何も起こらない、贅沢な空白
金曜日の夜。佐藤はスマホのアラームをすべてオフにして眠りについた。
「明日は目覚ましをかけずに、気が済むまで泥のように眠ろう」
そう意気込んで布団に入ったはずだった。
しかし——目を開けると、室内にはうっすらと朝の光が差し込んでいた。枕元の時計を見ると、針はぴったり「6時30分」を指している。
「……また、起きてしまった」
長年のサラリーマン生活で体に染みついた体内時計は、アラームを消したくらいでは狂ってくれなかった。二度寝をしようと目を閉じてみたが、すっかり頭は冴えてしまっている。
溜息をついて布団から抜け出し、顔を洗って居間へ向かった。
とりあえず朝食を用意する。トーストを焼き、自分で淹れたコーヒーを淹れ、目玉焼きを焼く。いつもの平日の朝と同じ、規則正しいリズムで身体が動く。
……そして、7時半。朝食を食べ終えたところで、完全に手が止まった。
やることが、何もない。
東京で一人暮らしをしていた頃の週末は、いつも理由もなくバタバタしていた。
AIアシスタントに催促される溜まった家事、部屋の掃除、洗濯、作り置きの買い物、スマホから流れてくるSNSの通知や処理しきれない情報の山。大したこともしていないのに、気づけばあっという間に夕方のチャイムが鳴り、「ああ、今日も何もできずに休日が終わってしまった」と強い焦燥感に苛まれていた。
けれど、いまの実家は違う。
ふと廊下を見ると、母親がすでに古い掃除機をかけていて、部屋はチリひとつなく綺麗だった。洗面所からは洗濯機が脱水を終えた音が聞こえ、すでに洗濯物は庭の物干し竿で夏の風に揺れている。
一人暮らしの頃の「休日に片付けなければいけないタスク」が、ここには何ひとつ存在しなかった。
「……本当に、やることがないな」
佐藤は縁側にぽつんと腰を下ろした。
庭では蝉がじわじわと鳴き始めており、近所の畑からは風に乗って土の匂いが運ばれてくる。遠くで踏切の警報機がカンカンと鳴り、ゆっくりと消えていった。
東京にいた頃の自分なら、この「何もしていない時間」に耐えられず、すぐにスマホを開いてSNSを巡回するか、AIに「有益な休日の過ごし方」を検索させていただろう。
だが、今の佐藤の手元には、スマホもARメガネもない。
ただ、膝の上で自分の掌をぼんやりと眺めている。
爪の間に、先週の農作業でついた微かな土の跡が残っていた。パンクを直した時のゴムの感触、小林さんに教わった波縫いの感覚、会社で叩いた電卓の重み。
(……これで、いいんだろうか)
こんなにも穏やかで、何の生産性もない時間を過ごしていていいのだろうか。
ふと、そんな贅沢な不安が頭をよぎる。東京での「効率と生産性」に追われていた後遺症のようなものだ。
その時、ポッケからスマートフォンが震えた。
画面を見ると、あの「喫茶マニュアルテック同好会」のグループメッセージ(というより、おじさんたちの拙い手打ちのメッセージ)だった。
『渡辺:佐藤くん、暇ならウリ食いに来い』
『鈴木:今から喫茶店で将棋やるぞ〜』
『高橋:ノートの納品が終わったので私も寄ります』
思わず、ふっと口元が緩んだ。
誰も「効率的な休日」なんて求めていない。
ただ、朝起きて、ご飯を食べて、時間が余ったらお互いの顔を見に行って、くだらない話をする。それだけのことが、こんなにも心を平穏にしてくれる。
「……いいんだな、これで」
佐藤は呟き、大きく息を吸い込んだ。
都会の焦燥感は、もうどこにもなかった。
佐藤は縁側から立ち上がると、昨日パンクを直したばかりの自転車の鍵をポケットに入れ、青空の下へとゆっくり歩き出した。




