転
少女を連れて自室に入り、扉の鍵を閉める。
「あのさ。そろそろ手、放してくれない?」
「………」
少女の返事はない。顔を俯かせてしまっているので表情はうかがえないが、白い髪の奥に垣間見える耳は真っ赤に染まっている。
こちらは手に力を入れていないが、少女は俺の手をギュッと握っていて、放してくれそうにない。
仕方がないので少女に手を握られたまま、部屋の隅に置いてあるイスを持ち出してきてベッドの横に置く。
「座ったら?」
少女は躊躇った後、小さく頷いて用意したイスにちょこんと腰を下ろした。ただし、握ったままの手を放してくれることはない。
俺も、ちょうど少女と向き合える位置でベッドに座る。
「手、放し――」
「いや」
少女は俯いたまま、俺の言葉を遮る。
思わずため息を吐いてしまう。
――ビクッと、繋いだ手から震えが伝わってきた。ため息で不安にさせてしまったのだろうか。……そもそも、何故こんなことになっているんだ?
「どうして俺の手を放してくれないのかな?」
これ以上少女を不安にさせないように、優しい声になるように努めて、訊いてみる。
少女は無言で何かを考えているようだったが、やがて小さく口を開く。
「質問に答えてくれるなら放しても、いい」
「分かった。答えるよ」
少女の言葉は質問に対する回答になっていなかったが、それで少女の気が済むのなら、いいだろう。
「私に可愛いって言ったの、どうして?」
少女は顔を上げて、紅色の瞳で俺を見つめる。
「どうしてって言われてもなあ。単純に可愛いと思ったから言っただけなんだけど」
「……答えになってない。真剣に答えて」
もしかして、可愛いと思った理由を説明してほしいのだろうか。
正直に言えば少女は怒るかもしれない。それでも少女の瞳は真剣で、だから俺は。
「孤児院にいる子供たちと同じように見えたんだ」
「え?」
少女の眼が見開かれる。
「お前が、さ。普通の子供に見えて、死神に見えなくて。孤児院の子供がまた一人増えたみたいな、そんな気持ちだった」
「……そう」
少女は約束通りに手を放してくれるが、視線は名残惜しそうに俺の手に向けられている。少しの罪悪感がちくちくと胸を刺す。
「あなた、変だよ」
「なにが?」
少女の視線は俺の手から上がっていき、眼へ。
「だって、あと一日したら死ぬのに、自分のことじゃなくて孤児院のこと考えてる」
「そう、だな……」
「そんなに父親に誓ったことが大切?」
「………」
驚きで声すら出ない。
なぜこの少女がそのことを知っている? 偶然か、それとも、やはり……。
「この場所は、本当にあなた一人で守らなければいけない場所なの? あなたの『最後の一日』を犠牲にしてまで守るべき価値のある場所なの?」
決定打だった。
誰かがそのことを知っているはずがない。俺が死んだ父親に誓ったことなんて、ずっと近くにいた子供たちですら知らないのだ。会って数時間した経っていない少女が知っているはずがないのだ。ありえない。
誰一人知っていてはならないのだ。知っているとすれば、それは――。
もやもやとした疑問は、あっけなく吹き飛ばされて確信だけが残る。
『ああ、この少女は死神なんだ』と。そして『俺はもうすぐ死ぬんだ』と。
しかし、理解するのと受け入れるのは違う。あっさりと死を受け入れるなんてこと、俺にはできない。
「……なあ、本当に俺は死ぬのか?」
返答は分かっていたが、そう訊かずにはいられなかった。
「あなたは死ぬ。信じるも信じないも自由だけど、誰にも変えられない事実なの」
今までは半信半疑だった。だからその言葉が意味するものを想像することを避けていたのだろう。けれど今は――怖い。子供たちを残して自分が死んでしまうことが、怖い。
「……ここは、俺の全てなんだ。命よりも大切な場所なんだ」
無意識のうちに、俺は呟いていた。
「それでも、あなたはもう死ぬ」
残酷な宣告。
「俺なしで、子供たちはちゃんとやっていけるのか? 仕事はほとんど俺がやってるんだ。俺はまだ死ねない。まだ死ねないんだよ……」
少女は沈痛そうな面持ちで俺から眼を逸らす。
「それでも、あなたは死ぬ」
「なあ、どうにかして――」
「無理」
どうにかして死なずに済む方法はないか。そう訊こうとした。
