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過労で倒れかけの騎士団長を「カツ丼」で救ったら、なぜか溺愛され始めました。  作者: 水凪しおん


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第10話「商会設立の旅路と土の匂い」

 食堂の扉に休業を知らせる木の札を下げた翌朝、王都の空は薄い雲に覆われ、柔らかな灰色の光が石畳の通りを淡く照らし出していた。ルカは旅の支度を整え、背中に簡素な荷袋を背負って外に出た。冷たい朝の空気を肺の奥深くまで吸い込むと、胸の内にくすぶっていた不安が少しだけ輪郭を失い、代わりに新たな道を切り開くのだという静かな覚悟が全身に満ちていくのを感じた。


 通りの先から、複数の馬の蹄が一定のリズムを刻んで近づいてくる気配がした。ルカが視線を向けると、飾り気はないが頑丈な造りをした黒塗りの馬車が、音を立てて店の前に止まった。御者台から軽やかに飛び降りてきたのは、動きやすい外套を羽織ったレオンハルトだった。彼の深い色の瞳は、これからの過酷な旅路を共にする決意に満ちており、その堂々とした佇まいはルカの心に大いなる安堵をもたらした。


「待たせたな、ルカ。視察と交渉のための手配はすべて整えてある。まずは南方の農村へ向かい、白穀物を育てている者たちと直接話をしてこよう」


 レオンハルトの低く落ち着いた声が、朝の静寂に心地よく響く。ルカは無言のまま深く頷き、差し出されたレオンハルトの大きな手を取って馬車の客車へと乗り込んだ。


 馬車が動き出すと、車輪が石畳を転がる細かな振動が足元から伝わってきた。王都の巨大な城門を抜け、やがて舗装された道から柔らかな土の道へと変わると、車内の揺れは大きく、しかしどこか規則的なものへと変化した。開け放たれた小窓から吹き込んでくる風には、街の埃っぽい匂いではなく、湿った土と青々とした草の匂いが濃密に混ざり合っていた。


 数日間の長い移動の末、馬車は南方の広大な農村地帯へとたどり着いた。


 ルカが馬車を降りて見渡した景色は、見渡す限りに広がる白穀物の畑だった。大人の腰の高さまで育った緑色の茎が、風に吹かれて波のように一斉に揺れている。しかし、その豊かな自然の風景とは裏腹に、畑で農作業をしている人々の顔には、深い疲労と諦めの色が濃く張り付いていた。彼らの衣服は擦り切れ、肌は太陽の熱と土の汚れで黒く変色している。


 ルカとレオンハルトは、村をまとめている初老の農村長の家を訪ねた。土壁と茅葺きの質素な家屋の中は、日中でも薄暗く、かび臭い湿気が立ち込めていた。村長は突然の訪問者に戸惑いの表情を浮かべながらも、二人を古びた木の椅子へと案内した。


「王都から来られた方が、我々のような貧しい農民に何の用だというのでしょうか。今年の白穀物は育ちこそ良いですが、市場の商人たちに信じられないほどの安値で買い叩かれ、種をまく費用すら回収できない有様でして……」


 村長の顔には、長年の苦労が刻み込んだ深い皺が何本も走っていた。彼が膝の上で組んでいる手は、木の皮のように乾燥してひび割れ、指の関節は過酷な労働によっていびつに曲がっている。ルカはその手を見た瞬間、胸の奥を鋭い刃でえぐられるような痛みを覚えた。


 これほどまでに身を削り、泥にまみれて育て上げた命の結晶が、権力を持った一部の商人たちの利益のために搾取されている。ルカが市場で買っていた白穀物の値段の裏には、彼らの流した血の滲むような汗と、報われない悲念が隠されていたのだ。


「私はルカと申します。王都で小さな食堂を営んできましたが、これからは商会を立ち上げ、食材を直接買い付ける流通網を作ろうとしています」


 ルカは姿勢を正し、村長の曇った瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「村長さん。皆さんが育てた白穀物は、私の料理にとって絶対に欠かせない大切なものです。商人たちが提示するような不当な安値ではなく、皆さんの労働に見合った適正な価格で、私が責任を持って買い取らせていただきたいのです。そして、王都の多くの人々に、皆さんの作った素晴らしい作物を届けたい。どうか、私と直接契約を結んでいただけないでしょうか」


