39.統一言語
異暦一四七三年秋の第四十八日、第六異界以遠の界発見さる。
発見者は生物学者ヨゼフ・ガルム。氏は当時辺境調査の任にあつた。乾滴の地で花木の植生調査に当たつていた氏は、ようよう烟り来たる霧に包まれながら草地を逍遥していた所、覚えのない荒野に出た。
これが第七異界であつた。術式から凡そ三年、界が安定し人を受け容れられるまでの状態になった証であつた。
氏は黒花を探し半月程這いずり回つた末、漸くにして目的のそれに出会。乾滴から五里程離れた茂みの中に自らを見出した。
第四の学術機関所属であつた氏は新興都市宝鐸から更に第五に越境、そこから逓信を用い第七異界の観測を報告、更に先遣隊の派遣を要請。宝鐸にて隊と合流し、人足を集め再渡界した。
観測の結果、マナ低減の法則は尚揺るがぬ事が判明、第六層には各界層から種々の者が集まりつつある。宝鐸はさながら夜戦病院の如く、変異を逃るる為集りし人々を迎えては送り出している。
界層術式研究で知られるエッダ博士が語るる事には、「所謂『チチウス・ボオデの法則』と完全に合致する位相間隔であるが、本件の界層構築は『此岸』における同法則のそれ(註: 経験則に基づく法則であるという)と異なり、学術的にもお墨付きを与えるに足るものである。更なる外層の構築乃至『此岸』への到達は、安定性の問題から実現可能性は低いのものの、十分挑むに足る現実性も備えていると思われる」。
宝鐸も元来変異を嫌う者の造りし街であるからして、新界へ渡る者は一定数存在し、旗振り役を担う者もいるとの話である。住民も積極的に新界へ渡る者を援助し、自らの悲願を託す者も多いようだ。
以下はその宝鐸の民の言葉である。
『もはや老い、帰還も叶い難き身となつたが、押し付けにならぬ希望の仮託程度なら許されるだろう』
浄罪日報 一四七三年 秋五十九日付
「……凄い名前の新聞社だな」
藁半紙のようなものに刷られたそれは、かなり色褪せている。使われている字体も三条や千畳ではあまり目にしていない。どこか古めかしく、宝鐸が新興都市と呼ばれていた時代、その空気を閉じ込めているような趣だ。
「主筆がカトリック教徒でな。『こちら側』を辺獄、ないし煉獄――つまり浄罪界のようなものと捉えているのじゃよ」
「天国に入る為に浄化の試練を受けてる、ってこと?」
「そうじゃ。意外に思うかも知れんが、宗教は普通にあるぞい。こちらの在来信仰も当然あるが」
「それは確かに、意外ね」
「言われてみれば、千畳で精霊種や竜種を象った縁起物を見たな」
立夏の祭で目にしたそれを思い出す。住民は別段シアやワムジールを目にしてありがたがる訳ではなかったが、縁起物の方の扱われ方は護符の類に近い。身近な基層信仰といったところか。シドもそれを肯定するように、「『神社の御守り』じゃな」と肩を竦めるのだった。
「俺はどちらかと言えば試練よりは縁起物の方がいいかな。……まあ、正直煉獄やら天国って言われても、ピンと来ないしな」
「『神曲』は読んだかね」
「まあ一通りは……中身は随分忘れてる」
「私も読んだことあるけど、率直に言っていけ好かない話だったわね」
片肘をつき、卓に乗った器から飴を一粒口に放り込む。
「ほう、どういけ好かなかった?」
問われ彼女は口の中でコロコロ転がしながら、
「一方向から見た善悪でしか書かれてないじゃない。堪らないわよね、人間が何か行動を起こすのって、様々な事情や背景がある訳じゃない? 紙幅の関係があったとしても、そこをバッサリ削られちゃうと……正直鼻白んじゃうっていうか。でもそれ以上に……」
言って「バリッ」と飴を噛み砕き、
「『ベアトリーチェ』が受け付けない」
「「ああ……」」
思わずシドと笑ってしまう。「まあ確かに、あの人物造形はちょっとのう」
「あれで天国はいい所、って言われても怖いでしょ。案内人の彼女があれだけ無機質に描かれていると」
「確かに、ウェルギリウスとの地獄・煉獄廻りの方が、普通に読めたな。天国篇は……定常なもの、感情の均された存在になってしまうんじゃないか、って怖かった記憶がある」
「試練って、ただ呪いの好意的解釈に過ぎないんじゃないかって、そんな気さえしてくるわ」
カカッ、とシドが笑う。
「面白い解釈じゃの。まあこちらが煉獄という捉え方も、別にどこぞの司祭やら神父が唱えた訳ではないからな。こちらに流されてきた在野の熱心な信者が言い出したのが広まっているだけじゃ」
紙面にシドの指が落ち、ちらとこちらに視線を向ける。
