家族に使用人同然に扱われていた私を、王子殿下が妃に望まれました――けれど、粗末な服の私を笑った方なのでお断りします
王宮の夜会へ行くと聞かされたのは、出発の一時間前だった。
「あなたも来なさい、エレナ」
義母は鏡の前に座ったまま言った。
私はその背後で、義妹ロザリアの髪に真珠を挿していた。
「私も、ですか」
「そうよ。ロザリア一人では、少し華やかすぎるでしょう。隣にあなたがいれば、ちょうどよいわ」
義母は鏡越しに私を見て、薄く笑った。
意味は分かった。
私を連れていけば、ロザリアがさらに美しく見える。
それだけだった。
「ですが、私には夜会用のドレスがありません」
「昔、お母様がお召しになっていたものが残っているでしょう」
「あれは喪服に近いものです。それに、丈も合いません」
「一晩くらい我慢なさい」
義母は面倒そうに扇を開いた。
「家族全員で出席することに意味があるのです。伯爵家の娘が、服がないから行けませんでは済まないでしょう」
服を用意しなかったのは義母だった。
社交教育を受けさせなかったのも、舞踏会へ出ることを知らせなかったのも。
けれど彼女の中では、準備できていない私が悪いことになるらしい。
「お姉様、早くしてくださらない?」
ロザリアが椅子の上で苛立った声を出した。
「殿下がお見えになるのよ。髪が崩れていたらどうするの」
「もう終わります」
最後の真珠を挿し、私は一歩下がった。
ロザリアは鏡の中の自分を見て、満足そうに微笑んだ。
淡い桃色のドレス。
細かな金糸の刺繍。
首元には、母が遺した真珠の首飾り。
それは本来、私のものだった。
母の死後、家の宝飾品を管理すると言って義母が引き取り、そのままロザリアが使うようになった。
父に訴えたこともある。
「家の中のことは、ベアトリスに任せている」
返ってきたのは、それだけだった。
父は、義母が私を朝から晩まで働かせていることも、私の部屋が北棟の物置へ移されたことも、私の食事が家族の残り物になったことも知っていた。
知らなかったのではない。
見なくてよいものとして処理していた。
母が亡くなって七年。
私は伯爵家の長女でありながら、使用人と同じ時刻に起き、使用人より遅く眠った。
ロザリアの服を整え、義母の手紙を書き、食料庫の帳簿をつけ、客間の花を替えた。
働かないと、役に立たない娘だと言われた。
働いても、家族なら当然だと言われた。
その日の夜会でも、私はロザリアの支度を終えてから、自分の準備を始めた。
亡き母の古いドレスは、肩がきつく、裾が短かった。
髪を結う時間はない。
洗面台の水で顔を洗い、一本だけ残っていた黒いリボンで髪をまとめた。
靴は、ロザリアが数年前に捨てたものを履いた。
爪先が狭く、立っているだけで痛んだ。
けれど、靴とはそういうものだと思っていた。
王宮へ着く頃には、踵の皮が剥けていた。
広間には、光が満ちていた。
金色の燭台。
磨かれた大理石。
鮮やかなドレスと、宝石と、香水の匂い。
私だけが、別の場所から迷い込んだようだった。
「まあ、ロザリア嬢のお姉様?」
「ずいぶんと質素なのね」
「お屋敷では、あまり外へ出ない方だそうよ」
囁き声が聞こえた。
ロザリアは、困ったような笑顔を作った。
「姉は屋敷仕事が好きなのです。こういう華やかな場には慣れておりませんの」
好きでしているわけではない。
そう言いたかった。
けれど義母の指が、私の腕へ食い込んだ。
「余計なことを言わないで」
小声で命じられた。
その時、王太子アレクシス殿下がこちらへ来た。
白い礼装。
胸元には王家の紋章。
噂どおり、整った顔立ちの方だった。
「ロザリア嬢。今夜もよく似合っている」
「ありがとうございます、殿下」
ロザリアは頬を染めた。
殿下の視線が、私へ移る。
「こちらが姉君か」
「はい。エレナと申します」
私は頭を下げた。
殿下は私の古いドレスと、短い裾から覗く傷んだ靴を見た。
そして、ロザリアへ顔を戻した。
