4.月と箱庭
この地で迎える最初の晩餐は、以下の通りだ。
・新じゃがの炙り焼き
・クランベリーとブラックベリーのアソート
・八朔のジュース
要するに原材料ほぼそのままだ。山椒魚は非常食として、捌いて干物にしている。
長時間動きっ放しだった為か、口に入れるや数回噛んだだけで飲み込んでしまいそうになる。それを意識して、強いて何度も咀嚼しては、舌の上で転がすように、素材の味を噛み締める。
美味かった。
塩などの調味料がないのに、この味わい。
湯気とともに立ち上る匂いも申し分ない、まさに風味絶佳。
いやはやどうして、ここの地物はどれもアタリだ。土壌が豊かだからだろうか。
そんなことを考えながら、わざわざ手間を掛けて竹筒に絞ったジュースを口に含む。心地良い酸味と苦味が口の中に広がり、喉を潤していく。ベリー類はそのなり食べても美味かったが、たまに新じゃがの上で潰して食うと、『味変』になって、これもまた悪くない。
枯れ枝を火に焚べながら、ぼんやり黄昏時の空を眺める。街で見てきたそれと違った印象を覚えるのは、空気が澄んでいるからだろう。鮮やかな色のグラデーションは濁りがなく、原色の連続だ。
ぱちり、と枝が小さく爆ぜる。火の粉がふわりと舞い上がる。
夢の中を漂っているような不思議な非現実感と、肉体の疲労や八朔の酸味といったリアルが入り混じっていた。思考は淀みない。頭の中に溜まっていた澱が浄化されていく、そんな心地がする。為すべきことが明確だから、無駄な思考が削ぎ落とされているのだろう。
……して、今のこの状況は、いい状況だと言えるだろうか?
再びパチリと音が鳴る。火勢が弱まっていた。枯れ枝を差し込みながら、下から空気を送り込む。その度熾が鮮やかな赤橙に色付いた。
火が移ったのを確認し、太めの枝を追加すると、とっておいたラズベリーをひと口摘んだ。熱で多少温められてしまっていたが、舌の上に広がる甘酸っぱさは、火に当たりながら賞味すると、何というか、心地良い。
そうして色と酸っぱさからだろうか、ギリシャ神話のある一節がふと頭の中に浮かび上がる。冥府の王に連れ去られ、そこの果実を口にしてしまった女神の話だ。食べた柘榴の分だけ冥府で過ごさなければならなくなり、母である豊穣の神が嘆き悲しみ、冬が、そして四季が生まれたという話。
共同体における食の意味を、神話は反映しているのかもしれない。似た神話が世界各国にあるのも、時間とともに広く伝播したからというだけでなく、独立した各コミュニティー内においてそういった要素が働いた為と考えて決して不自然ではないだろう。ギリシャから十万キロ近く離れた日本でも、伊邪那美命の黄泉戸喫――死者の国での飲み食いに関する記述がある。
分業の進んだ社会において、どうあっても人は助け合わねば生きていけなくなる。自分の担当以外は他者に依存してしまうからだ。共同体に有益な行為をすれば飯が食えるし、逆に言えば飯を食うなら何かしら貢献せねばならない。働かざるもの食うべからず、という思想の母型がそこにある。
禁断の果実に関する話はどうだ?
アダムが暮らしていたのは楽園ではあったかもしれないが、人と人との共同体ではない。そして図らずも、イブという類縁が生み出され、禁断の果実を食べるよう唆され、口にしたことで、二人は楽園を追放されてしまう。神が共同体などというものを持つか、欲するかは、何とも言えないところだが、少なくとも二人はその成員ではなかった。そして類縁である二人は新たに共同体を築いていった――穿った見解だろうか。
嘆息とともに、自嘲的な笑みが漏れる。火はいつしか消えていた。空は宵闇の色に染まり、星が出始めている。
今更、感傷的になっているのだろうか。
あの街を後にしたことに後悔はない。
親しい者もいたし、そうでない者も沢山いた。
あそこも、共同体であることには違いなかった。
「でも今は――」
思わず口をついて出る。
ここには自分がいるだけだ。それを共同体とは呼ばないだろう。共に、同じ釜の飯を食う人間など、存在しないのだから。
……さて、何故益体もなく、こんな共同体論を延々こねくり回しているのか、そろそろ白状しよう。
原因は今まさに空に上っている、あの上弦の月だ。
ふわりと浮かぶ月は白く、穏やかに夜の雲間を漂っている。見知らぬ地にあって、唯一の知己を得たような――或いは昔馴染みであるような――そんな安堵を覚える、温かな光。
しかし、だ。
その少し左下、ぶら下がるような、引っ張られているような位置に見える、二回りほど小さい月影。見覚えのない斑紋。
そんなものが目に入ってしまえば、否が応にも、理解してしまう――いや、より正確に言うなら、薄々そうじゃないかと気付いてはいたが、現実を突きつけられて、認めざるを得なくなってしまったのだ。つまり――
ここは、本当に自分の知っている世界か?
