第2話「縮まる距離と静かな決意」
雨の夜の出会いから数日が経過した。西の空に沈みかけた太陽が、王都の下町を燃えるような深い橙色に染め上げている。石畳の通りには夕暮れを知らせる風が吹き抜け、家々の煙突からは夕餉の準備をする煙が細く立ち昇っていた。
ルカの食堂は、近所の職人や商人たちで適度に賑わっていた。彼らは一日労働の疲れを酒とルカの手料理で癒やし、気兼ねのない笑い声を上げている。ルカは客の注文に明るい声で応えながら、火の前に立ち、手際よくフライパンを振っていた。肉の焼ける匂いと香辛料の刺激的な香りが交じり合い、食欲をそそる空気が店内に満ちている。
日が完全に落ち、常連客たちが次々と店を後にして店内が静けさを取り戻し始めた頃、静かに扉が開いた。
現れたのはレオンハルトだった。初めて来店した夜とは違い、雨には濡れておらず、分厚い甲冑の代わりに動きやすい革の軽装を身にまとっていた。しかし、その顔に刻まれた深い疲労の色は、以前とそれほど変わっていないように見えた。
「こんばんは、レオンハルト様。今日も一日、お疲れ様でした」
ルカが厨房から声をかけると、レオンハルトは小さく頭を下げて、定位置になりつつある暖炉のそばの席へと腰を下ろした。
「夜遅くにすまない、ルカ。……今日も少し、食事を頼めるだろうか」
「もちろんです。今日は少しお肉を召し上がりますか? 良質な鳥の肉が手に入ったので、香草で柔らかく焼き上げますよ」
ルカの提案に、レオンハルトは少しだけためらうような間を置いてから頷いた。
「ああ、お願いしよう」
ルカはすぐに準備に取りかかった。厚みのある鳥肉の表面に軽く塩を振り、熱した鉄板の上に置く。油が弾ける心地よい音が立ち上がり、肉の焼ける香ばしい匂いが周囲に広がる。ルカは肉をひっくり返しながら、カウンター越しにレオンハルトの様子をこっそりと観察した。
彼は背筋を伸ばして椅子に座っているが、時折、無意識のうちに眉間にしわを寄せ、こめかみを指先で押さえている。張り詰めた緊張の糸が、仕事から解放された今もなお彼の心を縛り付けているかのようだった。
やがて、香草焼きが完成し、付け合わせの野菜とともにレオンハルトの前に並べられた。彼は「いただきます」と短く言葉を発し、ナイフとフォークを手に取った。丁寧に肉を切り分け、ゆっくりと咀嚼していく。
しかし、その動きには活力が感じられなかった。ルカの料理の味を否定しているわけではないのは、彼の穏やかな眼差しから伝わってくる。ただ純粋に、彼自身の身体が固形物を受け入れることに疲れ果てているのだ。結局、レオンハルトは皿の上の肉を半分ほど残したところで、申し訳なさそうにフォークを置いた。
「すまない、ルカ。味は素晴らしいのだが、どうしても喉を通らなくて……。残してしまう無礼を許してほしい」
レオンハルトの伏せられた瞳には、深い自責の念が浮かんでいた。
「気にしないでください。お体が一番大切です。無理をして食べてお腹を壊しては元も子もありませんから」
ルカは温かく微笑みながら皿を下げた。だが、厨房に戻り、残された冷めた肉を見つめながら、ルカの胸の奥には言葉にならない悔しさと無力感が広がっていた。
『彼は、この国のために自分の身を削っている。私には剣を振るうことはできないけれど、料理で彼を支えたい。……もっと食べやすく、それでいて底から活力が湧き上がってくるような料理を作れないだろうか』
ルカは幼い頃の記憶を辿った。亡き父親が、長旅から帰ってきた知り合いの商人に振る舞っていた料理。油で揚げた食材を濃厚な味付けで煮込み、疲れた身体にガツンと響くような強い味。しかし、油を大量に使う料理は胃に重く、今のレオンハルトには到底食べきれないだろう。
『油の重さを消しながら、深い満足感を得られるもの。そして、ご飯のように腹持ちが良く、エネルギーに変わるもの……』
ルカは作業台の前に立ち尽くし、頭の中で様々な食材の組み合わせを思い描いた。煮込むだけでは面白みがない。焼くだけでは単調だ。肉の旨味を閉じ込めつつ、外側には別の食感を持たせる。そして、全体を包み込むような甘辛い味付けと、それを中和するまろやかな食材。
ルカの思考は深夜まで止まらなかった。ランプの芯が短くなり、炎が小さく揺れる中で、彼の心の中には一つの輪郭が浮かび上がりつつあった。まだ見ぬ新しい料理。それは、傷ついた戦士の魂を癒やし、再び立ち上がるための力を与える一皿になるはずだ。
「明日は早起きして、市場へ行こう」
ルカは小さくつぶやき、固い決意を胸にエプロンの紐を解いた。




