56.木偶と卑下するくらいなら
朝方にピアントの港を発って数時間、それまで島の他には遮蔽もなく紺碧の海が広がっていたのが、俄かに違った様相を呈し始めていた。
「これはもしや……」
「ええ、大分近くなってきましたので」
方々から集まる船は大きさも違えば色もとりどりで、祭りの前のような独特の昂揚感を覚えるものだ。……祭に殆ど行かない人間が言うのもなんだが。
「ジヌーヴはこの界層でも指折りの商業地になります。商会も多く本拠を置いていますね。各地の物産だけでなく人も集まるので、文化や娯楽の分野でもなかなかのものですよ」
言うとヤコポは前方を指差し、
「見えますか」
「……うん? 島のようなもの……だよな?」
水平線の彼方に微かに浮かぶ点は、肉眼では何か全く判別がつかなかったが、ヤコポに望遠鏡を借りてようやく正体が分かる。
「あれは……灯台か?」
細長く伸びるそれは鮮やかな橙色だ。陸地がどのくらいの広さなのかはまだ判然としないが、多くの船がそちらに向かっているという事はーー
「あれがノルトゥナか? それともジヌーヴ?」
「ノルトゥナです。大灯台があるので有名なんですよ」
と、そこで彼は同乗していた別の商人に話し掛けられて場を離れていく。徐々にジヌーヴが近付いてきて、忙しくなってきているようだった。
甲板を見ればダイフクがシュルシュルと滑りながら、水夫の掃除の手伝いをしていた。アルゴとカミールは客室で『海坊主』から何かの成分を抽出していた。確かマナ回復薬が作れるかも知れないとか言っていたか。
(……ここまで役立たずだと、いっそ清々しいな)
思いながらウキクサは海風に吹かれている。
彼には出来る事が特になかった。これといった仕事もない。時折単純な肉体労働の手伝いをするくらいだ。ワーカホリックの気がある彼にしてみたら、第六界層に渡ってからこっち、やれる事がないというのは自分の存在の無意味さとイコールで、ふとした瞬間虚無感に苛まれる事が増えていた。
(そういう意味では、まだ森の中に居た頃の方が充実していたか……)
あの森では孤独だった。だがやるべき事、やれる事は無数にあった。それは一種の自己満足に近いのだろうが、それでもやらなければならない『仕事』に追われて安心を得ていた側面があるのは事実だった。
しかしそこから出る事を望んだのも彼自身だ。あんな箱庭にいるよりは、と。それが余計に時間だけを余らせて、不安が増幅する原因となっているのだろうが……
単にこの流されるままの旅を、長い休暇のようなものと捉えれられないものか。何度もそう思ってはみるものの、思考は上手くポジティブな方に向いてくれない。さっさとこんな無為な旅に見切りを付けて、どこか適当な場所に職を得て落ち着くべきだろう。……でなければあの森に戻って、また人と関わりを絶つのも、性分には合っているのかも知れない。
ぼんやり海を眺めながらそんな堂々巡りに陥りそうになっていると、「あ、ウキクサさん!」と若い水夫の一人が上から声を掛けてきた。制服は脱ぎ、随分とラフな格好をしている。
「非番かい」
「ええ、ウキクサさんは?」
「御覧の通り、木偶の棒らしく暇を持て余してる」
そう自嘲すると「いやいや、『海坊主』を獲ってくれたし、俺らの仕事にも手を貸してくれてるじゃないですか」と彼は笑った。気を遣ってくれているのだろう、というのが率直な感想だったが、敢えてそれを口にするのも彼に悪いので肩を竦めてその話題はそこで終わりにするのだった。
「ノルトゥナまであと一時間半、ってとこですか。待ち遠しいっす」
「なんだ、彼女でもいるのか?」
水を向けると彼は「いやいや、いないっすよ!」と手を振り、
「でも、ある意味それと同じくらいテンション上がりますね」
「何かお目当てでもあるのか」
「お目当ても何もあそこと言ったら……そうだ! ウキクサさんもご一緒しませんか?」
そう言って彼は懐からぎっしり金の詰まっていそうな袋を取り出した。爛々と輝く目つきは最近どこかで見たものだ。バルバリ商会のデネボラ? いや、あれとは明らかに色が違う。もっと前、宝鐸でもないしーー
「……ああ、思い出した」
あの眼差し。千畳の街で見たものだ。ギャンブル狂の妖精二人が浮かべていたのと同じものだ。
「お前さん、賭場にでも行くつもりか? カネが貯まらんから止めた方がいいぞ」
「何言ってるんすか! あの刹那的な快感が良いんじゃないっすか!」
そう笑いながら抗議してくる。あっけらかんとした、気持ちのいい笑みだ。
