45.海坊主
カミールとアルゴの仕事が済み、一行は階上に集まっていた。卓の上には水盆に浸けられたあの『腹巻き』が、錬金術師の仕事を経て飴色に変じていた。
満足気な笑みを浮かべるアルゴとは対照的に、カミールはあからさまに面倒臭そうな表情で、前掛けなど着けている。手にはゴム手袋に外科手術用のメスと鉗子、ポケットからは糸や細い鋸が覗いている。
傍らに置かれた自筆の計算式を一瞥すると、カミールは「じゃあ、始めるよ」と気のない声で一同に告げる。メスで腹巻きを切り開き、鉗子でそれを開いたまま固定する。別の場所で同様の作業をした後、懐から糸を取り出す。針に付けたりなどせず、そのまま直に開いた腹巻の内側に押し込むと、そこで癒着し発光し始めた。糸巻きが回転してどんどん糸が吸い込まれていき、発光も更に強まっていく。回転が収まる頃には発光は巻き糸全体に及んでいた。カミールはその糸巻きごと、もう一箇所切り開いた場所に埋め込むと、両者が引き合いするすると中身が露出し、繋がり、橋のようになる。再度式を確認し、同じような操作を別の場所で繰り返していく。
円筒型の腹巻きに三本の橋が架かったところで、カミールは今度は鋸を取り出した。つまり、橋を切り落とすのだろう。何より驚いたのは、その音だった。あのひらひらと柔らかかったのが、水の中でゴリゴリと、いかにも固そうな音を削りカスとともに零していく。それと共に切られた端から青い水溶性の何かが滲み出し、水盆の内は化学染料で着色したかのような鮮やかな色に染まった。
「頃合いかな」
盆の中で橋だった三つの棒を軽く揺すると、カミールは黄色い液に満たされたビーカーにそれを投じた。すると瞬く間に色が変じ、無色透明になったと思ったら、棒が弾けて中から小さな赤い実が次から次へ、表面に浮かび上がってくる。それを掬い、擦り潰し、小さく紙に包む。
「粉薬か?」
「そうさ」
ゴム手袋を取りながらカミールが返す。そうして白髪の男に、「早よ飲め」と手渡すのだった。
「全く貴方という人は言葉遣いが……」とアルゴが嘆けば、メルキュールは大笑いしながら「ありがたい、ありがたい」と手で膝を打っている。そして迷う事なく、調合されたばかりの粉薬を口の中に流し込んだ。
「愉快な連中じゃ」
呆れ半分にシアは言うが、ウキクサとしても全く同感だった。見ていて気持ちのいい連中というのは、こういうのを言うのだろう。
「理論上は、これでそこの白髪の病は寛解する筈だ。効き始めるまで数日は掛かるかも知れんがな。後は知らん。副作用とか出ても恨むなよ」
とそんな事を言ってはいるが、本当に何かあったら、また溜息をつきながら手を貸すのだろう。不思議とそんな確信があった。
「さて、これで二人の手が空いたので元いた場所へお戻り頂く事も出来る訳ですが、その前にお約束のものをお見せしましょうか」
再び浜辺まで下りると、そこには明らかな変化が見られた。エメラルドグリーンだった筈の海が、群青色に変じていたのだ。アルゴによれば、メルキュールが先刻流した汚れたマナが原因らしい。
「あれで『海坊主』が湧いてくるのです。海が元の色を取り戻せば、それで出切ったという合図になります」
「ホラ、来たぞ」
パーカーがくいっと顎で沖合の方を示すと、水面の上を何か黒い物体が漂っている。
「んー……今日は少し遠いですねえ」
そう言った側から、ぱちゃ、と二、三十メートル先に丸っこい影が現れる。
「ねえねえ、ひょっとしてあれって……?」
興奮気味のカルミアにメルキュールは首肯する。例の『海坊主』だ。水面から出ている姿はブイのように見える。色はやはり真っ黒。『人魚』や『鎌鼬』と同類であるならば、やはり日の光を浴びれば干物になってしまうのだろうか。