「ここを読んでくれぬか」
ウキクサは怪訝な眼差しで新聞を受け取り、その小さな記事に目を通す。
「『宝鐸と深層忌避の思想』……?」
先の記事に関連したコラムで、宝鐸の住人一般についての解説がなされていた。
曰く、宝鐸は元は草原で遊牧生活をする者の暮らしていた界層に、変異を忌避する者が流れてきて集住を始め、更に当時大量に渡って来たマレビトが合流して建設された街である。その思想的背景から、建物は新しく流入してきた技術者の力を借り、極力『此岸』に寄せた構造となっている。技術的に難しい部分については術の力を借りているが、精神性においては第五界層や更に深層のそれとは一線を画し、排他的ですらある。深層に住まう存在を畏れ、他界層の者と交流や交易はしても、自身は滅多に渡界する事はない。
とは言え遊牧の民と結ばれる者も多く、混血の者が増えつつある。この世界における新しい潮流であり、彼らのような存在が第六界層を、そして新たに発見された界層を発展させていくだろうが、その技術の大凡は術で代替可能である為、第四以上の界層に技術体系や思想が広がるかは今後の発展の仕方次第だろう――と記事は締め括られていた。
シドは人数分のカップを用意しながら、
「概ね書いてある通りで合っておるな。排他的と書かれるのは心外じゃが」
そう言って各々に紅茶を注いでいく。湯気とともに豊かな香りがふわりと広がった。
「少なくとも当時、儂らは同じマレビトだからと渡界を妨害するような真似はしなかった。他者の生き方をあれこれ言うなど、ただのお節介でしかないからのう。その辺りは、互いに尊重しておった。実際、深層に渡った者もおるからのう」
「え、いるのか」
てっきり皆この辺りに残ったんだと思ったと言ったら、
「戦争の後なんじゃ。自由の意味はお主らに劣らぬ程度には知っておるぞい?」
そう言って笑った。半ばおどけてはいるが、発せられたその言葉には確かな重みがある。
「今は確か三層に定住しておってな。まあ、儂は間違っても行こうとは思わんが。……さっきの『神曲』と同じじゃよ」
「同じ?」
「ここの『深層』と『天国篇』と……それを重ねて見ているんじゃろうな」
「重ねて……」
「変異が『試練』なら、深層でそれを経た儂は……浄化されてすっかり姿が変わり考え方まで変わってしまった儂は、それは本当に儂なんだろうか? ……と思ってしまうのは、可笑しいかのう?」
ウキクサもカルミアも、思わず黙り込んでしまう。
自分の姿形が変わっていく事に何も感じない者はいない。誰にでも訪れる『老い』からさえ、人間はその恐怖に大なり小なり縛られている。不老不死の霊薬を求める話など、洋の東西を問わず数多ある。自己同一性というのは、それ程に強力なものなのだ。
それに比べれば、物事の考え方なんて往々にして変わるものなんだろうが――まあ角を矯められるのを自ら良しと言える者は少ないだろう。無機質な存在になりたい者など、そうはいない。
「……ところで、お主ら」
「うん?」
「何故、この記事が読める?」
レイが一度首を傾げ、程なく言葉の意味を理解し、「確かに」とこちらに向かって訊いてくる。「何故、読めるのですか? いや――そもそも何故、理解出来るのですか?」
ウキクサたちはマレビトだ。本来こちらとは全く異なる言語を操る。渡された記事は未知の言語で記されていた。普通に新聞を読みメニューを理解するというのは、全く異常な事なのだ。そもそも自らが喋っている言葉、それからして彼らの母語ではない。彼ら自身、その理由を説明する事は出来ない。気付いたら理解していた、話していたとしか答えようがないのだ。
「良い良い、儂も『お仲間』じゃ。気付いた時には普通に話し始めておった。儂らは『統一言語』と読んでおるが」
「『統一』って……某バベルの塔以前の失われた言語とでも言いたい訳?」
「少なくとも神学者連中はそのように捉えておるようじゃの」
煉獄で使われる言語が神学的にそれに該当するかは専門家でないので何とも言えないところがあるが、尤もらしいと言えば尤もらしいか。まあそれこそその手のものを奉ずる徒ではないので、別に深く考えようとも思わないが。
「そうそう、統一言語絡みで面白い話があってのう」
「面白い話?」
「うむ、先程の六識にも関係するのじゃが、唯識という考え方があるのじゃ。大いなるマナの流れと唯識と統一言語と、その辺りは関連があるかも知れん。まあ、深層で深く研究されておるのじゃろうが」
シドの話によると、概要はこうだ。
