5.人魚
変なのが段々出てきます。
小屋から伸びる、長い影。
木立と繋がったその中程だった。
小さな、丸い穴が現れていた。いや――あれは本当に、穴と呼ぶべきなのだろうか。
パッと見立体的な深さはなく、黒いシミに近い。ベタ塗りの漆黒は影の色より深く、それが異物感を際立たせていた。
未知の事象を前に、思わず棒立ちになってしまう。穴から決して目を離さず、どう対処すべきか頭を働かせようとするも、焦燥ばかりが募り一向に考えが纏まらない。瞬間――
ぬっ
虚ろな眼差しが、そこから顔を出す。
落ち窪んだ眼窩は光を宿しているようには思われない。
歯は鮫や魚に良く似たギザギザ。
毛髪らしきものが、ぺたりと顔の横に貼り付いていた。
(――――人魚)
真っ先に頭に浮かんだのは、その名称だ。
西洋一般に伝えられるそれとは異なる、極東の島国で作られてきた、アレだ。小さな箱に収められた、ミイラ化している、アレ。その姿に良く似ていた。
仮称人魚は何を見るでもなく、首から上をただ出しているだけだ。影の中でも分かる、てらてらとしたぬめりのようなものが窺えた。硬直した姿勢のまま気配を殺していると、やがてそれは穴の中に引っ込んでしまった。
(……何だったんだ、あれは)
そう思っている間に、シミも消えてしまっている。額に脂汗が、じとりと滲んだ。
(魚……それとも蜥蜴の仲間か? 大人しければいいが――)
ここの地面は決して柔らかい訳ではない。瞬時に穴を掘る事は不可能だろう。となると、やはり自分が持ち合わせている常識の埒外に分類されるものと見て、まず間違いない――
そこで、きゅうっ、と腹が鳴る。
緊張感の欠片もない音に、我ながら呆れてしまう。確かにかなり空腹ではあったし、日もじきに沈んでしまいそうだった。先にさっさと晩飯を調達することにしよう……と、また黒いシミが影の中に浮かんでくる。
…………食えるか?
黒いシルエットを頭に浮かべてみる。率直に言って、とても食欲をそそられる形状ではない。
しかし食料という観点から考えた場合、貴重なタンパク源になり得るのではないか。それに何となく、アレがまたこのシミから浮かんでくるのではないかという、そんな予感があった。
チャンスは、すぐそこにある。
正面にいると逃げられる気がして、先程現れたときにアレが向いていた正面の、斜め後方に陣取る。
シミが濃くなり、再びベタ塗りの漆黒が現れた。
ぬっ、と人魚が頭を突き出す。
――瞬間、挟むように人魚の首筋を掴み、日向の方に抛り投げた。地面に落ちたそれは、先程見た頭部に、鰻のようなぬらぬらした胴体がついていた。尾は完全に魚のそれだ。ありがたいことに、腕はついていなかった。ウツボとか、その類の生き物だろうか。
と、みるみるそれが干からびていく。
昏い眼窩は更に落ち窪み、圧縮されてゆく。吸血鬼よろしく灰になる訳ではないにしろ、その得体の知れなさは十分閉口に足るものだ。
完全に乾ききった頃を見計らい、それをつまみ上げてみる。……うん、やはりただの干物だ。グロテスクではあるものの、食べられないことはないんじゃないか、と思わないでもない。炙って直に齧り付くのが、手間的には一番面倒ではないが……
想像しながら火の支度をする。空には昨晩より僅かに膨らんだ上弦の月がかかっていた。
あれからもう、一日か。
長かったのか短かったのか、何とも判断がつかない。濃厚であったことだけは確かだ――大半森を駆け巡っていただけだが。
子どもが一日一日を長く感じるのは、まだ経験していないことが沢山あり、新しい情報をどんどん吸収するからだという。大人になって一日が短く感じられるのは、日々ルーティーンに塗れているのに加え、経験のない局面に出来することが少なくなっているからだろう。
そういう意味ではこの二日で自分の経験した諸々の事柄は、鮮度で言えば子どもの頃のそれに近い。新しいおもちゃを与えられて、来たことのない場所に来て、馬鹿みたいに遊んで疲れ果てて眠る――――
揺らめく炎を眺めながらぼんやりそんな事を考えたりするが、だからどうしたと言われればそれまでだし、それよりも目の前の晩飯の方が余程大事だろう。
炙られた人魚から、鼻を擽る香ばしい匂いが漂ってくる。見れば程良い頃合いで、表面にはいかにも美味そうな焼き目が、また大小に膨れて破れた気泡から黄色く脂らしきものが垂れていた。
火から取り出し息を吹き、十分冷まされたのを確かめてから、ひと息に齧り付く。
美味い。
