64.舟を直す女
翌朝、練習前に仮面職人のラーシュに紹介された軽食喫茶に赴くと、意外な人物がそこにいた。
「おや、昨夜の兄さんじゃないかい」
何と店主は昨日隣席に座っていた、あの老婆だった。例のレガッタチームのチームカラーである緑のエプロンに色の薄いサングラスを掛けた姿は、なかなかサマになっている。
(……なるほどね)
仮面職人はここが自分の気に入りだと言っていたが、贔屓にしているチームが同じーー恐らく酒飲み仲間でもあるならば、それも頷ける話だろう。
「今日はお仲間は一緒じゃないのかい」
「ええ、後はウチの相棒がいるばかりですよ」
ダイフクがカウンターの上に乗り、板チョコを前に物欲しそうな雰囲気を醸し出す。「エスプレッソでも飲むか?」と訊いてみると、分かったのか分かってないのか、ウキクサに向けてひとつぴょんと跳ねてみせる。
コーヒーとエスプレッソ、板チョコ、それにカウンター上に並んでいた小皿から生ハムと、イカをマリネにしたものを選んだ。砂糖を入れたエスプレッソと板チョコを立ち飲み用のテーブルに置くと、ダイフクは音もなくそこに着地してちびちびと口をつけ始めた。
「近距離なら飛べるようになったのか」
そう、例のウミネコを模した翼だが、どうやらこのくらいの距離なら上手く使えるようになったらしかった。飲みながら身体の中にしゅるしゅると収納するような感じで、感覚を自分のものにし始めているのが見て取れた。
「これから練習かい」
「ええ、まあ」
そう老婆に返すと、
「気合いだよ気合い。結局はそれさ」
と何とも言えぬアドバイスを送られる。
しかしあの手のものを碌すっぽ漕いだ事がないのは事実だ。アドバイスはアドバイスとして受け取っておこう。
曖昧に返事をしながらコーヒーをひと口啜ると、口の中に広がるすっきりとした酸味で忽ち目が覚めるのだった。
そうして練習をした結果。
「はあっ、はあっ、はあっ」
ウキクサは舟の中で荒く息をついていた。確実に筋肉痛になるやつだ。それくらい普段使わない筋肉を使ったし、入念にストレッチをしてから始めて、良かったと心から思う。下手をすれば筋を痛めているだろう。
「お疲れ様です! いやあ、これなら上位も狙えますよ!」
そう言ってヤコポが実にいい笑みを浮かべる。全力で漕がせられたウキクサは、何ぞ上位に入るといい事でもあるのか、と苦笑を浮かべてしまう。
「はあっ……しかし、この重石はなかなかのものだな」
言いながら舟の前方に取り付けられた漬物石のようなものを見る。重量を規格以内にする為必要なのだとか。
「なのでまあ、そこは我慢して下さい」
「ダイフクは軽いからな。それはしょうがないだろう。ただ……」
ウキクサは相棒の妖獣を見て、
「コイツは何をすればいいんだ? 今日も結局舟の上で遊んだり、横で並走するように泳いでいたが」
「ザックによれば、基本的に規定時間内にゴールさえすれば何でもアリのようです。なので舟の上でも良し、舟を後ろから押すのでも良し、さっきみたいに横で泳いでいるのもアリですね」
「……重石の意味なくないか?」
「かも知れませんね。但し一点注意事項がありまして……」
「ああ」とウキクサは被りを振る。
「こっちに向かう船の中で言ってたな。妖獣の姿がちゃんと見えてないと、採点対象にはならないんだったか?」
「ええ、なのでそれだけはお気を付け下さいね」
「……微力を尽くすよ」
正直ダイフクの行動なんて読めないし、それに関しては責任の持ちようがない。
「でもそういう趣旨だったら、別にタイム上位を狙う必要はないだろう」
「それはそれ、ですよ。タイムが出ればそれだけで観客の注目は集まりますからね。実際毎年、それなりの数のチームが速さを競っているようです」
「商会の宣伝にもなるしな」
