8.女
恐怖と驚愕――或いは嫌悪。
それらの綯い交ぜになった感情が、女の顔には浮かんでいた。この世で一番見たくないものに行き合ってしまったかのような、そんな表情。
白い服は汚れ、あちこち穴や裂け目が見える。恐らくここに来るまでの道程で、転んだり、枝に引っ掛けたりしたのだろう。手に提げた旅行鞄は草木の露で濡れそぼり、あちこち緑が貼り付いていた。その姿はまるで誰かを見るようで――
(……あいつ、同類か?)
流石に三週間も探索やら煮炊きやらしてきて、お互いご近所さんの存在に気付かないというのは考え辛い。まだしも自分と同じようにここに飛ばされたと考える方がそれらしいだろう。
加えてあの格好だ。野山を掻き分け、ようようここに辿り着いたという、まさにそんな風体。自分もここに着いた当初は同じような感じだっただろうことは容易に想像がつく。
女の容色は、遠目なので確言は出来ないものの、整っていることは確からしかった。それでいて彼女を目にして浮かんだ最初の言葉は――『異物感』だった。
好みじゃないとか、美しくないとか、そういうことじゃない。
この緑の海に人間が現れたという、そのこと自体がどうにも気持ち悪い。
ピアノを弾いているのにその上にいきなりパスタをぶちまけられたかのような、そんな意味不明さ。調和という言葉とは程遠い、嫌悪感を伴う明らかな異分子。
……だから否が応でも思い知らされてしまう。
今更だが、この地にとって、自分は異物の側なのだ、と。
「あ」
女が背を向け、猛然と走り去ってゆく。反射的に追いかけそうになって、瞬間、握っている山刀に気付いた。いきなり行き合った人間がこんな物騒なものを持っていたら、そりゃあ逃げるのも道理だ。とは言え丸腰で後を追うのも無防備そのものなので、念の為、作業用の短いナイフを一本、懐に仕舞っておくことにした。
女の姿を捉えたのは沢を抜けた辺りだ。何度か川魚を獲りに行っている為、一帯の地理には詳しい。自分で枝や低木を打ち払った小道もある。相手がその手の使いやすい道ばかりを通るかどうかは分からないが、あの荷物だと獣道を進むのはなかなかに骨が折れるだろう。
(……いっそ、一周して戻ってくるのを待っていた方がいいか?)
沢があるのは、生活エリアから見て、北の端を分け入ったところだ。真っ直ぐ進むといつの間にか一周してしまうここの性質を考えると、逆に南側で待ち構えている方が早いかもしれない。
とは言えあの女が真っ直ぐ進み続けるとは限らない。途中で進路を変える可能性は高いし、どこかでやり過ごそうと考えている可能性だってある。
なのでひとまず後を追っていたのだが――
「……ここは…………」
巨木が数本、立ち並んでいた。いずれも樹齢でゆうに五百年はいっているほどの大きさで、その歳月を証するように、幹に大きなウロ穴が開いているものも見られた。
見覚えのない場所だった。
これだけ目立つ場所ならば、気付かない筈はないと思うが……エリアごと、踏破したつもりで見落としていたのだろうか。
しかし感覚としては、そろそろぐるりと南端に出ていておかしくない。ならば一体――
ズザッ
何かが滑り落ちる音がした。見れば前方遥か、腐葉土に覆われた木々の合間に茶色く筋が出来て――その下には片足を庇うような格好で、女が横たわっていた。遠目からでも苦悶の表情を浮かべているのが分かる。
足を挫いたのか?
幸い小屋の片隅で応急処置用の包帯などは見つけており、外に出る際は携行するようにしていた。それを手にゆっくり彼女の方へ向かうと、
「…………!!」
声にならない声を発されてしまった。
必死に動く方の足で、手を突きながら上へ登ろうとするも、当然遅々としか進まない。
……そんなにヤバい男に見えるのだろうか。幾分不本意だ。今は山刀も持っていないし、危害を加えるつもりなんて毛ほどもない。
しかし逆の立場なら……
見知らぬ地で得体の知れない男に遭遇して、尚且つそいつが手に刃渡り数十センチの得物を手にしているのを目にしたら……
まあ、控えめに言っても、警戒には値する、か。
だが警戒を解くのに、どんな言葉を掛ければいい? 相手を怖がらせない為には?
