起
この小説は、以前、麻道が書いた短編小説「小さな死神の初恋」を書き直したものです。
おおまかな流れは変えないつもりですが、多少の設定変更もしてしまったので別の作品になりつつあります。
起承転結の4部構成になっています。
では、どうぞ。
死神。この言葉からあなたは何を連想しますか。
身の丈ほどもある大きな鎌でしょうか。ぼろぼろに朽ちかけた黒い衣装でしょうか。それとも「死」そのものでしょうか。
思い描く死神の姿は人それぞれ。この世界には数え切れないほどの死神がいます。
なら、その中には実在する死神がいても何一つおかしなことはありません。
死神は実在します。
それは、あなたの心の中に。
それは、この世界のどこかに。
――――きっと。
朝。気持ちのいい朝だ。快晴。
嗅ぎ慣れたミルクの香りが鼻腔を刺激する。基本的に朝飯は当番制ではなくて、俺一人が担当している。ウチの子供たちは皆寝ぼすけなのだ。
何度も作るうちにすっかり慣れてしまった工程難なく終え、出来立てシチューを人数分だけ皿に盛り付けている時。
その時だった。
――背後で誰かの足音がした。大方、腹をすかせたやんちゃ坊主がフライングして朝食を食べにでも来たのだろうと思って、振り返る。
「えっ?」
だが、そこにいたのは孤児院に住んでいる子供ではなく、見知らぬ少女だった。
整った顔立ちと腰まで伸びた長い白髪。漆黒のワンピースを着ていて、それとは対称的に病的なほど白い肌、そしてスラリと伸びた細い手足。白黒映画の中の登場人物のように色のない少女は、唯一その瞳だけが、血のような紅色をしている。
少女はその不気味な瞳で俺を見上げると、ゆっくりと口を開く。
「あなたには、死んでもらうことになりました」
「なに?」
刹那、これからこの少女が自分を襲ってくるのかと思って身構えるが、少女は武器の類を取り出すこともなく、静かにこちらを見つめて佇んでいるだけだ。
「………」
「………」
沈黙が場を支配する。しかし、このままでは無駄に時間を浪費するだけなので、まず根本的な質問をしてみる。
「お前、どうしてここにいるの? 孤児?」
「……違います。私はあなたを監視するためにここにいます」
「はあ? なんだそれ。イタズラ?」
少女は俺の言葉を聞き、ため息を漏らす。
「あなたがそう思うのなら、それは構いません。しかし、私はあなたに残された時間が少ないことを知っていて、それを伝えたいと思っているんです。聞くだけ聞いていてください」
「………」
こんな年端のいかない少女に「死ぬ」とか「監視」とか言われたところでふざけているとしか思えない。
「説明してもいいですか?」
少女は無表情で俺を見つめて言うが、声色は不満そうだ。
「………あ、ああ。いいんじゃないか?」
「よく聞いてください。あなたは今から一日後、正確には二十三時間と五十八分後に死にます。死因は確定していませんが、おそらく心臓発作または事故死でしょう。そして私は、これからあなたが死ぬまでの間、監視をすることになった死神です」
正直なところ、意味不明だ。この少女が何を言いたいのか分からない。
「あのさ、質問いいか」
「なんですか」
「お前って、ちょっと頭がイタイ子?」
少女はため息を吐いて、冷めた瞳で俺を見つめる。
「私の話を信じる信じないはあなたの自由です。しかしあなたが一日後に死ぬ、これだけは誰にも覆せない事実です」
「ああ、そう……」
紅色の瞳を見つめ返す。それでも少女の視線は揺らぐことなくこちらに向けられている。嘘をついている子供ならば、動揺して視線を逸らしたりするのだが、少女にはそういった反応がまったく見られない。
少女の話を信じたと言えば、嘘になる。だが、少女の声色も視線もこれ以上ないくらい真剣で、とても嘘や冗談で言っているようには思えなかった。
信じたわけではない。完全に信じたわけでは、ない。
荒唐無稽な話だが、それを信じてしまった自分も、確かにいるのだ。理由なんて分からない。冗談だと跳ね除けて少女を落胆させたくなかった、なんて身勝手な理由なのかもしれないし、少女の外見が普通の人間のそれとはかけ離れているからなのかもしれない。
『人を信じることを覚えなさい』
不意に今は亡き父親の言葉が蘇る。
俺はこの少女の言うことを本当に信じるのか?
