これは、さよならのつもりだった。
秋になると、校舎の廊下が少しだけ広く感じる。
空気も、会話も、どこか乾いていて、それが今の私たちにはちょうどよかった。
佐倉悠と距離ができたのは、たぶん夏の終わり頃だった。
はっきりしたきっかけはなかった。
いつも通り放課後の図書室で並んで本を読んで、互いに感想を交わして、帰り道は黙ったまま歩いた。
ただそれだけの日々が、ある日ふいに終わった。
「ごめん、今日用あるから」
そのひとことで、何かがふわりとほどけた。
それ以来、悠と私は別々に帰るようになった。
図書室でも姿を見かけなくなった。
教室では何気ない会話だけは交わすけれど、それは誰とでもできる程度の、当たり障りのないやり取りだった。
私たちは付き合っていたわけじゃない。
でも、なんとなく、誰よりも近い場所にいた――そんな気がしていた。
彼に何かされたわけじゃない。
私が何かしたわけでもない。
ただ、ふたりの間にあったはずのものが、静かに風にさらわれていっただけ。
それなのに私は、心のどこかで“何か”を待っていた。
この距離が、自然に戻る日を。彼がまた「図書室行こうか」と言ってくれる日を。
でも、それはいつまで経っても訪れなかった。
もう、終わりなんだと思った。
そう思うことにした。
手紙なんて、書くのはいつぶりだろう。
作文コンクールに出したとき以来かもしれない。
誰かに向けて、自分の気持ちを“伝えるためだけに”文字を書くなんて、ずいぶん久しぶりだった。
机に向かって、便せんを広げる。
薄いグレーの罫線が、やけに冷たく見えた。
最初の一文に迷って、しばらくペンを持ったまま動けずにいた。
「元気ですか」なんて書くには、距離がありすぎるし、
「久しぶり」と書くには、毎日顔を合わせている。
それでも、何か書かなければ何も変わらない気がして、私は思い切ってペン先を紙に落とした。
佐倉くんへ
どうしてこの手紙を書こうと思ったのか、自分でもはっきりとは分かっていません。
文字が、自分の思っていたよりずっと小さくて、震えている。
感情はあまり出さないつもりだった。
静かに、落ち着いた文面で、「関係を終わらせたい」と伝えるだけにしようと思っていた。
だけど、書いているうちに、自分の言葉のなかに、じわじわと濁った気持ちが滲んでくる。
「あなたと話せなくなって、寂しかったです」
「でも、それを伝えるのが怖かったです」
「ずっと、どうすればいいか分からなかった」
そんな文を何度も書いて、何度も消した。
一文ずつ削りながら、自分の気持ちを「伝えすぎない形」に整えていく。
最終的に残ったのは、便せん一枚。
淡々とした文面。けれど、行間には、消しきれなかった揺れがにじんでいた。
封をする直前、私は少しだけ迷った。
これを渡したら、たぶん、もう元には戻れない。
けれど――それでも、
このまま風に吹きさらされるよりは、何かを終わらせた方がいいと思った。
明日の朝、彼の机にこの手紙を入れる。
私は決めた。
翌朝、教室に着いたのはいつもより少しだけ早かった。
まだ半分も席が埋まっていない時間。
窓際の席にかかる光が斜めに長くて、空気の冷たさが制服の袖口に染み込んでくる。
私は、かばんの中に入れたままの封筒に触れた。
厚みのない、便せん一枚分の軽さ。
それでも、この数グラムが、何かを変えるかもしれないと思うと、指先が妙にこわばった。
悠の席は、いつも通り、窓側の三列目。
彼はまだ来ていない。
誰にも気づかれないように、そっと歩いて近づく。
封筒を取り出し、机の中に入れるだけ。
ただ机に手を伸ばしただけなのに、呼吸が苦しくなった。
――そのときだった。
机の奥に、白い封筒がすでに入っていることに気づいた。
まるで誰かに先回りされたみたいで、思わず手が止まる。
封筒の表に、見慣れた文字でこう書かれていた。
高城まどかさんへ
名前が書かれているだけなのに、胸の奥がぎゅっと音を立てて縮んだ気がした。
慌てて取り出す。誰にも見られないように、自分の席に戻って、そっと開封する。