……こうやって色々考えなければならないから、人付き合いってやつは苦手だ。
「……だ、大丈夫ですかー?」
声が少しひっくり返ってしまう。仕方がないだろう、まともに人と話すのは久し振りなのだ。が、
「……! ッ……!!」
混乱に拍車を掛けてしまったようだった。転びつつ、這いずり必死にこちらから逃れようとする。
会話不成立だ。
思わず嘆息をついてしまう。明らかに面倒臭そうな状況だったが、放っとく訳にもいかない……のか? かえって逆効果のような気もする。しかし完全にスルーするのは、何と言うか、気持ちが悪い。変な恨みでも抱かれそうな気がした。
頭を掻いて、取り敢えず女の側まで登ることにする。反対に逃げきれないのを悟った女は登るのをやめ、蹲って――
「……なさい、ごめ……なさ……」
呪詛のようにも聞こえる言葉に、私は思わず立ち尽くしてしまった。得体の知れぬ苦さが口の中に広がった。
何が彼女をこうまでさせているのか。未開の地でいきなり武器を持った見知らぬ男に遭遇すれば、誰しも多少のパニックにはなるだろう。そこは理解出来る。
しかし目の前の嗚咽には明らかに別の色が滲んでいた。哀願、諦念――少なくとも彼女がそれを向けている対象は、私だけではない。そのように聞こえた。彼女から少し離れたところに立つと、ひとつ、深く息を吐く。
「……脅かしたのは、すみませんでした。一応、今応急処置の道具を持ってますけど……」
見た感じ、やはり足を挫いているようだった。恐らく右足。彼女自身で応急処置が出来るかは分からなかったが、一瞬とは言え、貴重な道具を相手に委ねる気にはならなかった。
会話が出来る相手だと理解して貰えたのかどうか、ややあってから俯いていた顔が、ちらとこちらを眇めるように向く。
土埃に塗れた前髪の向こうに、赤く泣き腫らした瞳が垣間見えた。褐色の肌、髪は肩にかからないくらいのショートだが、癖っ毛なのだろう。随分と外に向かって撥ねていた。白い服は泥に塗れ、四肢には今しがたつくった痛々しい赤い線が何本も流れている。
彼女は困惑を露わに、それでも素早くこちらの身につけているものを一瞥する。暫し瞑目して、やがておずおずと右足を差し伸ばしてきた。嗚咽はすすり泣きに変わっていた。
足に触れると、途端女の全身が硬直する。怯えが消えた訳ではないのだった。そしてそれと同時に私は――触れなければ良かった、と思ってしまった。
(……女の、足だ)
女の肌だった。女の感触だった。
欲望の二文字が頭を擡げてくるのを急いで打ち消す。
直感的に、今そのことを考えるのは不味い気がした。今は、治療に集中すべきだ。
女は右足首の付け根辺りを、赤く腫らしていた。やはり挫いたのだろう。骨が折れているかまでは分からなかった。炎症に効く薬草や塗り薬でもあれば良かったが、少なくとも小屋の中には見つからなかった。ダイフクの作った薬草丸の類が効くかどうかは分からないが、それにしたってどうにかダイフクから上手いこと聞き出さなければならないだろう。聞き出せるとして、だが。
ひとまず手持ちの包帯で固定し、水筒を取り出す。例の、紋様が入った木製のやつだ。それでちょろちょろと、水を垂らして冷やしていく。女は最初は黙ってされるがままになっていたが、水の流れが途切れない事に徐々に疑念を抱き、自らの目でそれを確認するや明らかに身を固くする。説明したところで理解して貰えるとは思っていないので、別段教えるつもりはない。……そもそも応急処置の手順も合っているか分からないし。
「取り敢えず沢まで行けるなら、流水で冷やせばいいと思いますけど……」
足から手を離し、改めて女に目を落とす。
「食べ物、あるんですか」
