48.新たな道連れ
暁の近付く空を待ちながら、一人の老人が丘の上のベンチで珈琲を啜っていた。夏の朝で決して寒くはないのだが、まるで暖をとるように、両手で湯気の立つマグカップを包んでいる。
老人――マクシミリアンは、昨晩訪れた一行の事を思い出していた。
別れの挨拶を言いに来た仕事絡みの知人、こちらに来たばかりのマレビト。
妖精、妖獣、田舎に住む親子――それと宝鐸に住む、古い知己。
カミールのお節介がその状況を生んだ事は明らかだ。尤も、それはマクシミリアンにとっては余計な世話に他ならないし、恐らくカミールたちはそうであろう事を承知しつつ、わざわざ引き合わせている節があった。
(……あの男なら、また顔を出しに来るのだろうな)
シドの顔を頭に浮かべつつ、嘆息に似たものが口から漏れる。
最後に会ったのは遥か昔だ。まだ変貌の程度も今程ではなかった。結局考え方の違いから袂を分かつ事になってしまったが――あの顔に刻まれた皺、歳月の長さを感じさせる面貌は、彼自身と何ら変わらぬものだ。
「お互いジジイになるまでの間、色々とあった……って事かねえ」
老爺の独白は吹き付けた風に攫われ、中空に消えてしまう。後に残るのは、近くない将来ここに足を運ぶだろう知り合いの事を考えねばならないという面倒臭さだけだ。
この界隈も、ぐんと住民が減っていた。家庭を持つ者は宝鐸市街と比べても少なかったので、自然の流れと言われてしまえばそれまでだが、何とも言えぬものがしこりのように胸の内にあるのは否めなかった。
とは言えそれこそもう過ぎた事だ。どうこう考える事にあまり意味はないだろう。そう彼自身はそう思うものの、
(……カミールではなくあの男が来ていたのだとしても、恐らく同じ行動を取ったのだろうな)
車椅子に座った、白髪の男の事を思い出す。満足に身体を動かせぬのは理由にせず、決して明るさを失わない男。
その在り方は老爺には眩しく、あまり正視し過ぎると堪えそうだった。一度『浜辺』に招待された時は、自由を取り戻したメルキュールの姿に驚きもしたし、三人の関係性もまた、有り得たかも知れない未来を見せつけられるようで、幾分業腹でさえあった。
それでも今まで彼らと付き合って来れたのは、仕事そのものに対する自らの無関心は別にして、結局の所人間性が嫌いではなかったからだろう。
「しかしまさか、本当に言っていたような女が現れるとは……。大したものだ、とは言うべきか」
マクシミリアンは数年前の『予言』を思い出していた。例の『浜辺』で、お礼も兼ねてとメルキュールに見て貰ったのだった。
『いずれ、貴方の元へ旅の一団が訪れるでしょう。貴方の知己も同行しているかも知れません。その中にマレビトがいたならば、金銭的な援助をすると良いようです』
新たに渡って来たマレビトの力になるのは別に吝かではなかった。とは言えその時点では胡散臭い、ただの占いだ。時期がいつ頃かも言及されていない。それでもメルキュールが続けた言葉には、幾らかの不気味さと――根拠のない真実味が、感じられるのだった。
『マレビトが男女であったならば、女の方に多く渡すのが良いでしょう。それが彼女の助けになります』
実際現れた集団の中にマレビトは男と女が一人ずつ居たし、浜辺の二人に加えて、古い知己もいた。
向こう側がどうなっているかなど、本心では興味を失っていたし、訊いたところで寂寥感に見舞われるのは分かっていた。が、大人しく金を受け取ろうとしない二人に名目を与える為には、それを訊くくらいしか、マクシミリアンの頭には浮かばなかった。
本当にあれで良かったのかと自嘲的な溜息が漏れそうにもなるが、ふと例の古い知己が昔口癖のように使っていた言葉が頭の中に蘇る。
「……『情けは人の為ならず』、ねえ」
地平線の近くが橙に染まってくる。いよいよ日の出が近付いているようだった。
街道には二つの人影があるばかりだった。二人は宝鐸に向かっている。キャラの立った二人であるので街の入り口で誰何されるかも知れないが、目的は明確なので大した問題にはならないだろう。
「……また会えるのだろうか」
彼らがこの地に戻って来るかは分からないし、そもそも自分がそれまで生きている保証もない――と、無意識に人恋しくなっている自分に気付き、ふふっと笑みが溢れる。柔らかい笑みだった。