「姉妹でも、ずいぶん雰囲気が違うものだな」
周囲から小さな笑いが起きた。
ロザリアも笑った。
義母も扇の陰で口元を緩めた。
殿下も、笑った。
ほんの少しだった。
誰かを傷つけたと記憶に残すほどではない、小さな笑い。
けれど、笑われた側には十分だった。
「ロザリア嬢。次の曲をお願いできるか」
「喜んで」
二人は広間の中央へ向かった。
私は壁際へ下がった。
靴の中で、血が滲んでいるのが分かった。
それでも座る場所はなかった。
義母から、みっともなく見えるから背筋を伸ばしていなさいと言われていた。
「その靴では、立っているのもつらいでしょう」
隣から声をかけられた。
振り向くと、深い青のドレスをまとった女性が立っていた。
五十歳ほどだろうか。
灰金色の髪を結い上げ、派手な宝石はつけていない。それでも、周囲の誰よりも落ち着いて見えた。
「失礼ですが、どなたでしょうか」
「マリアンヌ・オルレアン。あなたのお母様、ヴィオレーヌの友人でした」
母の名を聞いた瞬間、胸が詰まった。
「母の……」
「ええ。あなたが赤ん坊の頃に、一度だけ会っています」
伯爵夫人は私の顔ではなく、手を見た。
洗剤で荒れた指。
針仕事で傷ついた爪。
それから、裾の下の靴へ目を落とした。
「そのドレスは、ヴィオレーヌのものね」
「ご存じなのですか」
「彼女が父君の葬儀で着ていたものです」
やはり、喪服だった。
伯爵夫人の顔から、わずかに表情が消えた。
「あなたは今夜、この格好で来ることを自分で選んだの?」
私は答えられなかった。
答えられないことが、答えになった。
伯爵夫人は少し黙り、それから穏やかに言った。
「明日、私の屋敷へいらっしゃい」
「義母が許さないと思います」
「許可を求めているのではありません」
伯爵夫人は扇を閉じた。
「あなたのお母様の遺産管理人として、状況を確認します」
私は顔を上げた。
「遺産、ですか」
「聞かされていないのね」
伯爵夫人の声は静かだった。
「ヴィオレーヌは、あなたが十八歳になった時に受け取れる財産を残しています。衣装、宝飾、現金、南部の小さな領地。管理を任されたのは私です」
私は十九歳だった。
一年前に受け取っているはずのものだった。
「父からは何も」
「そうでしょうね」
伯爵夫人は、広間の向こうで王子と踊るロザリアを見た。
母の真珠を首につけた義妹を。
「まずは、あなたを人前へ出せる状態に戻しましょう」
翌日、私は伯爵夫人の屋敷へ移った。
父は最初、家の都合があると言った。
伯爵夫人が母の遺言書と財産目録を見せると、黙った。
義母は、誤解だと言った。
ロザリアは、姉が勝手に出ていくのだから好きにすればいいと笑った。
誰も、私が戻るかどうかを尋ねなかった。
伯爵夫人の屋敷で最初にされたことは、ドレスを選ぶことではなかった。
湯を張った浴槽へ入れられた。
髪を三度洗われた。
荒れた手に薬を塗られ、踵の傷を医師に診てもらった。
温かい食事を出され、食べ終わるまで誰にも急かされなかった。
「眠りなさい」
伯爵夫人にそう言われた。
「でも、何かお手伝いを」
「必要ありません」
「何もしないのは、落ち着きません」
「では、眠ることを今日の仕事にしましょう」
私は十四時間眠った。
目を覚ました時、朝なのか夜なのか分からなかった。
枕元には水と、まだ温かいスープが置かれていた。
誰かの食べ残しではない。
私のために作られた食事だった。
それだけのことに、涙が出た。
数日後、仕立屋が来た。
私の身体を測り、肩幅と腰回りに合う型紙を作った。
髪結い師が傷んだ毛先を整えた。
化粧師は顔を塗り隠すのではなく、目の下の疲れを少しだけ和らげた。
最後に、靴職人が来た。
白髪の老人で、私の足を見た瞬間、眉をひそめた。
「左右で少し大きさが違いますな」
「そうなのですか」
「今まで、ずいぶん無理な靴を履いてこられたのでしょう」
私は足元を見た。
「靴は、痛いものだと思っていました」