人魚のニクは身がふっくらとしており、噛む度甘い脂が溢れ出した。嚥下してからもしつこくない旨味が口の中に滞留し、それがまた味覚を満足させるのだった。淡白過ぎず、くど過ぎず。肝の部分が少々苦いくらいで、鰻のそれもかくやと言って差し支えないかもしれない。だが――――
例の神話のことが思い出される。冥界の食べ物を口にした女神の話だ。
ここが彼岸なのか此岸なのか、自分にはまだ知る術がない……が、あの『人魚』を口にしたことで自分は今、ようやくここの住人になった――そんな気がしてならなかった。
夜空の光が陰り始める。
二つの月に薄い雲が掛かり始めていた。
空の一辺は重苦しく垂れ込め、次第にその灰色が全体を覆ってゆく。
雨の匂いが、近付いていた。
暗闇の中、ランタンの淡い光がふわりと灯る。決して室内全てを照らせるような強さではないが、包むような優しい光は心を落ち着かせてくれる。ガラス模様は火の揺らめきで不規則に明滅し、今にも動き出しそうな気配がする。結局燐寸を使ってしまって残りの本数が気掛かりではあったが――最悪、小屋にはこれだけの金属があるのだ。何かしら着火具代わりには使えるだろう。
小屋の入り口から雨が吹き込む。来た当初目にした埃の積もり方から結界みたいな効果を多少期待もしたのだが、残念ながらその加護は既に失われているらしかった。
私は室の奥で一人、ランタンを前に両膝を抱えていた。ただじっと、雨が過ぎ去るのを待って。空が雲に覆われ、月の光が遮られる。それだけでここまで心許なくなってしまう。日常どれだけ視覚に頼っているか、ということだろう。
闇に塗り潰された世界において、新たに支配者となったのは、音だった。雨が建物を打ち、地に落ちる音。雷霆の轟き。雲の向こうから滲む僅かな光が、墨絵のように夜空に微かな濃淡を描いていた。
アニミズムの萌芽、神話誕生の前夜――そんな時間・空間に身を置いているような錯覚を覚える。古代や前史時代の人々が目にし、耳にしてきたものと、同じものを前にしているかのような。
私は腕を枕にして、広い土間に寝転がった。雨の音が近かった。稲光で時折浮かび上がる闇夜は妙な現実感を伴っていて、得体の知れぬ何かが滲み出て来そうな気配がした。
ぶるりと寒気に襲われる。身体が冷え始めていた。昼間の内に藁や萱でも探しておけば良かったと、部屋の隅で丸くなる。そうしているよりほかないからだ。昨晩外で寝ていたのもあり、日中の春めいた暖かさにどこかタカを括っていたのかもしれない。だが冷静に考えれば昨日が例外で、春の初めなんてまだ夜は寒いのが普通だろう。
次第に頭がぼんやりしてくる。額に手をやると、気のせいかもしれないが、熱感がする。身を起こすとふらっ、と前に手をついてしまった。
(風邪か、風土病の類か? それとも――)
ランタンを翳して、何か良いものはなかったか、改めて辺りを見回した。何か、身体を温められるものが欲しかった。
燐寸や鉄製品があったのだ。そこそこ役立ちそうなものがあっても、おかしくはない。ないが――既に小屋の中はあらかた検めていた。暖房設備も、防寒具になりそうなものもない。仮にちょっとした煮炊きに使えそうなもの、例えば薪ストーブの類があったとして、長く放置されたそれが普通に使えるかと訊かれれば、甚だ怪しいと言う外ないだろう。
逆に言えば、その程度の用途でしか使っていないような場所に、防寒具やあれやこれやなんてあるだろうか? ある筈がない。であるからには今フラフラと何かないか探している自分の行動は、無為なものなのかもしれない――そもそも、屋内で不完全燃焼を起こす可能性だってある。
だが熱に浮かされ、芯から冷えていく寒さに襲われてみると、身体が勝手に動き出していた。本能的に、動いていた方が安心するのかもしれなかった。或いは、自分は最善を尽くしている、と自分に対して言いたいだけなのかもしれない。
悪心がする。腹の痛みは、今のところ軽微だ。しかし額には玉のような汗が浮かび始めていた。
(――食中毒か)
その場にしゃがみ込んでしまう。膝を抱えて横になると、身体の中で内臓が掻き回されているような心地がした。
視界の片隅に水筒が映る。例の木製水筒だ。壁際に置かれたそれは、手を伸ばしても届く距離にはない。
うっ、と何かが込み上げてきた。正直この場で吐いてしまいたかったが、折角手にした住処をいきなり汚したくもなかった。だが桶やタライを取るのに立ち上がると、その瞬間戻してしまいそうだ。……それなら外まで這いずった方が、余程楽か――
土砂降りの中に首から先を突き出すと、朦朧とし始めていた意識が、雨粒と土砂の跳ね返りで強制的に叩き起こされる。そのまま雨音に紛れて出すものを出してしまおうとするも、そちらは一向に出てきてくれない。吐き気ばかりが込み上げてくる。