「悩み事がある時はパァーッとカネ使うのが一番気持ちいいっすよ! 金儲けしようとするんじゃないんす! 快感の為に大枚を叩くんすよ!」
どうやら彼に心配されているらしい。そんな苦しい表情を浮かべていたのだろうか。と、船員の後ろに人影が現れ、
「お前は宵越しの銭くらいは残した方がいいだろ。必要になった時困るぞ?」
途端青褪めた表情で、敬礼しながら船員は後ろを振り返る。そこには上司ーー鱗肌の船長の姿があった。船長は彼の髪をクシャクシャと掻き乱すと、ウキクサの元へ降りていく。
「しかしまあ、ヤツの言う事にも一理あります。なんだったら、ご一緒してみては?」
「さっすが船長!」
笑みを浮かべる船員に「調子に乗るな」とルーチェは呆れ声を返すも、強いてどうこうするつもりはないのだろう。改めて旅人に向き直ると、
「あそこの灯台はなかなか見晴らしが良いものです。オススメしますよ。食べ物とギャンブルについては、そこのヘルマンに訊いて下さい。あの界隈についてはかなり詳しい筈です」
「宜しくお願いしやす!」
いつの間にか一緒に行くのが既成事実化されている気がするが、まあこれも一興というやつか。
いつの間にやらダイフクがヘルマンの足元にやって来ていた。着いてくるつもりなのだろう。或いは、食指が動いたのかも知れなかった。
……そしてその食指は、どうやら正しかったようだ。
ウキクサとダイフクの前には燻製肉や燻製野菜が並んでいた。ヘルマン一押しの店で、まだ夕方までかなり時間があるのに、半地下の店内は既に五、六割が埋まっていた。
しかもかなりの客が既に飲み始めている。どのテーブルにも黒ビールが乗っているのが見えた。
「ここは黒専門っすね。これと店の名物の燻製を組み合わせると、もう止まんないっすよ」
その言葉の通り、ウキクサもダイフクも瞬く間に燻製の虜になった。酒を飲み過ぎると、この後が大変になるという自制心が辛うじて働いた自分を褒めたいーーと半ば本気でウキクサはそんな事を思った。おかわりを注文した上、帰りにはお土産用に更に包んで貰ったほどだった。翌朝それを口にしたカミールは「俺も着いて行けば良かった」と嘆き、アルゴも、「暫く作っていないですねえ」などと感心した様子の感想を漏らすの事になるくらいだ。
店を出て港の方に戻ってゆく。島に着いた時も思ったが、とにかくこの灯台はデカい。幅で二十メートル程はあろうか。高さはヘルマンによれば、「七十メートルくらいっすかねえ」との事だ。
階を上がるのにエレベーターはないものの、術式で似たようなーー『求道者の塔』内部で見たようなーー昇降回廊が設置されていた。
それに乗って起動した次の瞬間、強い風に吹き付けられる。「気を付けてくださいねー!」とウキクサが体勢を崩しそうになった所をヘルマンに言われると、ダイフクも同様に驚いたのだろう、船員に抗議の突撃を繰り返していた。
どうやらここは灯台の屋上のようだった。それなりに人も集まっており、割合としてはカップルや友達連れが多いだろうか。
三方は開けており、夕刻の近付く大海原がきらきらと輝いている。美しい光景だが、高さもあり、それなりにおっかなくもあった。
「……こうやって見ると、トライメンテからかなり離れた所まで来たんだなあ」
ウキクサがしみじみとそう発するも、ヘルマンは「まあまだ数日の距離っすから」と何でもない風だった。彼らにすればこの辺りなど、まだ『庭』の部類に入るのだろう。
「ウキクサさんの目的地はあっちっすよ」
言って彼は塔が直接には海に面していない方を示す。そこにはノルトゥナの街が広がり、農地が広がり、更に向こうに再び海が広がっていた。
「……今日は光の具合で見えないっすねえ。雨が降った後とかなら、バッチリ見えるんすけど」
その方角にジヌーヴがあるという事だ。船の旅に終わりが近付いていた。
「ジヌーヴ行ったら、何やるんすか?」
「詳しくは言えないが、割と忙しいぞ」
ウキクサは苦笑とともに、回らなければならない場所を頭の中に浮かべてみる。
まずはヤコポと商人ギルドへ。次いで生物かマナの研究に通じた人物を探さなければならない。ピアントの髭面商人ショーンの為だ。
更に薬師ギルドでマンドラゴラの件も処理しなければならない。優先順位としてはこちらの方が高いだろうか。それと……
「……当初の目的が、一番後回しになっちまいそうだな」
「?」
ウキクサはカルミアたちを、『浜辺』組はメルキュールを探さなければならなかった。しかしこちらに関しては、まだ糸口も掴めていない。カミールなんかは随分と楽観的ではあったが。