職人は何も言わなかった。
ただ、私の足をもう一度丁寧に測った。
一週間後、出来上がった靴を履いた。
立っても、痛くなかった。
歩いても、爪先が当たらない。
「これが、靴なのですか」
思わずそう言うと、伯爵夫人は目を閉じた。
怒っているのだと分かった。
私ではなく、私に痛い靴しか与えなかった人たちへ。
「そうよ」
伯爵夫人は答えた。
「あなたの足に合うものが、あなたの靴です」
それから私は、母の財産について学んだ。
南部の領地。
小さな葡萄園。
王都にある二軒の貸家。
母が遺した現金と宝飾品。
真珠の首飾りも、目録に載っていた。
「取り返しますか」
伯爵夫人に尋ねられた。
私は少し考えた。
「はい」
「ロザリア嬢が、気に入って使っているそうよ」
「私も、母が気に入っていたものを大切にしたいです」
伯爵夫人は頷いた。
「それでいいの」
私は少しずつ、自分のものを選ぶ練習をした。
朝、何を食べるか。
どの本を読むか。
午後に休むか。
どの色のドレスを着るか。
伯爵夫人は一度も、こちらの方が似合うと決めつけなかった。
「あなたはどうしたいの」
必ず、そう尋ねた。
一か月後、王宮で再び夜会が開かれた。
伯爵夫人は、私を連れていくかどうか尋ねた。
「行きます」
私は答えた。
「笑われた場所へ戻るのは怖くない?」
「怖いです」
「それでも?」
「今度は、自分で選んだ服と靴で行きたいのです」
私が選んだのは、深い青緑のドレスだった。
飾りは少ない。
首元には、取り戻した母の真珠をつけた。
靴は、職人が私の足に合わせて作ったもの。
歩いても、痛くなかった。
広間へ入ると、多くの視線が集まった。
前回とは違う意味で。
「どなた?」
「オルレアン伯爵夫人のご親戚かしら」
囁き声が聞こえる。
私は伯爵夫人の隣を歩いた。
背筋を伸ばすために痛みに耐える必要はなかった。
王太子殿下は、ロザリアと話していた。
けれど私を見つけた瞬間、言葉を止めた。
「マリアンヌ伯爵夫人。そちらの方は?」
「エレナ・ヴァレリー嬢です」
殿下の目が見開かれた。
「あの夜の……?」
「はい」
私は頭を下げた。
殿下は、私を上から下まで見た。
ドレス。
髪。
真珠。
靴。
そして、微笑んだ。
「見違えた」
その一言で、胸の奥が冷えた。
見つけてもらったとは思わなかった。
値札をつけ直されたのだと思った。
「エレナ嬢。次の曲をお願いできるだろうか」
隣で、ロザリアの顔色が変わった。
「殿下。次の曲は、私とお約束を」
「後でもよいだろう」
「ですが――」
「ロザリア」
義母が低い声でたしなめた。
「殿下のお考えに逆らうものではありません」
ロザリアが義母を見る。
信じられないという顔だった。
義母は主人公である私を庇ったのではない。
王子に選ばれた方へ、売る娘を切り替えただけだった。
ロザリアの唇が震える。
「どうして、その女なの」
「おやめなさい」
「だって、殿下は私を選んでくださったでしょう!」
「みっともない真似はやめなさい」
義母の声には、娘への情よりも、王家の機嫌を損ねる恐れの方が強く滲んでいた。
ロザリアはようやく、自分も選ばれるために磨かれていただけなのだと気づいたのかもしれない。
けれど、それを考えるのは今ではなかった。
殿下は、私へ手を差し出したままだった。
「エレナ嬢」
「踊りません」
殿下の笑みが止まった。
「何?」
「次の曲は、踊りません」
広間が静かになった。
父がこちらへ駆け寄ってくる。
「エレナ。何を言っている。殿下がお誘いくださっているのだぞ」
父の目は、私ではなく殿下の胸元の王家の紋章を見ていた。
「これほど名誉なことはない。我が家にとっても――」
「お父様」
私は父の言葉を止めた。
「私が使用人同然に扱われていた時、何もおっしゃいませんでしたね」
「今は、その話ではない」
「王子殿下に選ばれた途端、娘として扱うのですか」
「家のためだ。過去のことにこだわるな」