「そこは否定しません」
「正直な奴だな」
言いながら舟を下りると、ダイフクが何やら懐に潜り込んでくる。どうやら薬箱が欲しいようだった。取り出して中を開けてみせると、その中からダイフクは黄土色の丸薬を取り出してみせる。そうして自身でそれを含んでから、今度はこちらの首の付け根にぺたりと張り付いた。
「……うおお、効くわあ……」
「……何やってんだ?」
「何って、治療」
胡乱な眼差しを向けるカミールに薬箱を見せると、彼も合点がいったようで、
「へえ、こうやってるのか」
「なかなか有能だぞ、ダイフクは」
黄土色に染まった妖獣の体色が次第に薄くなってゆく。こちらから離れた頃にはもう元の色に近く、例によって体内に凝った青黒いものを塊にして排出していた。
「おお、肩も背中も軽い軽い」
肩を回しながらウキクサは屈み、青黒い塊を箱に仕舞う。カミールは「アレがこう作用するのか」と興味深そうに一連のやり取りを眺めていた。
「そう言えば、薬による回復はアリか?」
「いや、規定によってそれは禁じられています。と言っても、競技部門ではないですからね。そこまで厳密ではないとの事です」
「分かった。いらぬ誤解を招いてもなんだし、当日はヤコポが荷物を預かってくれ」
「承知しました」
「それにしてもーー」
ウキクサが周囲を見回して言う。
「随分と賑やかだ。昨日も多かったが、それに増して今日は舟の数が多い」
「いよいよ祭りも本番、って事だな。全部で何組出場するのやら」
「明日明後日と雨らしいですからね。早く来ていた組は今の内にと試走しているようです」
ヤコポの言葉通り、それからは雨の日が続いた。本番前々日はザーザー降りで流石に表の人通りも疎らだったが、前日はそうでもなかった為か、結構な人出があった。
「雨を楽しむ、ってか。オツだねえ」
「向こうのヴェネツィアは、海面の上昇に伴って洪水みたいになる時があるって聞いたが」
「そうなのか」
「結構深刻な問題みたいだぞ。その為の機動防波堤も作られるくらいで」
「こちらではそんな話は聞かないな。精々雨が降った時に石畳が鏡面になって、皆がそれを楽しむくらいかーー今日みたいにな」
言ってカミールが通りに目を向ける。成程、彼の言ではないが、雨を『楽しむ』というのはなかなかに面白そうだった。
実際通りに出てみると、こんな天気なのに皆表情が明るい。手に薔薇の花を持って、思い思いにそれを通りすがりの人に渡したり、橋の欄干に差していた。豪快に運河に投げている者も見られる。恐らく何かしらの意味があるのだろうが、何にせよ見ていて気持ちがいい事には変わりない。
「俺らも真似してみるか」
何処かで薔薇を売ってないかと探す内に、例の軽食喫茶で売っているのを見つけ、一束ほど買い求める。店主の老婆が言う事には、好いた者などに親愛の情を示す慣習なのだという話だった。
「気に入った子に渡すといいよ。運が良ければ懇意になれるし、そうじゃなくてもこの慣習は有名だからね。別に嫌な顔はされないだろう」
そういう話だったので早速買った一輪を老婆に手渡すと、彼女は笑いながら、
「ウチの死んだ爺さんも他所の人間だったが、あたしの説明を聞いて同じ事をしてくれたのを思い出したよ! いやはや、今日は良い日だわさ!」
そう言ってワインを一杯奢ってくれるのだった。
色恋沙汰やこういった浮ついた行為は得意ではなかったが、通り掛かりの女性に一輪ずつ渡していくといつの間にか残りが少なくなっているもので、気付けば全く土地勘のない区画に足を踏み入れてしまっていた。ダイフクに「可愛い!」と近寄って来た子も多かったので、多分にそのお陰なのだろうが、贈った花を受け取って貰えるというのは、何というか、悪い気分ではない。自己肯定感が強くなると言うべきか。