暁の中を進んでゆく二人の背中に、マクシミリアンは小さくひと言、「また会おう」と投げ掛けると、朝食の支度に重い腰を上げ、畑へと向かうのだった。
――――――
この地に迷い込んで、気付けばふた月近くの時日が経過していた。
山猫に襲われたと勘違いしたり、界層を渡ったり。馬車に乗って、緑の平野に想いを馳せてみたり……あっという間の出来事で――――
(……参ったわね)
その時は自分で選ぶもの、自分で決断するものだと思っていた。いや――それは今でも変わらないのだろう。目の前の『黒花』をどう捉えるかは、結局のところ徹頭徹尾私自身の問題だ。この場にはシアが居るので、メルキュールの予言によれば、まだその時ではないのだろうが……。
占いだろうと予知だろうと簡単に信じるようなタチではないし、自分で物事を決めたい性分だというのは分かっているつもりだ。
それが目の前に「はいどうぞ」と唐突に決断を迫られて、何をすべきかどう考えるべきか、分からなくなってしまう。分からなくなって結局メルキュールの言葉に辿り着き、それに頼ってしまう。――まだ、彼らと旅を続けるべきだ、と。
旅の仲間は愉快ではあったが、かと言って必要以上に心を許す事はなかった……と思う。
他人なんて信用するだけ損だ。気を許すと痛い目を見るのはこちらの方だ。
作り笑顔に本心を隠して、上手く利用してやればいい。心の内を明かすのは、馬鹿のやる事だ。
……なんて考えている時点で、もう既に相当絆されているのだろう。実際、心を許した訳ではないが、素でいられる時間は、決して少なくはなかった。
脚の辺りに感触があり、見ると山猫――テトが顔をこちらに向けていた。その顔からは何を求めているのか、読み取る事は出来ない。ニュートラルな表情。『腹が減った』『褒めて欲しい』と訴え掛けてくるのではなく、受け手に解釈を委ねる、それでいてある種超然とした……『会話の成立しない』相手。
「……だからあんたとなら上手くいける、って思ったのかしら」
カルミアが独り言つも、やはり山猫に表情の変化は窺えない。軽く喉を撫でてあげると、ゴロゴロと喉奥を鳴らし、目を細めるのだった。
「ストックホルム症候群、って知ってる?」
問うも答えが返ってくる訳ではない。彼女自身それは分かっていて、足元の不可思議な花の前で立ち尽くしていた。
足音が近付いてくる。ウキクサたちが追いついたのだろう。
彼も他人には必要以上に心を開いていない節がある。同類ではないにしても、他人との距離感の取り方は、似通った何かを感じさせるものだ。
……その時が来たなら、彼は私を止めるだろうか?
正直分からない。が、きっと行動に及んだ意味は理解してくれるだろう……と、妙な自信はあったりする。
彼にしたって、同類なのだから。
「嗅ぎつけたのか。いや、大したものだと言うべきかのう……」
目を回していたシアが立ち直り、感心したように足元の揺れる薄膜を眺める。
と、急にテトがウキクサたちの方へ取って返す。
そうしてすぐにレイを引き連れてきたかと思ったら、
「えっ、待って――」
「これ、待たんか!!」
瞬く間に薄膜に飛び込み、シアとレイも巻き込まれて、向こう側に消えてしまった。
自然とそれを追って、カルミアの指先は薄膜に触れてしまっていた。抵抗し難い力が働き、彼女自身その中に吸い込まれてゆく。いよいよもう、後戻り出来ないところに来ていた。
どうにか追い縋ろうとするウキクサの顔が目に入り――不思議とその表情で、分かってしまう。自分が今、情けない表情を浮かべているのだ、という事を。
この世界に迷い込んで来た時以上に、自分の事が分からなくなってしまっていた。
異邦人になって、自分の頭の中で凝り固まっていたものが、徐々にだが溶け始めているから、かも知れない。
ウキクサが最後に見せたあの表情は、本当に困る。あんな表情を向けられると、別に悪くないのにこちらの負債になったような感覚がする。文句のひとつでも言ってやりたいが――
そうする前にとぷりと彼女は膜の内側に沈み込んでしまい、燦爛たる光の中で意識を手放してしまうのだった。
――――――
最初の黒花の場所まで、ウキクサたちが案内人と共に戻ると、別組の者が黒花を起動させようとしているところだった。こちらの一隊が到着すると、「あれ、姉さん」と幼い顔立ちの女性がこちらの案内人に声を掛ける。二人は幾分面立ちが似ており、「ごめん、こっちも一緒にお願いしていい?」などと言葉を交わしていた。どうやら案内人は姉妹であるらしい。