家のため。
その言葉で、やはり何も変わっていないと分かった。
義母も前へ出た。
「エレナ。この子は昔から、磨けば光ると思っておりましたの。少し厳しくしたのも、あなたのためで――」
「私のために、食事を残り物にしたのですか」
義母の口が止まった。
「私のために、母の遺品をロザリアへ渡したのですか」
「それは家の中で有効に使っただけです」
「私のために、準備の時間も服も与えず、夜会へ連れてきたのですか」
義母は答えなかった。
殿下が、困ったように眉を寄せた。
「どうやら、君は家族に不当に扱われていたようだ」
「はい」
「ならば、私が守ろう」
その言葉を、私は以前なら待ち望んだかもしれない。
王子が手を差し伸べ、あの家から連れ出してくれる。
物語なら、それで幸福になれるのだろう。
「君の本当の美しさに、私は今夜ようやく気づいた」
殿下はそう言った。
「君こそ、私の隣にふさわしい」
私は、あの夜を思い出した。
古い喪服。
痛い靴。
傷んだ髪。
ロザリアの隣で笑った人たち。
その中に、殿下もいた。
「あの夜の私も、本当の私です」
殿下の顔から笑みが消えた。
「疲れていて、粗末な服を着て、足に合わない靴で立っていた私も」
「私は事情を知らなかった」
「事情を知らなければ、笑ってよいのですか」
「それは……」
「殿下が今夜お選びになったのは、私ではありません」
私は自分のドレスへ触れた。
「伯爵夫人が用意してくださった環境と、仕立屋が作った服と、職人が作った靴。それらで整えられた、殿下の隣に置いて見栄えのする女です」
「違う。私は君自身に惹かれた」
「では、あの夜の私の何をご存じでしたか」
殿下は答えなかった。
「今夜の私についても、何をご存じですか」
答えはなかった。
殿下は、私を選んだのではない。
その場でもっとも価値が高く見える女へ、選び直しただけだった。
前回はロザリア。
今回は私。
それだけだ。
「殿下」
私は頭を下げた。
「婚姻のお申し出も、舞踏のお誘いも、お断りします」
父が息を呑んだ。
「エレナ!」
「それから、お父様」
私は父を見る。
「家へ戻るつもりもありません」
「お前はヴァレリー家の娘だ!」
「私が下働きをしていた時には、そうおっしゃいませんでした」
父は言葉を失った。
義母も、もう何も言わなかった。
ロザリアだけが、青ざめた顔で母を見ていた。
伯爵夫人が私の隣へ立つ。
「帰りましょうか、エレナ」
「はい」
私たちは広間を出た。
誰も追ってこなかった。
王子も。
父も。
義母も。
外の空気は冷たかった。
けれど、靴は痛くなかった。
馬車へ乗る前、伯爵夫人が私へ尋ねた。
「後悔している?」
「少し、怖いです」
「そう」
「でも、後悔はしていません」
伯爵夫人は頷いた。
「では、次は何を選ぶ?」
私は少し考えた。
南部の領地を見てみたい。
母の葡萄園が、今どうなっているのか知りたい。
帳簿も学びたい。
自分の家を持ちたい。
痛くない靴を、何足か作りたい。
選びたいものは、思っていたよりたくさんあった。
「まずは、明日の朝食を自分で選びます」
「大切なことね」
「卵と、焼きたてのパンがいいです」
「果物もつけましょう」
「それもお願いします」
馬車が動き出す。
王宮の灯りが遠ざかっていく。
私は王子に見つけてもらえなかった。
正しく言えば、一度見られて、笑われ、見栄えが変わった後に選び直された。
けれど、もうそれを救いだとは思わなかった。
私を救ったのは、誰かに選ばれたことではない。
痛いものを痛いと言い、嫌なものを嫌だと言い、自分に合う靴を自分で選べるようになったことだ。
だから、もう誰かの物語に用意された幸福へ入る必要はない。
それがどれほど華やかで、誰もが羨む席であっても。
私が選ばないものなら――
「お断りします」
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