問うも、当然返事などない。期待している訳でもなかった。
「家は」
これも無回答だが、実は心当たりぐらいはある。あの巨木のウロ穴だ。
人間、何かあって一目散に逃げるとき、少しでも自分の慣れ親しんだ方向へ向かうものだ。だが手入れされた道を少し辿ったら私に行き合った風なのを鑑みるに、やはりまだここに来て間もないのだろう。
となるとあのスピードで迷いなく逃げ、かつ仮でも拠点にしていそうなのは、この一帯またはそう離れていないどこかしら――小屋の類がないのであれば、現実的には雨風を凌げる巨木のウロ穴くらいしか思いつかない。住環境として良いかどうかはともかく、まあ取りあえずの寝床自体はありそう、ということだ。
食料に関しては、そうもいかないだろう。川魚を除けば、この界隈は食べられるか否か判別の難しいものしか採れない。つまりは、キノコとか、山菜とか。分かりやすくジャガイモやら八朔が生っている訳ではないのだ。
「……別に自分の土地って訳じゃないんで」
女が振り仰ぐ。整った顔立ちは些か強張り、言葉の意味を図りかねている様子だった。
「食料とか欲しいものがあったら、聞きに来て下さい。ただ、この辺りは得体の知れない生き物もいるようなんで、気を付けて下さいね」
言ってそのまま背を向けた。女は結局何も答えなかった。こちらにしたって、決して先輩面をしたかった訳ではない。少し前の自分に近いものを認め、助言しただけだ。深入りするつもりはない。結局自分の問題は、自分でどうにかするしかないからだ。結局は、自分で……
(……ん?)
斜面の下に転がった革張りの旅行鞄が目に入る。落ち葉に塗れ、ともすれば風景の中に同化してしまいそうだった。それに違和感のようなものを覚え、あ、と程なく氷解する。
(寝床になるような拠点があるなら、どうしてあんな物を持っていた)
拠点があるならあんな大荷物は持って行かないだろう。もっと動きやすい、必要最低限の量になる筈だ。
となると、本当についさっき、ここに来たばかりなのか? 来たばかりと言っても漠然とウロ穴の辺りで数日は生活していると見ていたが、全然そんなことはないのかもしれない。寧ろ初めて見たときの印象――自分がこの地に来たばかりのときと似ている、という感覚の方が合っているのだろう。実際、自分は半日程で今の拠点まで辿り着いている。彼女が同じようなスピードで森を抜けたのだとしても、全く不思議はない。
ウロを確かめに行っても良いが……流石に今、無遠慮に他人の生活スペースかもしれないところを調べるのは憚られた。警戒されているなら尚更だ。
本音を言えば、すぐにでも一帯を探索したい。
どんな見落としがあったのか知っておきたいし――――そもそも本当に見落としだったのか、確かめておきたいのだが。
(ともあれ……)
嘆息とある種の安堵が綯交ぜになった感情が浮かび上がってくる。
(結局、人恋しかっただけなのか?)
今の自分に、あの女を手助けしてやる必要性なんてない。見知らぬ地に現れた赤の他人、それだけだ。
それでも声を掛けたのは――声を掛けたかったのは、人恋しさの為なんじゃないのか。
それとも色欲か? 女の肌に触れた瞬間、それを否めないものが身体の奥から湧き起こったのは事実だ。
(しかし――)
神話の一場面について延々と考えていたことが思い出された。
食と共同体は密接に結びついている。
そして一人では共同体ではない。そう、一人では…………
或いはそれが望んでいるものの正体なのかもしれない。しかし認めたくないという、それだけなのかもしれない。
知らず引き結んでいた唇から深い溜息を漏らし、そのまま家路に着く私の背に、語り掛ける声はまだなかった。