中から出てきたのは、少し折り目のついた便せん一枚。
筆圧は弱く、どこか頼りないけれど、それでも丁寧に書かれた文字だった。
高城まどかさんへ
こういう形で手紙を書くのは、たぶん初めてです。
上手く書けているか分かりませんが、読んでくれると嬉しいです。
まどかは、いつも言葉をちゃんと選べる人だと思っていました。
僕がうまく言えなくて黙ってしまうようなことも、まどかは落ち着いて言葉にして、整理して、伝えられる。
それがすごいと思っていたし、羨ましくもありました。
だけど、気づいたら、それがだんだん苦しくなっていました。
僕は自分のことを言葉にするのが苦手で、感情をうまく扱えなくて、
だから隣にいると、勝手に自分が劣っているような気がして、
まどかと話すたびに、「何か違う」と思うようになってしまっていました。
それで、少しずつ距離をとってしまいました。
傷つけたかったわけじゃありません。
ただ、どうしていいか分からなかっただけです。
でも、いちばん落ち着いたのは、図書室でまどかと並んで本を読んでいた時間でした。
木の床がきしむ音や、紙の匂い、午後の日差しが差し込む窓――そのすべてが、静かに時間を守ってくれていた。
何も言わなくても、まどかと“並べている”気がしたから。
本当は、今もその時間を手放したくないと思っています。
もし、まだ間に合うなら、もう一度話したいです。
佐倉 悠
読み終えたあと、私はしばらく席を立てなかった。
手紙は、まだ手の中にあった。
けれど、廊下から足音が近づいてきて、私ははっとしてそれをそっと鞄にしまう。
教室が徐々にいつもの空気に戻っていく。
クラスメイトの声、椅子を引く音。
私は何もなかったように教科書を開いたけれど、
視線の先には、ずっとあの便せんの余韻が残っていた。
数時間後、教室に再び静けさが戻ってきた。
午前中の授業が終わり、昼休みに入る直前。
クラスメイトたちはぞろぞろと教室を出て行き、教室に残っているのはほんの数人。
私は鞄から、新しい便せんを取り出す。
そして、ペンを手に取った。
今じゃないと、伝えられない気がした。
ゆっくりと、一文ずつ、静かに言葉を探す。
佐倉くんへ
手紙、読ませてもらいました。
書いてくれて、ありがとう。
私は、あなたと話せなくなって寂しかったです。
でも、それをどう伝えればいいのか分からなくて、
ちゃんと話せばよかったのに、話せないまま時間が過ぎていきました。
あなたが私のことをそう思っていたなんて、
正直に言うと、少し驚きました。
でも、私もきっと、何かを守ろうとしていたんだと思います。
図書室で一緒にいた時間は、私にとっても大事な時間でした。
だから――もしよかったら、また少しずつ話しませんか。
無理にとは言いません。
でも、私はあなたと話したいです。
高城まどか
書き終えた手紙は、最初のものよりももっと短くて、もっと拙かった。
けれど、書き終えたとき、なぜか肩の力が抜けていた。
ようやく、自分の言葉で伝えられた気がした。
昼休みの教室は、いつもより静かだった。
私は席に座ったまま、便せんを封筒に入れ、膝の上でそっと撫でた。
立ち上がって、できるだけ自然に歩く。
彼の席に手を伸ばし、迷わず机の中に封筒を滑り込ませた。
誰の目にも留まらなかった。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
席に戻って、窓の外をぼんやりと見る。
赤くなりかけた葉が、ひとつ、ふわりと落ちていった。
やがて、教室のドアが開く。
佐倉くんが静かに入ってきて、自分の席に向かう。
机の中を覗く。
指が、封筒に触れる。
一拍、間を置いて、それを鞄にそっとしまう。
そして、ふと私の方を見る。
目が合う。
言葉はない。
でも、小さく、彼が笑った。
私も、ほんの少しだけうなずいた。
それだけだった。
それだけで、たしかに何かが戻ってきた気がした。
誰かと並んでいるという感覚が、ようやくまた、ここにあると思えた。
廊下の窓が風で鳴った。