と、水路の傍で一人、舟を修繕している女の子が目につく。常なら気にも留めないのだろうが、少し気が大きくなっていたのだろう、ウキクサは自然に話し掛けていた。
「どうかされましたか?」
聞かれて彼女は振り返ると、バツの悪い表情を浮かべながら、
「いや、ちょっと祭で使う予定の舟が浸水しちゃうみたいで」
見れば舟底からジワリと水が染み込み、中に水が溜まっているようだった。
「……手伝おうか?」
「いや、これは私の問題だし……暫く放っておいたバチが当たったのかもね」
そう言って彼女は苦笑する。『そうか』と放っておいても良かったが、先のワインが少しばかり効いていたのだろうか、ウキクサは彼女の言葉に嫌なものを覚えて、
「バチがどうこうなんて、そう簡単に言うもんじゃないよ。それにあんたはそんな悪い人じゃなさそうだ」
と、それを聞いて彼女が笑い出す。
「どうやら最近変な男に縁があるみたいね。でもありがとう、これも何かのアレだから、助けて頂戴」
「喜んで」
言ってウキクサも船体を調べてみるも、どうにも彼女の手持ちの道具では如何ともし難い気がした。だが安請け合いして中途半端な仕事で返すのは彼自身納得がいかない。
「……直すアテはあるのか?」
「ないわね。いつも大会直前に自前でどうにかしてたんだけど……やっぱり無理かしら」
「隙間をどうにかすればいいかとも思ったが、縁のここなんかも朽ち始めてる。そろそろオーバーホールしないとキツいんじゃないか」
「そうよねえ……」
言って彼女は「はああ」と重い溜息を吐く。このままではレースには出場出来ないだろう。
「ーー実は俺も明日出場するんだが……懇意にしてる商会があって。そこなら何かしら力になれるかも知れない」
彼女がパッと顔を上げる。次いで、「お願い!」と手を組み懇願する。すぐに舟を二人で担いでヤコポの元に赴くと、
「本職を紹介出来ない事はないのですが……今は流石にどこも忙しいと思いますよ」
支店長ザックがそう言う。レースの直前という事で、どこも掻き入れ時なのだ。
「明日が一応様々な一般の部ですからね。明後日のコンペティション部門に出るチームに知り合いがいればまた別なんでしょうが」
「コンペ部門に知り合い、か…………ひょっとしたらアイツらなら何か分かるか?」
ヤコポに訊けば、「心当たりがあるのであれば、行ってみる価値はあるかも知れませんね」と首肯する。
「ひとまず舟はこちらに置いて、その方に頼めそうか、訊いてみては?」
「それもそうね。宜しく頼むわ」
女はそう言ってウキクサと再び表に出る。
「正直自信はないから、あまり期待するなよ」
「分かってるわ。こっちは藁にも縋りたいだけだから、別に気にしてない」
いつもの軽食喫茶まで戻ると、店主の老婆は開口一番、「おや、早速引っ掛けてきたのかい」と冷やかしてきた。「そうじゃない」と事情を説明すると、
「ならシャックの所に行くと良い。『緑風』のメンテナンス担当だ。この間あたしと同じテーブルに中年女が座っていただろう? 彼女の旦那がそうさ」
「聞いてみるもんだな。まさか普通に関係者の名前が出てくるとは思わなかったよ」
「ファンならチームの事は知ってるし、チームの者も本業で一緒に仕事をする事もあるからね。そう言った意味では、ここは近い距離感なんだろうね」
わざわざ店を一度閉めてくれた老婆の後に続いて、裏通りを数分歩く。立ち止まったのは一軒の肉屋の前で、彼女は無遠慮に戸をくぐると店頭で仕事をしていた中年女に話し掛ける。幸い世間話はそこまで長くならず、「ところで旦那は?」と本題に入ると、丁度当人らしき男が出てくる所だった。彼は話を聞くや、
「見てみない事には何とも言えないが、状態は良くなさそうだな……ひとまず無事完走出来ればいいんだよな?」
