37.軍艦島の書庫
白昼夢めいた眠りから覚めたシアがまず目にしたのは、壁一面が本で埋め尽くされた光景だった。調度は木材で統一され、赤みがかった色合いが室内に落ち着きを与えている。照明は控えめな電球色で、やはり品が良かった。
「……高いな、天井」
集合住宅を目にした辺りまでは覚えていた。しかしその辺から溜まっていた疲れが出たのか、記憶が曖昧だった。
「ガワは二階層分に見えるんじゃがな。中はどこもこんな具合じゃ」
老爺がティーカップ片手に立っていた。肌の色は褐色。ダナンのそれより幾分暗い色合いだった。
「ダナンの父上か」
「シドで構わんよ。良く来られた、お客人」
「お、目が覚めたか」
手を挙げて向こうの卓で寛ぐウキクサに返事をしつつ、シアは顔を摩り独白気味に、「どのくらい眠っておった」
「良くは分からんが、御一行がいらっしゃってから、ものの十分も経っておらんよ」
言って老爺はカカッと笑った。
そんなものか、と妖精はふわりと宙に浮かび、改めて部屋の中を見回した。三方が書籍や資料らしき紙の束に覆われている様は、書棚や書斎と言うよりは、ちょっとした書庫に近い。大変な読書家であるのか、研究者であるのか――
「この街の住人が持っていたモノじゃよ。持ち主が亡くなったり処分する際に、纏めて引き取っておってな」
シドは棚から古びた一冊を取り出し、埃を払いながら、
「こちらのものもあれば、あちらからのものもある。中にはここの者が著した書物や研究資料もあるがのう。今ではちょっとした私設図書館のようなものじゃ」
言ってくいっ、とカップを傾ける。「如何か」と勧められて、シアも卓へと向かう。
「このテーブルも、凄くいいものよね」
カルミアが卓の上に半分身を乗り出し、両腕を広げる。卓はそれに倍する、或いはそれ以上の長さで、縁は切り出した幹の形そのままに、細かくうねっている。
「この界層は良質の花梨材が豊富でな。壁面に嵌め込んであるのも、全てそれじゃ」
言いながら一同に珈琲を淹れていく。湯気とともに馥郁たる香りが立ち上り、室内に広がった。
「ところで、お袋は?」
「買い出し中じゃ。お前たちが来るからと、えらく張り切っておったぞ」
シドはダナンにそう返してから、孫娘の頭を軽く撫でる。
「難儀しておるようじゃのう」
言われて思わず『ユーリ』は苦笑する。
「じゃが悲観的に考え過ぎる必要はないじゃろう。もっと楽観的になれば良い。控えめな性格は、案外その方が上手くいく」
ジジイの私見じゃがな、と付け加えると、空いていた椅子の一つに腰を下ろした。
「さて早速じゃが、例の『酒下し』の仲介人――明朝、会えるように手配したのでそのつもりでおれよ」
「「えっ」」と一同が絶句する。事前の話だと、仲介人を見つけ、更に交渉するには、それなりの時間が掛かるだろうという事だった。
「何を驚いておる。地元の事は地元の人間の方が詳しいに決まっておろうが。況してや連絡を貰ってから幾らか時間があったんじゃ。本当はもう少し早めたかったくらいじゃが、お主らの到着時間と疲労の度合いが少し読めなんだからな。遅く着いたからと言って、先方もそう簡単に予定は変えられないだろうから、その辺りは許せ」
「流石は宝鐸の古株じゃな」
「その古株でも、街の者全てを知っている訳ではないし、思想信条については言うに及ばず、という事じゃな。それを今回、改めて感じたわい」
シドはあからさまにげっそりした表情を浮かべ、深く嘆息をつく。
「結局の所我らが街は理想宮ではなく、話に聞く九龍と同じ類なのじゃろうよ」
「九龍ってのは、香港の九龍城の事か?」
ウキクサが口を挟むと老爺は「おお」と愉快そうに顔を綻ばせる。
「それの事じゃ。いやはや、『向こう』から来た者がいると聞いて楽しみにしておったのじゃ。そなたがそうか」
「彼女もそうですよ」
親指でカルミアを指すと、「ほう!」と驚きの声を上げてから再びカカッとあの矍鑠とした笑いを上げた。
「そうか、二人じゃったか! 流石にそれは予想せなんだ!」
呵々大笑する老爺を尻目に、「隠しておいた方が良かったか?」と小声でダナンに聞いてみる。
「いや、話している内にすぐバレるだろうし、それで無用に立腹させる必要もないだろう」
「そう言えば街の入り口に『Palais idéal』なんて彫ってあったわね」
「そうじゃそうじゃ、あの扁額は鬼籍に入った古い友人が悪戯半分で彫ったものでな。面白いからと掲げてあるんじゃ。……あんた、欧州の出かい?」
問うとカルミアは肩を竦め、「想像にお任せするわ」
「良かろう良かろう」と、シドは尚愉快そうに笑う。「強いて訊くつもりはない。自身の事を詳らかにせねば生きて行けぬなど、つまらぬ考え方じゃ」