「――あなたは絶対に死ぬ」
けれど先回りされて、否定された。
「みんな聞くの。『どうやったら生きられる。死なない方法はないか』って。私は監視するだけで、あなたたちに手を下すわけじゃない。だから私に言っても無駄なの」
答えはなんとなく予想がついていた。だから思ったよりショックは少ない。……けれど、俺が死ぬことは変わらない。
少女は自嘲的な笑みを浮かべて天井を仰いだ。
「結局ね、私たちは見てるだけなのよ。死神なんて大層な名前で呼ばれてるけど、死を司っているわけじゃないし、まして神のような力もない。死神は誰も救えないのよ」
少女は悲しそうに微笑んだ。涙は流れていなかったが、俺には泣いているように見えた。
「あなたを救うことは誰にもできない。だからあなたは考えなきゃいけない。残された時間で何をすべきなのか、何をしたいのか」
「後悔しないように過ごせって?」
「………違う」
聞き逃してしまいそうなくらい小さな呟き。
「そんなこと、後悔しないように過ごすことなんてできない。……私は何百人、何千人の『最後の一日』を見てきた。だけど誰一人、後悔しないで死んだ人なんていなかった。あなたも絶対に後悔することになる」
少女は俯いてしまう。
俺も俯いて、自分の両手を眺める。
俺には何ができる? あと一日。限られた時間で。この身体で。俺は………子供たちに何をしてやれる?
顔を上げると青年は俯いて、じっと自分の両手を眺めていた。
考えているのだろう、それは必要なことだ。けれどその間も刻一刻と、死は青年に迫っている。私は悩ませるために青年に死を告げたんじゃない。行動しなければ、後悔だけが募った終わりになってしまう。そんなのは嫌だ。
彼には、彼に相応しい死の形があるはず。だから、彼らしい『最後の一日』を送ってほしいと願っている。
『私は、道標になる』
ずっと昔にそう決めた。
人間は、人生という道を歩いているのだ。道は数多に分岐して無限に続いている。それが人間は無限の可能性を持っていると言われる由縁だ。
けれど人間は寿命に縛られている。進める歩数は決められているから、行ける範囲だって制限されている。
青年にもう歩数は残されていない。可能性なんてほとんど残されていないのだ。
道標は行くべき道を指し示すことはできない。ただ、道の先になにが待っているかを告げる。私はすぐ先に終わりがあることを告げるのだ。
私たち死神は監視することを求められているけれど、干渉することを禁止されているわけではない。指定された時刻に監視対象が死ぬ運命を変えることさえなければ、どんな干渉をすることも黙認される。結果がすべてなのだ。過程に意味はない。過程を評価されることはない。
だから青年が死に至る過程を変えてしまったとしても、それは黙認されるし、誰にも文句を言われる筋合いはない。
私は干渉する。干渉しなかったために後悔だけが残るなんて経験は二度としたくない。同じ後悔をするなら、干渉して後悔することを選ぶ。
残酷な宣告になってしまうけれど、私は残された可能性を提示することができるのだ。
恨まれたって構わない。傷つけられたって構わない。死神はもともとそういう仕事だ。私が犠牲になることで、監視対象が納得できる最期を迎えられるなら、それはすばらしいことだと信じている。
だから、今回だって――。
「後悔せずに死んでいった人はいないけど、自分の『最後の一日』に納得して死んでいった人なら、いる」
私は唐突に言葉を発した。
「え?」
青年が顔を上げて、不思議そうな目で私を見る。
「人間は後悔する生き物だけど、納得する生き物でもあるの。あなたが死ぬとき、あなた自身が納得できる『最後の一日』にしてほしい。私に誇ることが出来るような『最後の一日』にしてほしい。もう『最後の一日』は始まってるの。だから考えてばかりじゃ、ダメ」
青年は私の言葉を受け取ると、少しの間、目を閉じて思案する。
……私の言葉は、青年を彼の望む最期へと導けるのだろうか。私は青年の道標になれるのだろうか。
「よし」
青年はそう言うと、立ち上がる。
じっと様子をうかがっていた私に笑顔を向けると、部屋の端に置かれている小さな机に向かい、セットになっているイスに腰掛けると、手紙を書き始めた。おそらく孤児院の子供たちに向けた手紙だろう。