「はい、その後はどうするか、改めて考えたいと思います」
「なら今から出張るとしようかね。どうせこんな天気だ。客も碌すっぽ来やしねえさ」
おかみさんもそれには同意らしく、「きっちりやってきな! 中途半端な仕事したら沽券に関わるよ!」と気持ち良く送り出す。聞けば、既にチームの舟は調整を終えているらしい。
シャックが商会まで足を運び、実際に船体を見てみると、彼は感嘆したように頷きながら、
「良く手入れされてきた舟だな。……でもそろそろ、引退させてやった方がいいだろう」
そう言って依頼主を見る。彼女も薄々それは分かっていたのか、深く息をつくと、
「分かりました」
それだけ言って、深くお辞儀をする。
「残念ですけど、今回は棄権しようと思います。運営側に迷惑を掛けるのは、この舟も本意ではないでしょうし」
そう言って苦笑を浮かべた。なんでもこの舟は彼女の母親から使っていたものらしい。それを受け継いだ人間としては、苦渋の決断であるようだった。
「いや、最後に一回くらい、一緒に海原を駆けてみたいだろう?」
「え?」
シャックの言葉に彼女は顔を上げると、相手は笑いを上げながら、
「祭に出走出来るくらいにはしてあげられると思うよ。俺たちにも奥の手くらいあるのさ」
そう言って携えてきた鞄から、松脂のようなものを取り出す。次いでそれを水漏れしていると思しき箇所に塗り込むと、燐寸を擦ってそこに火をつけた。
「うわ!」
「ちょっ、店内ですよ!」
ヤコポ達が慌てるも火はすぐに消え、松脂もどきの塗られた辺りがじわじわと黒く変色していく。
「驚かせて申し訳ない、でもこれで大丈夫な筈だよ。試しに水の上に浮かべてみるといい」
言われるまま舟を店に面した運河に浮かべると、水漏れは見事に解消され、均整の取れた船体は凛と水面に浮かんでいた。
「魔法みたい……」
そう依頼人が零すと、
「魔法に似たようなもんだからねえ」
とシャックが返す。詳しくは企業秘密との事だった。
彼女がシャックに握手を求め、「このぐらい大した仕事じゃないから」と心付けの受け取りを拒むのを、彼女はどうにかして握らせると、次いでウキクサに向かって、
「貴方に会えなかったら、多分途方に暮れてたわ」
と改めて謝意を示し、銀貨をじゃらじゃらと握らせようとする。
「いや、流石に俺は何もしてないからな。受け取れないよ」
「それだと私の気持ちが済まない」
尚も受け取るよう迫る彼女に、「ならば」とウキクサは彼女に挑むような眼差しで、
「それじゃあ足りないな。俺はそういうのじゃあ喜ばない」
そう言って拒否する構えを崩さない。
暫し間があった後、彼女は何か妙案を思い付いたとばかりに、「じゃあこういうのはどう?」
とおもむろに顔を近付けてくる。そうしてその唇がこちらの唇に触れそうになった所でーー
チュッ
「……うん?」
ダイフクを盾にしてそれを防いだのだった。
「……すみません、俺の負けです……」
そう返すウキクサにシャック始め周りの皆は、
「ビビりだな」
「不甲斐ないですね」
「折角だから貰っておけばいいのに」
散々な言われようで、当の女にも笑われてしまっている。考えたらまだ名前も知らない相手だが。
「ああ……まあ、レース頑張っとくれ。えっと……」
「メイリン。よろしくね」
言って彼女は舟に乗り込むと、スイスイと漕いで行ってしまう。
「レースが終わったらみんなでご飯でも行きましょう! ウチの変わり者も連れてくから!」
……という事は、彼女はこちらを変わり者と認識しているという事だ。客観的に見てそうなのであれば、少し自分の行動には気を付けなければならないだろう。
飛び跳ねてご機嫌なダイフクを見ながら、そんな事を思ったのだった。