結論は出ないままだが、自分の寿命があと一日しかないというのは、俺の中では半ば確定事項のようなものになっていた。何故かは分からない。無意識のうちにあと一日で死ぬことを受け入れている自分がいる……。
「大丈夫?」
少女の声に思考の海に沈んでいた意識を引き戻される。
「大丈夫だよ」
長年の癖で咄嗟に笑顔を作って応える。孤児院の子供を預かっている自分が、子供を不安にさせるようなことをしてはいけないのだ。
「そう……ならいいけど」
少女は興味なさそうに呟いた。
「ところでさ。お前はこれから俺が死ぬまで、ずっと俺のそばにいるんだよな」
「うん」
事務的な口調が一変して子供っぽいものに変わっていたのでクスッと笑ってしまった。
「なによ?」
不機嫌そうな声。
「いや。なんでもないよ」
やはり少しだけ笑いながら返す。
「一緒にいるのが嫌なら遠くから見てるけど」
拗ねたように返された。
「いや、いい。俺が死ぬことに関してまだ訊きたいことがあるからな。後で教えてくれ」
「今訊けばいいじゃない」
「そろそろ朝飯の時間なんだ。あんまり遅いと子供達に起こられるからな。――お前も食うか?」
「いらない。死神は食べる必要がない」
「そうか。でも、上手そうな匂いで腹減ったなら言えよ。作ってやるから」
俺の言葉に、少女は不機嫌そうに口をとがらせる。
「別に、お腹減らないからいい」
「台所には包丁とか危ないものがいっぱいあるから、盗み食いしようして怪我するなよ」
言葉を聞き、少女の頬がほんのりと赤く染まる。
「盗み食いなんかしないもんっ!」
「ならいいけど」
そう言って、皿を乗せたお盆を持って台所を立ち去る。
ここまでからかっておけば、意地でも怪我をしないように努めてくれるだろう。意地悪が過ぎた気もするが、俺が嫌われて、女の子の綺麗な肌に傷がついてしまう可能性を減らせるなら、それでいい。
青年はお盆に料理が入った皿を乗せると、台所から出て行った。
「バカ……」
小さく呟いた後、すーはーと深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
「よし」
顔の熱も引いたし、これで元通り。
それにしても、不思議な青年だった。今まで幾度となく死神として死の宣告をしてきたが、ここまであっさりと受け入れられたのは初めてだ。馬鹿なだけなのか、勘がいいのか、それとも裏では私のことを頭がおかしい子と思って嘲笑っているのか。
説明するだけで彼の貴重な『最後の一日』の大半を浪費してしまうという事態は避けたかった。青年の本心は分からないにしろ、その点だけで言えば、余計な手間が掛からなかった現在の状況は好都合だ。
青年があっさりと自分の死を受け入れた理由は、もしかすると彼の父親が原因なのかもしれない。
口の中だけで小さく「ありがとう」と言葉を発し、今は亡き彼の父親に黙祷を捧げる。
……こんなことをしても意味などないのだが、それでも感謝をしておきたい。青年に、自身が納得できる『最後の一日』を送るチャンスを与えてくれたのだから。
青年はたくさんのものを父親から貰っている。こんな表現をするのはおかしいのかもしれないが、青年の二十年近くの人生も父親から貰ったもののひとつだ。
たとえ血縁関係がなくとも、青年の命は、当時は赤の他人であった彼の父親から与えられたものだ。義理だとしても、彼らは間違いなく本物の親子だった。
――青年は生まれてすぐに捨てられた。捨て子だったのだ。
彼の血縁上の両親は金銭的な問題で彼を育てていくことができなかった。
本当なら青年の人生はそこで幕を下ろしているはずだった。だが、そうはならなかった。
牧師をしていた男が道端に捨てられていた彼を見つけて、引き取った。牧師の男が彼を見つけ、育てていこうと決意したのは半ば必然のことだったけれど、藪の下に隠すように捨てられていた赤ん坊を見つけられたのは正真正銘の偶然だった。運命の悪戯に命を救われたのだ。
そうして彼は生き延び、牧師の男のもとで暮らすことになった。
牧師の男は、彼が言葉を解するようになると、まずふたつのことを教えた。