私はその後姿を黙って見つめていた。
やがて手紙を書き終わると、青年は立ち上がり、私のところに歩いてくる。
「なに?」
そっけなく訊く。
「………」
しかし青年は返答せず、おもむろに手を伸ばして私の頭の上に置く。
――クシャっと撫でられた。
「な、なな、なにすんのよ!」
睨み上げる。
自分の顔が熱くなるのが分かる。多分、真っ赤な顔をしているだろう。
そんな私を見て、青年は笑顔になって言った。
「子供たちと遊んでくる」
再びクシャクシャと私の髪を撫でると、青年は部屋を出て行った。
――また、初めてだ。
初めて頭を撫でられた。
それは不思議な感覚だった。撫でられるということが恥ずかしくて、顔が熱くなって、嫌なはずなのに、不快な気持ちにはならなかった。髪をクシャクシャにされるのは嫌だけど、もっと撫でてほしかった。ずっと撫でていてほしかった。その手は温かくて、それは死神には存在しない温もりで、感じているだけで安心できた。
青年は孤児院の子供たちと過ごすことを選択したのに、私は青年にそばにいてほしかった。それが青年に相応しい最期を阻害するものであるかもしれないのに、私は望んでしまった。
どうしてだろう? どうして私は青年に依存しそうになっているのだろう?
少し考えて、結論は簡単に出る。
今まで接してきた人間の中で、青年は唯一、私が死神であることを認めた上で好意を向けてくれた人間だからだ。私をただの少女だと考え、呆れた視線を向けた人間はたくさんいた。私が死神だと分かった途端、怯えた視線を向けた人間もたくさんいた。だけど、私が死神だと理解して、それでも普通の少女にするように接してくれたことが嬉しかった。
イスから立ち上がり、窓まで歩く。外を見ると、庭には子供たちとサッカーをする青年の姿があった。
これが私の望んでいたことだ。青年の居場所は私の隣じゃない。子供たちに囲まれているのがあるべき姿。これで良かったんだ。
楽しそうに笑う青年と子供たちを見て――胸がチクリと痛んだ。
窓の外の光景から目を背ける。すると、青年の書いていた手紙が視界に入った。その手紙は封筒に入れられるわけでもなく文章がむき出しになったまま、机の上に置かれている。
褒められたことではないのは分かっているが、つい手紙の内容を見てしまう。
『旅に出ます』
一行目にそう書いてあった。
それは、子供達に囲まれて死ぬことを拒絶するという意味だ。青年は人生の最期を子供たちに見られないこと、そして死んだことを知られないことを望んでいる。
『いつ帰ることになるかは分からないけど、俺がいない間はみんなで支えあって暮らしてくれ』
『くれぐれも俺が帰ってきたときに孤児院がなくなってたなんてことがないように』
そこから後は孤児院の子供一人ひとりに対して別れの言葉が述べられていた。
青年の選択が正しいものかどうかなんて私には分からない。
子供たちにとって、目の前で青年が死ぬことと、いつ帰ってくるか分からない青年に淡い期待を抱き続けるのと、どちらが幸せなのだろうか。
けれどどちらにしても私がその選択に口を挟むことは出来ない。私は選択の結果を見届けるだけだ。
青年は誰も悲しませないために、誰にも知られずに死んでいくことを望んだ。孤独な最期を遂げるだろう。それはきっと、とても悲しいことだ。
私たちが監視した人間は例外なく死ぬ。
私が監視してきた人間も皆死んだ。皆、後悔しながら死んでいった。苦しみながら死んでいった者もいる。悲しみながら死んでいった者もいる。その中で一番見ていて辛いのが孤独に死を迎える者だ。
彼・彼女らは迫りくる死に怯え、恐怖するが、周りに縋る者はいない。震える自分を見つめる死神の私だけがそばにいる。そんな状況で涙しながら死ぬ。
そして、確かに自分は生きてきてその場所で終わりを迎えた、そんな事実さえ誰の目にも映らず、誰かが悲しむこともなく、ひっそりとその存在自体が消えていく。生きていたという証拠すら曖昧になってしまう。
青年だって同じだ。きっと悲しい最期になる。
それでも青年が孤独を望むというのなら、私は少しでもその孤独が紛れるように、そばにいよう。