言ってくいっ、とカップの中身を飲み干す。
カルミアの出自については訊いていない。シドの言ではないが、その必要性を覚えなかったからだ。まずもって名前からして適当に拵えている相手が、自分の過去についてそう易々と開示するとも思えないし……それ以上に、出会った当初見せた異様な警戒感、怯え方を思うと、過去に何があったのか追求しようという気にもならなかった。
「差し支えなければお主ら二人とは色々話したい所じゃが――まずは何より、状況の整理と擦り合わせをしておいた方が良かろうな」
卓の上でシドは両肘を立てて手を組むと、ちらと当事者である『ユーリ』に概要の説明を求める。彼女の説明に、時折ダナンや同じ場に居たレイが補足を加え、再度事実関係が述べられる。
その間シドはひと口も言葉を差し挟まず、黙って説明を聞いていた。
彼女が語り終え、そうして両者の間に長い沈黙があった後、「ふむ」と、それだけ発してから、
「大丈夫なのではないか?」
予想外にそんな言葉を発した。
「どういう事だ、オヤジ」
ダナンが身を乗り出す。ウキクサたちも――そして誰よりも『ユーリ』が、困惑の表情を浮かべる。シドの『大丈夫』がどういう意味合いなのか、図りかねるところがあった。
「ああ、別に無責任に言っている訳ではないぞ。確信があるかと言われるとそこまでではないが。そうじゃな……お主ら、酒下しを買う時、売り手がどんな謳い文句を言っておった?」
「謳い文句? どうだったかな……」
「普通に、『兄ちゃんたち、酒下しでもどうだい』という感じでしたね」
レイが答えると、「効果については何と言っておった?」と尚も問いを続けてくる。
「六識の何れかが阻害されるとか何とか……」
「そこじゃよ」
言って向こうの作業机から一枚の紙片を取り出す。そこには露店で売られる際の説明用に、『酒下し』の効能・効果と売り文句の例文が記載されている。
「仲介人以下のレベルで直接の売り手に配布されるものじゃ。別に変な事は書いてないからのう。特段問題になった事もない。……その中に、こんな一文がある。
『副次的効果として、六識の何れかを阻害する』
『六識』じゃ。巷間でもその言葉が使われておるのであれば、儂も恐らくそれが当たりなのじゃろうと思う」
言って老爺は空のティーカップを卓の上に置き、「ところで、コーヒーのおかわりはいらんかね」
問うとシアとカルミアが二杯目を所望する。他の面々はやんわり断り――テトとダイフクは、冷めた珈琲を上手に啜っていた。不思議な絵面だ。
「仏教における感覚器官と知覚対象、そして認識を指す専門用語に、『根』『境』『識』というものがある。この珈琲を例に挙げれば、感覚器官である舌が『舌根』、知覚対象である味が『味境』、『舌根』が『味境』を知覚する事で生じているのが、『舌識』という認識になる……ここまでは良いか?」
一同が頷く。
「これがそれぞれ眼・耳・鼻・触覚、そして意識についてもある。これら六種についての認識を、六識と言う」
「つまり阻害されているのは、そういう意味での『認識の部分』だって言いたいのか?」
「そう焦るでない」老爺は笑うと自らのカップにも珈琲を注いでいく。
「感覚器官で知覚出来るが認識は出来ないのか、知覚そのものが出来ないのか、或いは感覚器官の働きが阻害されているのか――本当の所何れかは分からん。じゃがわざわざ『六識の』と書かれている事を考えれば、恐らく認識の部分だけなんじゃないかとは推測出来るじゃろう」
「でもそれって結局宗教的な表現なんじゃないか。科学的かと言われるとどうも怪しいだろう」
ウキクサが言うと、シドは大笑いし始める。
「宗教即ち科学ではないというのは、拙速というものじゃよ。なかなかどうして馬鹿に出来んさ。大体――」
言って両手を広げて、
「この世界からして、訳が分からん成り立ちじゃろう。魔術などという奇天烈な概念が存在し、罷り通っておる。まあ……それも科学的手法で研究されておるがな」
そう言って老爺はカップを傾け、孫娘の方に向き直る。
「お主が真実この世界に通底する力から浮かび上がって来た存在か、それについてはまだ何とも言えぬ。しかし、『識』としての『意識』が阻害された結果現れたのであれば、様々な可能性はあるじゃろう。本来のユーリが深く沈み込んでいて、彼女が消えてしまうのではと憂慮しておるようじゃが、ただのアクセスしてきた力がそんな明瞭な意識を持つというのは、儂は考えにくい」
「何故ですか?」
孫娘は真摯な眼差しを老爺に向ける。
「本来意識が阻害されるのであれば、身体が動かせる訳がなかろう。思考そのものが封じられるのじゃから。感覚器官と知覚対象があるが認識は出来ない、ユーリじゃがユーリならざる者、そんな者がおるとしたらただ一つ――」