「ここの太陽光は、空間の性質から擬似的に取り込んでいるものでして」
つまり干からびる事はないらしい。まあ、だからこそ炙って食べたりなどしているのだろうが。
「……しかし既に三種類目か。やはり何かが起きているのかもしれぬのう」
「何か?」
ウキクサがシアに問えば、
「うむ。この世界の変調……とまでは言わんが、それでも異常は異常じゃ。正式な種族分類がなされているかまでは分からぬが、まあ、『魔獣』とでも呼んでひと括りにしておくかのう」
と、背後から影が差してきて、
「試しに釣ってみますか?」
見ればいつの間にかアルゴが釣竿を二本携えていた。カルミアが、「じゃあ私!」と飛びつき、残りの一本は熟練のメルキュールが受け取る。針の先には餌ではなく、何故か紙で折った舟が取り付けられている。ワケを問おうとした所、「まあ、見ていれば分かりますよ」と、これはアルゴの言だ。そして実際丸っこい影は浮きつ沈みつ、徐々に舟形の方に近付いてゆく。
先に掛かったのは、カルミアの方だった。思いのほか力が強かったのか、一瞬海中に引き込まれそうになる。それでも踏ん張り、腰を入れると一気に竿を引き、ソレが一瞬水面から全身を露わにする。
「危ねえ釣り方してんなあ……」
思わずワムジールがそんな言葉を漏らすが、釣り人の耳には入っていないのだろう、彼女は快哉を挙げながら陸側に向かって走り始めた。引き摺り上げるつもりなのだろう。
やがて現れた魔獣は全身黒、頭の大きなてるてる坊主とでも呼ぶべき形をしていた。ちょっとしたマスコットでいそうなシルエットだ。ビチビチ暴れ回り、魚みたいだが、それを見てカルミアは開口一番、
「かわいい! けどおいしくいただくわね」
となかなか肝の据わった発言をしている。
「波打ち際まで来ると身を隠されるから、気を付けて下さいね」
例によって他の魔獣でも見られたような黒いシミの事だろう。使える範囲が限定されているのだ。カルミアの獲物をアルゴは掴むと、恐らく専用なのだろう、大振りの魚籠に入れる。
「しかしお上手ですね。確かにアレは一本釣りの要領であのように揚げないと、身を隠す時に釣り糸ごと切断されてしまうのです」
「何か、ヤバそうな気配があったのよねえ。これはすぐに陸に揚げちゃわないと、って」
とは言え彼女のやり方では六十点程度なのだろう。何度か水面にバウンドしていたから、いつ逃げられてもおかしくなかった。それ以上の高得点を出そうと思うなら――
「よっ」
メルキュールの釣竿が翻ったと思ったら、中空を『海坊主』が舞っていた。そのまま一度も海面に触れる事なく、直接魚籠の中に飛び込む。カツオの一本釣りみたいだ。
「見事なもんじゃな」
シドがそう笑えば、メルキュールも大仰にお辞儀をしてみせる。満更でもないらしい。
「これって生で食べられると思うかい?」
「いや、ちょっと難しいのでは……」
ダナンとレイが魚籠の中を覗き込みながら言う。流石にこれをカルパッチョに、とはならないようだった。蛸や烏賊も、地域によってはそういう一種のゲテモノ扱いらしいが。
「ああ、でも妖獣組は全然イケそうだぞ」
ワムジールの言う通り、テトは数メートル先から、まだかまだかと魚籠の方をじっと見つめている。ダイフクもその背に乗り、既に臨戦態勢だった。
「もう一、二匹は獲れるだろうから、一匹くらい彼らにあげればいい」
そうカミールが口にするが、これについてはダイフクたち自身が固辞した。『海坊主』を差し出されても、微動だにしなかったのだ。
「ひょっとしてアレか、自分たちで獲ってないから、ってか。見上げたもんだ。なら、いっぱい獲れた時はこっちも食べ切れないから貰ってくれよな」