『人を信じることを覚えなさい。人と助け合うことを覚えなさい』
彼は毎日のようにその言葉を聞いて育った。
そして十年の月日が経つ。
その頃、彼らの住む地域は深刻な凶作が続いており、幼くして捨てられて命を落とす子供が後を絶たなかった。
心を痛めた牧師の男は孤児院の設立を決意した。しかし、牧師の男もひとりの力で孤児院を設立できるほど裕福だったわけではない。親子二人、地主や貴族などの財力がある様々な人に頭を下げて協力を頼み、やっとの思いで設立することができたのだ。
それからの日々は、彼ら親子にとって、忙しかったが充実した日々でもあった。牧師の男が子育てを経験しているとはいえ、男二人で多くの子供たちの面倒を見るのが楽であるはずがない。
青年は自分と同じ境遇の子供たちを育てながら、自身もまた成長していった。
そして再び数年の月日が経った。
彼ら親子の習慣に「朝食は二人で用意する」というものがあった。
だがその日の朝、牧師の男は台所に姿を現さなかった。不思議に思った青年が牧師の男の部屋へ行ってみると、男は静かに息を引き取っていた。青年は急いで医者を呼んだが、すでに死んでしまった人間が生き返るはずもなく、分かったことは死因が不明ということだけだった。
死んでいる男の枕元には青年に宛てた「孤児院を頼む」という旨の遺書があった。
自身の死期を悟っていたことを考えると、牧師の男はおそらく『選ばれてしまった』のだろう。青年が知る由もないことだが、自身が父親と同じ理由の最期を辿ることになってしまったのは、どういう皮肉なのだろうか。
青年は父親の死を悲しんでいたが、子供たちの前で涙を流すことはなかった。悲しんでいるのは彼だけではないのだ。育ての親である牧師の男の死を悲しんで泣いている孤児院の子供たちをあやし、泣き止ませるのに奮闘した。彼は子供たちが寝静まった後、自室で声を殺して、泣いた。そして亡き父親に、孤児院は自分が守っていくと誓った。
それから、彼はひとりで孤児院を支えてきた。もちろん、それなりに働くことのできる年になった子供たちが手伝うこともあるが、ほとんどの仕事は彼が受け持っている。
彼は誓いを破らないために、そしてなによりも子供たちの笑顔のために、懸命に孤児院を切り盛りしている。
それが今の彼をつくるモノのすべて――。
本来、死神が監視対象に関する情報を知る必要はない。
死神は監視すること――監視対象が期限より早く死んだり、自棄になって運命を変えてしまわないようにすることのみを求められている。
だけど、と思う。
監視対象たちにもそれなりの人生があったはずだ。ならば彼・彼女らには相応しい死の形があるのではないのか。私たち死神はただ監視するだけでなく、それぞれに相応しい死を与えるべきなのではないのか。
もちろん、私たち自身が直接死を与えたり、最期の時間をどう過ごすのかについて助言を与えることはお門違いもいいところだ。
それでも私は監視対象の人生を知ろうとしてきた。たとえ努力が報われることがなかったとしても、だ。
人間の感情で言う自己満足を私は感じているのかもしれない。
『私は努力した、結果は伴わなかったけれど、私は頑張った。その頑張りは認められるものでしょう?』
そう言いたいのかもしれない。誰かに認められたいのかもしれない。
けれどそんな感情は持たないほうがいい。人間の世界は知らないが、死神の世界では結果だけに意味がある。ならば過程を重視するような私の考え方は虚しいだけだ。
虚しいだけ。虚しいだけのはずなのに……。
私はやっぱり監視対象の人生を知ろうとしてしまう。
そして青年が死ぬことに理不尽を感じてしまう。そんな感情、死神には用意されていないはずなのに。
……私は狂っているのだろうか。
頭を振って気持ちを切り替える。今は監視の仕事中だ。青年のことだけを考えていればいい。私は青年が死ぬまでの間、青年を監視していればいい。彼が一日後に死ぬという運命が変わってしまわぬように。
耳を澄ますと、楽しそうな喧騒が聞こえてくる。
青年はどんな死を望んでいるのだろう。