「まあ兎も角ウキクサさん、自分らが次に向かう場所は決まってるっすよ!」
ヘルマンがいい笑みを向けてくる。彼にしてみれば、この灯台からの景色などどうでもいいのだろう。船長がウキクサに薦めていたから一応連れて来たに過ぎない。
彼は改めて街の方を見下ろすと、中心部に建つ赤茶けた丸屋根を示した。
「あそこが自分にとっての『楽園』っすよ!」
「そりゃまた、業が深いな」
呆れながらも付き従って、再度街へ降りて行く。
今日はパァーッと金を使うと決めたのだ。持ち金は全て使い果たすつもりだ。
ーーと言っても全財産の三分の二程で、残りはアルゴに預かって貰っているが。
結果。
「おい見ろよ、あのチップの山……!」
「マジかよ、あれ金貨換算で幾らになるんだ?」
ウキクサの前には青色のチップが三十枚以上、黒色のがほぼ同数置かれ、他の色のチップもそれなりに並んでいた。価値にしてどのくらいになるのか、彼自身良く分かっていない。
それでも観衆のざわめきと、傍らで震える若い船員の様子を鑑みるに、相当の額である事は間違いなかった。
「ウ、ウキクサさん……ヤバいっすよ、これヤバいっすよ……」
何がどうヤバいのか教えて貰いたいものだったが、船員はすっかり腰を抜かしている。取り敢えず分かるのは、ポーカーから目の前のルーレットに変えてから、今の所無敗だという事だ。
「これで何連勝だ?」
「は、八っす……」
八連勝か。最初に賭けたのが確か銀貨十枚分、勝った分はそのまま全額を上乗せしているから……ざっと銀貨二千五百六十枚分か。金貨は銀貨六十枚で一枚だから、四十数枚といったところだ。
「……金貨四十枚あれば、それなりの仕事を立ち上げられるか?」
言うとディーラーの間に緊張が走り、船員は震えながら、
「それなりの船が買えちまうっすよ……!」
成程、今回はどうヤバいのか分かりやすい喩えだ。ちょっとした事業が興せてしまう。
ウキクサはディーラーに声を掛けると、
「取り敢えずこの場の全員にビールを一杯奢りたいんだが、その分先に換金してもいいか?」
「と言うと……続けていただけるので?」
「一応そのつもりだ」
言うとディーラーの頬が軽く引き攣り、それでも平静を保つように、
「ありがとうございます。……おい、お客様方にビールを! こちらの方からだ!」
すると観衆から大きな歓声が上がる。気付けば賭場にいる殆ど全ての人間が成り行きを見守っていたのだった。
「流石だぜあんた!」
「兄ちゃんきばれよ!」
そんな声が八方から掛けられるも、ウキクサ本人はどこかふわふわと、目の前の非現実的な状況を楽しんでいた。ラム酒をショットで立て続けに三杯呷り、黒いチップを一枚だけ手元に引き寄せると、
「じゃあ残りを全部、赤で」
そう言ってザッとチップを斜め前に突き出す。再び歓声が沸き起こり、ディーラーが緊張の面持ちで玉を投入する。
皆は「赤! 赤!」と興奮しながらルーレットに見入っていたが、ウキクサだけは違った。
ぐるぐるとルーレットの縁を回る玉を追いながら、その動きに「面白えなあ」とぼんやり他人事のような言葉を発する。酒が回り始めているのだろう。
ルーレットの玉が跳ねる。
観衆が息を呑むように一瞬静まり返った。
コン、コン、と軽やかな音を立てながら玉は跳ね続け、そうしてやがてひとつのポケットで動きを止めた。
「どっちだ!」
「どっちだ!」
「赤か! 黒か!」
回転が落ちてくる。観衆が身を乗り出して見入る。
ふと、ダイフクが足元から這い上って、膝の上に乗っかってきた。
「お前も楽しめたようだな」
見ればダイフクはサングラスをつけ、金属の装飾品を身に付けていた。ステレオタイプなラッパーといったところか。ヘルマンとは別の年配の船員が店に居たので相手をして貰っていたのだが、気付けば彼もダイフクと似た格好で、それでいてポカンとしたような表情をこちらに向けていた。
「そろそろ帰るか」
言って伸びをする。玉の行方を追っていた観衆からは驚きとも嘆きともつかぬ声が発せられた。
「玉は……黒だ!! 黒だ!!」
忽ち喧騒の渦が巻き起こる。ディーラー側のイカサマだと詰る声もあれば、ツキもここまでかと嘆息する者もあった。
それでも立ち上がったウキクサの顔には、どこか晴れ晴れとしたものが浮かんでいた。
見る者が見たならば、さぞ驚いた事だろう。それくらい屈託のない、ついぞ見せた事のないような笑みを、ウキクサは浮かべていたのだった。
気付けば喧騒は止み、プレーヤーに向けた万雷の拍手が鳴り響いていた。