言ってカミールは魚籠に獲物を戻すと、ちらとメルキュールを見る。それを受けて、「了解した」と白髪の男は素早く黒い斑点の浮かぶ辺りへ舟形を投げ込み、見事に一発で釣り上げてみせる。アルゴはそんな二人を見て、満足気な表情を浮かべている。
「あっ、私もまた掛かった!」
今度はカルミアが声を上げ、しかし獲物をなかなか引き上げられず、波打ち際で黒いシミの中に逃げられそうになる。そこを山猫がキャッチして引き摺り出し、ダイフクが押さえつけながら魚籠の中に放り込んだ。
「…….本当に、大したもんだ」
吟遊詩人が関心を通り越して、半ば呆れたような声を上げた。ダナン父娘も同じ感想なのだろう、何とも言えぬ視線を交わしていた。
気付けば魚籠の中は満杯になり、七つの『海坊主』を数え上げる結果となった。また、それで凝った魔獣の全てを釣り上げたようで、海は再びエメラルドグリーンの輝きを取り戻していた。波間にぷかぷかと『海坊主』が漂っている光景は、それはそれで牧歌的で良かったのだが、大喜びのカルミアたちの前でそれを言うのも野暮というものだろう。
「なかなか強烈な光景ですね……」
顔を若干引き攣らせながらユーリが見ているのは、ダイフクとテトの妖獣組だ。大漁の褒美で彼らにはそれぞれ一匹ずつが与えられた訳だが、その食べ方がなかなかえげつない。ダイフクは頭の部分を咥えたまま、徐々に取り込む形。テトもやはり頭からだったが、こちらは豪快に噛みちぎっていた。
「あれを見た後だと、生食用に捌くのはちょっと勇気がいりますね……」
「同感だ。……結局、どうする事にしたんだ?」
ウキクサがレイに問う。是非調理してみたいと、レイは浜辺の者たちに直訴していたのだ。彼らも断る理由はなかったし、寧ろ料理人がどんなやり方を取るか興味津々だった。
「料理というよりは、おつまみのようになってしまうのですが……」
取り出したのは二枚の鉄板だった。『海坊主』を包丁で軽く開いてから小麦粉か何かを溶かした液に漬け、熱々の鉄板の上に置き、続いてもう一枚でそれを上から挟む。最後にアルゴから借りたという錘石――魔法で指から離すと途端に重量が重くなるようになっている――を乗せれば、あっという間に『海坊主』はペシャンコに潰れてしまった。暫くしてから鉄板を開ければ、食欲を誘う香ばしい匂いがふわりと立ち上る。
「これは……」
「煎餅、ですね」
早速焼き立てを割って食べると、旨味の凝縮された海鮮風味が口一杯に広がる。王道の、間違いのない味というやつだ。
「炙るより全然イケるな」
カミールも早速パクつき、「ほれ、食おうぜ」と他の面子に勧める。皆発する言葉こそ少ないが、バリバリ食べ進める様を見る限り好評のようだ。抵抗がありそうだったシドも、関心したような顔で食べている。
結局妖獣組が生で食したもの以外は、全て煎餅に焼き上げられ、かつ平らげてしまった。軽い口当たりの為、「もっと食べられる」と言う者も多かった。
「これはいい調理法を教えて頂けました。早速明日から他のものでも試せないか、試してみようと思います」
「腹持ちしなくなるのであまり色々とやり過ぎるのはお勧めしませんが……海老や蛸の部類なんかは結構美味しいですよ」
そういった会話や感想があちらこちらで繰り広げられている間に、ふと見ればメルキュールは不思議そうな顔で水平線の向こうに目をやっている。
「どうかしたのかえ」
シアが訊けば、「ええっとですねえ」と顎に手をやりながら、
「何となく薬が効き始めたみたいで、私もどうやら外に出られそうな気がするんですね」
「喜ばしい事じゃと思うが。何故そんな表情をする?」
「いやあ、それがですねーー」
言っている内に、沖の方に鱶のような黒い影が浮かんでくる。
「今まで体内で滞っていたマナの流れが改善されて、私の能力も強化されたようでして」