右手の人差し指と左手の人差し指をシドは重ねて、
「つまりお主も、ユーリなのじゃ」
一座に沈黙が下りる。というより皆頭の上に疑問符が浮かんでいる。シドの言っている意味が今ひとつ理解出来なかった。
「シド殿の仰る事はまだ十全には理解出来ておらぬが……儂も少し似たような経験をしておると思う」
沈黙を破るように、シアがそう口火を切る。
「墓地に寄ったときに思い出してな。儂は何回も生まれ変わっている存在じゃ。説明はしにくいのじゃが、次の生を受けた時には、前の生で得られた事が引き継がれる。その時に、大きな力の――マナの奔流を感じる事がある。それが『ユーリ』の言っておった、『もっと深いところで流れている何か』なのかも知れん」
「マナの奔流、か」
口にして、ウキクサは思わず黙り込んでしまう。この街の人間が忌避する変異の遠因となるもの。魔術を行使する源たる力。
自分がその異質な存在を認識したのはどの時だろうか。初めて『人魚』を口にしたときか。それともシアに流し込んで貰ったときか。
「『ユーリ』が自分の事をユーリとは別物だがユーリでもある、と思ったのは、理由の説明は出来ぬがその辺りにあるのかも知れん」
「なら話は早いではないか」
そう言ってシドはダナンの方を見る。ダナンは何故か、苦い顔を浮かべていた。
「お前も薄々感じていたんじゃろう。じゃから儂に助け――いや、意見を聞きに来た」
「どういう事ですか?」
レイが怪訝に眉を寄せれば、「何とまあ、教えてないのか、この倅は」そう言って盛大に溜息をついてみせる。「秘すれば花、などと言うつもりか」
「オヤジの言った事はまだ推論だろう。状況を楽観的に捉え過ぎるのは危ない。……あまり無責任な事は、言いたくない」
ちらりと視線を向けた先には『ユーリ』がいる。中身が真実自分の娘であろうとなかろうと、軽々に彼女を傷付けるような事は言うまいという、それがダナンにとって彼女への――『娘』への誠実さなのだろう。
彼女の方は柔らかく笑うと、僅かに首を振る。そうして、
「皆さん私の事を心配して、ここまで着いてきて下さっています。解決の糸口があるのなら、それを詳らかにするのが私にとっての誠意でしょう」
言ってから一同に、「『母』と『アイシア』が『浮遊』を使える事は覚えてらっしゃいますよね」
皆が頷く。厩舎でおかみさんが見せた魔法は、なかなかに見事なものだった。
「『妹』が『母』から術系統を受け継いだように、私――なのかは分かりませんが、ユーリは『父』から似たような術系統を継いでいます」
「そう言えば、ユーリさんにはそれを訊いていませんでしたね」
「まあ、皆が皆開けっ広げに言うような性質でもないからのう」
「あー、確かにそうね」
カルミアがレイに向け悪戯っぽく笑うと、「あはは……」と苦い笑いが返ってくる。レイは『幻術』が使える。決して乱発出来る代物ではないし負担もかなり大きいようだが、いざ使った時の効果は途轍もない。
「つまりお主は父から――いや、今の話じゃと祖父から三代に亘って、同系統の術に対する適性があるのじゃな?」
「はい」
「して、その術というのは?」
「『念話』の類です。それで動物の感情を読み取る事も出来ます」
「なるほど、荷役馬を育てるには打って付けね」
「『念話』というと、口に発さずとも会話が出来る、って事か?」
「概ねそのように思っていただければ」
「シアの見解については、どう思う?」
「…………」
暫し沈黙があってから、彼女はゆっくりと口を開く。
「『念話』は他の魔法と同じく、所謂パッシブスキルではありません。使用時にマナが消費されますし、使用した対象もすぐにそれと分かります。そして……訓練次第では対象にしか見えない『思念体』を送ることも出来ます」
「思念体?」
「こんなものじゃ」とシドが瞑目するや、その身体から僅かに半透明の身体が浮かび上がる。ウキクサは驚きに少なからず飛び上がってみせるも、他の者はピンと来ていない様子で逆にウキクサの方を見ている。
「念話の対象にしか見えないのか」
『そうじゃな。因みにそちらも口に出さずとも会話が出来るぞい』
言われて思念体から流れてくるマナに自分のマナを繋げるイメージで、頭の中で会話をしてみる。
『……こんな感じか?』
『そうそう、その容量じゃ』
そう言うとすぐにシドは繋がりを切断して、思念体を引っ込める。
「体験してどうじゃ」
ニヤリと笑んだシドにウキクサは頭を掻きながら、
「変な感覚だな。……でも、シドさんの言いたい事が分かったよ」
「ほう?」
「つまり――『思念体』も本人の一部で、それがそのまま持っていかれた」
「然り」
シドはそう言うと、一層深く笑んでみせるのだった。




