、自身の剛力を乗せて、大上段に振り下ろす。


 厚い毛皮に守られた強靭な筋肉と硬い骨を切断し、それだけでは飽きたらず、切っ先が深々と土へ埋まるほどの強烈な斬撃だった。

 左腕がマネキンか石膏細工のように無造作に、包丁を握ったまま宙を舞って斬り飛ばされる。

 それはドサリとやけに重苦しい音を伴い、公園の冷たい地面へ放り出されていた。


 数瞬の間を置いて、心臓に近い部位を切断された身体から夥しい量の血液が怒濤のように噴き出された。



「ギアアア、ウゲッ、アギャアアアア、ゲエエエエッギャアアッ!!」



 耳を覆いたくなるような絶叫を上げて、ハールマンが血の海の中で激痛にのたうち回る。


『首を落とすか、脳を壊すか、心臓を潰すか、胴体を切断するかしなくては止まらない』とは、先日葬ったホームズ医師ことハーマン・ウェブスター・マジェットの弁だが、魔人の肉体でも恐らくこれは効くだろう。


「今のは長谷川のお返しだ。普通の人間じゃすぐに意識も無くなって死ぬだろうが、お前らはまだそれじゃ死ねないんだろう。生命力が強いってのも考えもんだなぁ!!」


 ハールマンの肉体は、みちみちと腕の断面の筋肉を軋ませて出血を止めようとしているが、それでも流血が止まる事はない。やはり、再生力が深傷に追い付いていないようだ。


「ぢ、ぢグジョうゥ、ガギめエエェ!!ユルざねえゾォッ」


「許さねえってなこっちの台詞だ、テメエそろそろ地獄に帰れ!!」



 もはや理性を吹き飛ばし、獣の本能のままにハールマンが襲い掛かる。志郎の眼前に弾丸のように迫り、高々と掲げた爪を振り下ろした。


 志郎も、ハールマンの頭蓋を割るべく上段から刃を叩き落とす。


 ハールマンの爪は浅く志郎の肩を裂いた。


 志郎の刀はハールマンの頭蓋には届かず空を切る。


 また空中へ飛んだか。それを志郎が頭で理解するよりも早く、背後で気配を感じた。


 何度も味わわされたあの技が来る。空中で身を翻す動作に大気が震えるのを肌が感知する。


 狼の唸り声を引いて、延髄を喰い千切ろうと真後ろから牙が迫る。



「うおおおおおおおおおあああああっ!!」



 天に轟く怒声を上げて、志郎は背後の敵へ右手一本でその技を放っていた。


 背後を振り向く際の腰の捻り、腕の伸び、地を踏み割らんばかりの踏み込み。



 その全てを一点に集中し、魂魄を込めた必殺剣が大気を穿つ!!







「鹿島神道流“鴫羽返(しぎのはがえし)”か……また腕を上げたな」



 鳥羽明久が小さく口にする。

 今まで見た志郎の技の中でも最高の冴えを以て繰り出された剣に、片方の口端をほんの少しだけ上げて笑う。



「か、勝ったの……?」


 御堂樹里が凄まじい速業を目の当たりにして、呆然と呟く。

 素人目にもわかるほど、狗賀志郎の見せた剣速は並外れていたのだ。



 牙が後頭部に食い付く紙一重、振り向きざまに放った片手突きが一条の光となってハールマンの大口へ叩き込まれていた。


 名刀・井上真改が喉を破り、後頭部までを貫き通す。

 切っ先から滴る血がぽたり、ぽたり、ハールマンの背中へ落ちていた。


 ハールマンは延髄から血塗れた刀身を生やし、白眼をむいて血の泡を吐き、断末魔すら上げられずにひくひくと痙攣している。



 その口から、ズルリと刃を引き抜くと、


「これで、終わりだ」


 返す刀で銀光を一閃させる。


 鳶の鳴き声に似た鋭い刃音と、首の骨を切断する胸の悪くなる音が静寂を破った。

 灰色の生首が紐のような血を棚引いて、すでに陽が落ちた夜の闇の向こうへ高々と刎ね飛ばされていった。


 数瞬遅れて、首を無くした屍がどっと膝を折り、地に伏せる。

 それが二人目の殺人鬼、『ハノーファーの狼男』フリッツ・ハールマンの最期であった。



「二度と地獄から出てくるなよ。バケモン」



 顔に付着した返り血を拭いもせず、手慣れた動作で刀を血振るいして鞘に納める。

 そして、ポケットから取り出した煙草へ火をつけ、紫煙を吸い込み、安堵の息と共に吐き出した。



「どうだ、勝ったぞ」



 疲労困憊ながら仲間達へ向けて笑顔を作る。彼の瞳に映る長谷川琴美が、意識がない筈なのに微かに微笑んだ気がした。


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