 ルカの口から発せられた言葉は、嘘偽りのない純粋な熱意に満ちていた。村長は驚きに目を見開き、信じられないものを見るかのようにルカとレオンハルトを交互に見た。長年、搾取されることしか知らなかった彼にとって、適正な価格での取引などという話は、夢物語のように響いたのだ。


「そんな……本当によろしいのですか。もしそれが事実なら、村の皆はどれほど救われることか……」


 村長の声はかすかに震え、その目には薄っすらと涙が浮かんでいた。


 ルカは持参した革袋の中から、あらかじめ用意しておいた前渡金を取り出し、木製の机の上に静かに置いた。それは、王都でのカツ丼の売り上げを少しずつ貯めてきた、ルカの全財産に近いものだった。


「これは、私からの信頼の証です。このお金で、まずは農具を新しくし、皆さんの生活を少しでも整えてください。収穫が終わった時には、約束通りの対価をお支払いします」


 その言葉の重みに、村長はついに顔を覆って声を上げて泣き崩れた。彼の嗚咽は、長年の苦難から解放された魂の叫びのように、薄暗い部屋の中に響き渡った。レオンハルトは無言のままルカの肩にそっと手を置き、その行動の尊さを称えるように力強く握りしめた。


***


 南方の農村での契約を無事に終えた二人は、休む間もなく次の目的地である北の大森林へと向かった。そこは、大森猪を狩る猟師たちが生活する過酷な山岳地帯だった。


 馬車が入れない険しい山道を、二人は自らの足で登っていった。周囲の木々は天を突くほどに高くそびえ、枝葉が太陽の光を遮っているため、真昼であっても森の中は薄暗く、肌を刺すような冷たい空気が滞留していた。足元には落ち葉が分厚く堆積し、一歩踏み出すごとに湿った腐葉土の深い匂いが鼻腔をくすぐる。


 やがて、斜面を切り開いて作られた猟師の集落が見えてきた。そこには、獣の毛皮を身にまとい、鋭い眼光を持った男たちが集まっていた。彼らの肌には無数の傷跡が刻まれ、自然という容赦のない脅威と常に隣り合わせで生きている緊張感が漂っていた。


 ルカはここでも、南方の農村と同じように自らの思いを真っ直ぐに伝えた。大森猪の肉がどれほど力強い旨味を持っているか。自分の作る料理が、その命を無駄にすることなく人々に活力を与えているか。そして、命がけで狩りをする彼らの危険に見合った、正当な対価を必ず支払うという約束を。


 最初こそ警戒の色を隠さなかった猟師の長も、ルカの淀みない言葉と、それに同調するレオンハルトの威風堂々とした態度に触れ、やがて深く頷いた。


「王都の人間は皆、我々の獲物を安く叩き買うことしか考えていないと思っていた。だが、お前さんの目は本物だ。命をかけて仕留めた獲物を、それほどまでに大切に扱ってくれるというのなら、俺たちは喜んでお前さんに肉を卸そう」


 長が差し出した無骨で厚みのある手を、ルカは両手でしっかりと握り返した。その手からは、獣の血の匂いと、厳しい自然を生き抜く人間の強烈な熱が伝わってきた。


 こうして、ルカは琥珀茸を採る山の人々とも契約を交わし、すべての食材の直接仕入れ経路を確立した。帰りの馬車の中で、ルカは極度の緊張と疲労から深い眠りに落ちていた。レオンハルトはルカの頭が窓枠にぶつからないよう、自分の肩へと静かに引き寄せた。


 ルカの規則正しい寝息を聞きながら、レオンハルトは流れていく窓の外の景色を見つめていた。一人の気弱だった料理人が、大勢の人々の生活と希望を背負う立派な商会長へと成長していく。その輝かしい過程を誰よりも近くで見守ることができる喜びに、レオンハルトの胸の奥は静かに、だが熱く満たされていた。

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