黒い影は少しずつ近付きながら、僅かだが、水面から盛り上がり始める。気付けば皆、海の影に目を凝らしていた。
その中をメルキュールの声だけが、能天気な調子で浜辺に響く。
「少しだけ、自分も対象にした未来視が出来るようになりまして」
「おい、そんな事よりあれはなんじゃ」
「ああ、『海坊主』ですね」
「『海坊主』? まだおったのか?」
直後、ぞぶりとその偉容が露わになる。
「……おいおいおい」
遠目でも分かるその大きさ。
身の丈は恐らく数メートル、二階建て程もある。海の色もその周囲だけ、群青を通り越して紺に近い。
「……あんなのも出るのか?」
ダナンの驚きにはしかし、浜辺の三人は口を閉ざし、中でもアルゴとカミールは厳しい眼差しを海上に向けている。
「初めて、ですね」
ようやくそう言葉を絞り出すと、アルゴはメルキュールに説明を求める。
白髪の男は「うーん」と変わらず太平楽な表情を空の中程に向けてから、一言、
「――逃げましょう」
そう言って一目散に建物の中へ駆け出す。どうやらのっぴきならない状況らしい。
「持っていくものはありますか!」
彼が相棒たちに問えば、
「ねーよ!」
「命第一!」
言いながら二階のリビングを抜け、他の面々に早くするよう促す。
振り向けばソレは既に砂浜の手前まで到達している。浅葱色の海も明らかに色が深くなっていた。
「……ちょっと、アレ何なのよ!」
階段を下りながらカルミアが怒るも、メルキュールは笑いながら、
「『この余白はそれを書くには狭すぎる』ってやつですかねえ!」
そう言って下り階段の最後の段で立ち止まる。
「メルキュール!?」
「友よ、暫しの別れだ! 諸々は畳んでしまってくれ! 別界層で、また近い内に会おう!」
そう言うと階段に取り付けられた意匠――メビウスの輪を象ったそれを、力任せに折った。
次の瞬間、階段下の中庭と荊の回廊の間に、大きな地割れが起こる。
白髪の男は一人取り残された形だ。
レイが咄嗟に翼を広げ助けようとするも、それはアルゴに止められてしまう。
「どうして!」
「どうしてもです!」
そのまま少年を背負って走り出す。カミールも頭を掻きながら、苛立たしげな溜息を漏らすと、振り返り建物に残った男に向かって悪態をつこうとして、
「……っ!」
既に白い靄の中に姿を消しているのを目にし、思わず絶句する。更に、回廊の方に視線を戻したところで再び目を見開き、
「……ズイ、マズい、マズい、マズい!」
そうして皆に、
「急げーーッ!! 回廊が閉じるぞッ!!」
来る時は斜めに徐々に捩れていた荊のアーチが、平衡を取り戻そうと軋みを上げていた。
一行はわき目も振らず、平坦な一本道と化す荊の回廊を抜ける。
閉じようとしている影響か、所要時間は来る時よりは明らかに短かった。
ようやくアーチを抜けて荒く肩で息をつく一行のその背後で、パキンと枝が折れたような音が響く。
荊の回廊は姿を消していた。
メルキュールへ繋がる道が永劫閉ざされてしまったかのような、そんな錯覚さえ抱いてしまう。
「……ここは暫くは大丈夫だが、その内影響が及んでくるだろう。長居はしない方がいい」
パーカーはそう言ってやおら立ち上がる。アルゴも膝に手を突き、疲れに軋む身体を起き上がらせた。
「……メルキュールさんは」
「ああ、アイツは大丈夫だ」
心配そうな眼差しを向けるユーリに、カミールは面倒臭そうに手を振って答える。
「『別界層で、また近い内に』って言ってやがった。つまり自分は助かる公算がある、って事だ。……まったく、アイツの秘密主義はどうにかならねえのか」
そう言うと再び盛大に溜息をつき、今度こそ大きく、「クソッ!!」と悪態をつくのだった。