彼女達は向こうの二人組に声を掛け、ご一緒する形でも大丈夫でしょうかと交渉を行っている。対してこちらには申し訳なさそうに、しかし毅然とした態度で、追加料金を要求してきた。
一度に払う代金は黒花ひとつ分の情報量であり、その一回分は、カルミアの手によって消えてしまっていた。正確にはテトが勝手に見つけたものだから違うのかも知れないが、イレギュラーな行動の結果、本来案内された方で別の組と鉢合わせてしまったのは事実だった。
一つの黒花を使用した時に流れ着く地は同一だ。つまり知らない同士で渡った結果、辺境に出たのをいいことに、追い剥ぎ紛いの行為に及ぶ輩も存在する。それを避ける為、案内人の仕事に就いている者は、極力客を団体や知人同士で纏めるのが常なのだとの事だった。
ゴネれば何とかなるかも知れないが、そんな事でこれ以上当地の案内人に悪印象を与えたくはなかった。それに別組が現れなければ山猫たちの件は大目に見てくれていたかも知れない。三割程度で済むのなら、追加料金は気持ち良く払うものだ。
幸い二人組が同道に難色を示す事はなかった。女性の背の高い方と低い方と、立ったままこちらの準備が整うのを待っている。二人とも褐色の肌で、どこにでもいるような面立ちだ。また両者薄手のローブを羽織り、同じようなペンダントをつけていた。
「……?」
見れば背の高い方がウキクサに軽くウィンクをしてみせており、二人はこちらにやってくると、
「袖振り合うも多生の縁と言います。折角なので、向こう側でも暫くご一緒させて頂ければと思いますが――お互い助け合えるかと思いますし」
「そうだな。あの馬鹿をさっさと見つけにゃならんしな」
背の低い方の口調にハッとして見ると、二人は案内人たちを背にニヤリと笑い、一瞬胸のペンダントに触れてみせる。するとその顔貌が、一瞬だけ見覚えのあるものに変わった。
「……これはこれは」
他の面々も平静を装い、わざとらしく、「よろしく」だの「女性の二人旅は大変そうですね」だの言っている。
「こう見えても、武術の心得があるもので」
背の高い方がそう言うと、低い方が軽く笑い声を上げる。
二人組――アルゴとカミールは、変装し、重ねて魔導具のペンダントの効果だろう、姿や声も変わっていた。同じ系統の力を持つレイが居たなら、或いはもう少し早く看破出来ただろうか。
ウキクサは気を取り直すと、
「第五界層には行ったことがないので、正直不安です」
「そうねえ」
オネエ言葉のまま、アルゴは続ける。
「まずはどの領地に出るか、ってところかしらねえ」
「領地? 王とか豪族とかのアレか? こっちにもそういう概念があるのか」
「ああいや、ちょっと違います」
ウキクサが要領を得ないでいると、「四つの領域を、四人の管理者が運営しているのさ」
ダナンは言うと、「後は向こうで色々と聞いてくれ。時間切れみたいだ」
見れば二人の案内人が、早く黒花の方に来るよう手招きをしていた。すぐにカミールが結節点を開き、「じゃあ、お先」と片手を上げて揺らめく膜の向こうに消えてゆく。次いでアルゴが、更にダイフクが飛び込んでいく。
ウキクサが最後に薄膜の前に立つと、「ああ、そうじゃ」とシドが彼を呼び止める。何かと思っている内に、シドは親指の爪ほどしかない、小さな袋を彼に手渡した。
「これは?」
「玉じゃ」
袋を開けると、蛍光の淡い緑に幾筋か白が流れる、美しい勾玉が入っていた。
「翡翠か。本当にいいのか?」
「ああ。実は大昔の貰い物で、何かしら魔術的な力も込められているらしいんじゃが、儂のような門外漢が持っておってもな。息子らも良く分からんようじゃし」
「子どもの頃はそれを投げて遊んだりして、怒られたもんだなあ」
ハッハッとダナンが笑う。それに対してシドは懐かしそうに目を細め、孫娘は何とも言えぬ視線を向けていた。
「深層の者なら何かしら分かるかも知れんし、或いはお主のお仲間もそっちの出身じゃろうから、向こうで会えたら訊いてみると良い」
そう言って、「達者でな」と改めてこちらの手を握ってくれた。
「また会いましょう」
そう言うと、今度こそウキクサは踵を返して、揺らめく結節点の向こうに消えていったのだった。