あー情けない、情けない。
少し治まったところで例の水筒を引っ掴むと、飲み口を自分の口元に押し当て、少しずつ含んでは飲み込んだ。
そのまま身体を横に丸めて、ひたすら時が過ぎるのを待つ。風雨は一向に弱まる気配を見せない。
このまま死んだらお笑い種だな、とそんなことを考えるも、今更ああすれば良かった、こうすれば良かったと言うつもりはない。言ったところで過去が変えられる訳ではないし、今のこの状況にしたって、自分がその時点でどうにかしようと思ったものの結果だろう。緑の目をした男の言葉が思い出される。
『分からない人間ってのは、もっとどうしようもなく動けないものだ』
本当にそうであるなら、自分も見どころが全くない訳でもないのだろうが……
痰が絡んだ喘鳴を漏らす傍ら、そんな思考が頭の片隅に浮かんでは霧散する。なまじ意識がある分、ただひたすらにきつかった。どうせなら酔い潰れたときのようにさっさと意識を奪って欲しい。
それでも一度水を口にした為か、ようやく土砂降りの中に吐瀉物を撒き散らすことに成功する。それだけで大分楽になり、自然と瞼も落ちてくる。視界の隅でランタンの火が揺らめき、消える。風に吹かれたのかもしれなかった。煙の立ち上る気配を感じながら、ゆっくりと意識が落ちてゆく。閉じた瞼の向こう側に、何か明滅するものを感じた――そんな気がしたのだった。
――――――
懐かしい顔がそこにはあった。
中学時代の悪友と、高校時代の友人。その二人が同じ卓に着いて、何か食べている。
下らない話でもしているのだろう。こちらに向けて二人は何かしら訊いてくるが、何と返したかは自分でも分からない。多分テキトーな返事だろう。ひょっとしたらテキトーな表情を浮かべただけかもしれない。
それでも二人はさして気にするでもなく、また益体も無い話に戻っていく。
反対を向けば大学の同期――男女数人が立っていた。皆着飾っている。誰かの結婚式なのだろう……誰かは分からないが。私は晴れ着を用意しておらず、急いで買って来なければと走り出す。いや……或いは招待自体されていなくて、その場から逃げ出しているのかもしれない。
気付けば雨が降っていた。夢の中で雨が降るのは珍しかった。
……そう、これは夢だ。
中学の悪友が高校の友人と会話するなどあり得ない。前者は中学の卒業を待たず鬼籍に入ってしまっている。後者も連絡を取らなくなって久しい。大学の同期とも、次第に付き合うのは気が引けて、とんと合わなくなった。
雨が身体を濡らしていく。冷たく降り落ちる雨粒は、身体の芯から熱を奪っていった。
夢というのは、寝ている間にとっ散らかった頭の中の引き出しを整理してくれているのだと聞いたことがある。
今出てきた連中は、どんな引き出しに付随して現れたのだろう。後悔、煩悶、虚栄――そんな言葉が頭の中のどこかで生まれては、弾けていく。
残されたのは苦さばかりで、雨はいつしか、人肌のような温度に変わっている――――
生温い空気に頬を撫でられ僅かに瞼を持ち上げると、戸口を窓にして、雨に濡れ輝く木立ちが見えた。変な体勢で丸まっていたからか、腕や背中が軋んだ。
捨て去った筈の関係が夢の中に現れたのは、自分の何かを慰める為だろうか。苦さが慰めになるものだろうか。それとも人恋しさの現れなのだろうか。
……いや、違うか。
夢に出てきたのは、それなりに付き合いのあった連中ばかりだった。と言って決して相手の一から十まで知っている訳でもない。中には会いたくない奴だっていた。
心の中にズケズケと、無遠慮な横柄さで入ってくる男。スルッとこちらの懐に入ってくる女。こちらにとって快いことばかり言う訳ではない連中。
……自分は、決して人付き合いが上手い方ではない。相手の内に踏み込むことが、苦手だった。嫌い、と言った方が正しいかもしれない。プライドが高いから他人の心に踏み込むのが怖い。踏み込まなければ得るものは少ないかもしれないが、失うものもそれだけ少ない――と、まあそういう事なのかもしれない。
あんな夢を見たということは、本心ではやり直したいのかもしれなかった。
他者との繋がり方、そのものを。
「……懸隔甚だしい」
しかしもはや、そんな関係性が成り立たないところに来てしまっていた。他者という存在自体が望めない、そんな場所に。
雨上がりの空は青く澄み渡り、地は一層色鮮やかに、瑞々しい生命力を放っている。
思わず嘆息を漏らし、被りをひとつ振る。乾いた暖かい寝床にありつくまでは、もう暫く時間を要しそうだった。