仏教である時期、六識の他に二つの『識』が唱えられた時期があるという。末那識と阿頼耶識と呼ばれるもので、前者は六識の背後で働く潜在意識を、後者は更にその奥にある根本を指すという。教理的な問答については様々あるらしいが、シドの着目しているのはその語源、及び本質的な意味と、この世界との共通点であるという。
まずは語源だが、末那識は梵語に於ける manas を音写しており、自我執着の潜在意識のようなものを指すという。こちらで術を行使する際に用いられる『マナ』とは音が酷似しており、また太平洋諸島で用いられていた神秘的な力の源とされる概念 mana や、ヘブライ語で『これは何だろう』との意味を持つ言葉とも極めて似ているという。
意味合いを見ても、『無意識の自我執着』はこの世界における『元素のようなもの』、太平洋諸島の『神秘的な力』、更にヘブライ語で使われる意味合いとは、一定以上の相似性が見られる。殊に『自我執着』は、シアから聞いたこの世界の成立過程、幻想種の存在や身体の組成率の話を鑑みれば、看過できぬ関係があるようにも思える。
阿頼耶識については、『一切諸法を生じる種子を内蔵している』とのことで、蔵識とも訳されるという。無尽蔵の蔵と言えば、『ユーリ』が垣間見たというマナの流れが思い起こされるし、神秘的な力の源という意味とも一致するだろう。
唯識は西洋の所謂唯心論とは違うらしいが、その辺りについては省かれていた。シド曰く、「説明が面倒じゃ」との事だった。
「どうなんでしょうね。概念が複合的な形でこちらに凝った、という事でしょうか」
皆のカップを下げながら、レイはそう問い掛ける。当然誰も明確な答えなど持ち合わせていない為、沈黙する外ないが、
「……それに近いのかも知れないな。逆に『マナ』が向こうの言葉の語源になっている、というのもあながち間違いとは言えんだろうが……『あちら』と『こちら』の交わりの歴史は古い。向こうへ帰還した者がその音を広めた、というのも十分あり得る説だろう。……まあ、『こちら』の成り立ちを考えれば、レイの言の方が当然説得力はあるが」
そう口を開いたのは、ワムジールだった。「それを裏付けるじゃないが、それに関して吟遊詩人の間に伝わる古い歌があってな」と続けながら、何処からともなく竪琴のようなものを取り出し、「一曲歌っても?」
皆に否やはなく、ターシャも、「まあ、吟遊詩人でいらっしゃるの」と子どものようにはしゃぎながら座につく。レイと『ユーリ』もその後ろに立ちながら、「是非、お願い致します」と興味津々だ。
ここでの吟遊詩人がどのような存在なのか、どのようにして金を得ているのか、ウキクサやカルミアは当然知らない。竪琴の音が響き始めるとともに、場には不思議な空気が漂い、それがやがてワムジールの声と融け合ってゆく。
我ら凝りし同胞は
岸の彼方の想いゆえ
誰か想いし真から
なれば無辜なる民ならず
真名は我らの根にありて
斯くあれかしと認むるに
然れど渡りし者なれば
斯くあれかしと根付き浸む
あな愛しや我らが嬰児
さやけき吐息の温もりよ
然れど児ら皆十色に老いて
親より先に死に果つる
その夜はシドの紹介により宿に泊まった。照明は明るく、赤絨毯まで敷かれており、階段やその他の内装には職人の細かい技が光っている。ちょっとしたホテルといった趣だ。
ロビーでは中年の男が数人たむろしており、服装や言葉の端々から、商人である事が窺えた。別界層の者らしく――だとすれば商会関係者か。
ダナンによればここは、「まだ一定の固定客が見込めるからやっていけてる」との事で、様々な理由で畳んでしまった宿も多いらしい。ダナン自身と『ユーリ』は、シドの所に泊まるという。巻き込んでしまったこちらに配慮をしている形だったが、わざわざこちらから水臭いと言うのも馴れ馴れしく思われ、大人しく気持ちを受け取ることにした。
本質的には家庭の問題に近いのだ。その辺りの線引きはあった方がいいのかもしれない。
「――とは言え、ダナンよ」
別れ際、シアが声を掛ける。振り返ったダナンに妖精は、
「お主も同じような経験があったとは思わなんだぞ」
ダナンの表情が固まる。他の者もすぐにシアが言わんとする意味を悟ってしまう。
「酒下しは一度で懲りた、と言っておったな。その時お主は、『どれ』を引いたんじゃ?」
「それは……」
「『意識』、なのじゃな」
「……」
沈黙が男の答えだった。……それはつまり、肯定を意味しているのだった。