夜が更け、星々が瞬き出す。そこにあるのは、見覚えのない星の並びだ。
オリオンもなければ、北斗七星もない。カシオペア座などの北極星を探す手掛かりになる星座も、綺麗に姿を消していた。シリウスのように煌々とした光を放つ星もあるが、それが真実あのシリウスなのかは分からない。満天の星空ではあったが、天の川は見えなかった。
月だけが――大きい方のそれだが――見覚えのある姿形を保っている。淡い光が元いた世界との縁に思われて、思わずそれに向かって祈りに似た感情が湧き起こってくる。
頭の中を流れるドビュッシーの『月の光』は次第に変容し、より始原的な、現象そのものに似た音の連なりへと崩れてゆき――
……その夜は、結局屋内には入らなかった。
上弦の月が鬱蒼とした木々の向こうに沈むまで、ぼんやりその光を浴びていた。この先のことも、外敵に襲われる可能性も、頭の中には何も浮かばず――いつしか自分で切り出した竹槍をかき抱きながら、私は眠りに落ちていた。
――――――
翌朝、周囲を歩き回ってみる。殊に見回せるような高台がないか随分と探してみるも、なかなかどうして結果は芳しくない。道の痕跡らしきものはそれなりの数あっても、人工物の類は見つけられなかった。丘はすぐ登れる大きさのものしかない。苦労して木に登ってみても、上から見える景色には街はおろか、家屋の類すら皆無だった。森自体どこまで続いているのか分からぬ茫洋さで広がっており、幾度か目眩を起こしそうになった。
問題はその後に訪れた。
例の沢を経由して、あの極彩色の一帯に至るルートを確保しようと歩を進めていたのだが、一向に辿り着く気がしない。
ルート取りを誤ったかと引き返そうとした、その時だ。
突然開けた場所に出た。
ここにもこんな空間があるのかと最初は喜んでいた。
だが次第にそれが既視感のある風景に変わり、やがてあるものの前で足を止める。
そこにあったのは、扉のない建物と、果樹の並木。
畑は掘り返した跡があり、土を被った小さなじゃがいもが、茂る青葉の下からのぞいていた。
(戻ってきた?)
正確に目的地まで歩けていたと、そこまでは自分でも思っていない。
しかし始点と同じ位置に帰ってくるというのは、尋常な事態であるとは考え難い。
日はまだ高い。時間なら腐るほどあった。
そう思うやすぐに身体は動き出し、今来た道と『直交するように』道を切り拓いていく。食糧のことはひとまずおいて、ひたすら森を分け入った。
ようやく歩みを止めたのは、かなり日が傾いた頃だった。
また戻ってきていた。
スタート地点へと。
何度か繰り返したものの、その悉くが同じ結果だった。
息が浅くなり、酸素が上手く取り込めなかった。
支離滅裂にとっ散らかる思考を集めて、虚ろな眼差しを空に向ける。空は変わらず広く、澄み渡っていた。もうじき夕日が美しいグラデーションを見せることだろう。
「…………空が、狭い……」
けれど、ここは箱庭だった。
自分は箱庭の住人なのだ。
この先ひとりで生きていく、その覚悟はあったが、こういう『ひとり』は想像だにしなかった。
断絶の中にある平穏な世界――
知らず、後悔のようなものが押し寄せてくる。何の後悔か? 良く分からない。色々だろう。蓋をしなければならない感情、目を背けていないと保たない事実、そういった一切合切の精算を、今の状況に迫られている。そんな気がした。
夕闇が描く鮮やかなグラデーションはやはり神秘的で、非現実的にさえ思われた。下手に色々考えると余計に不安が募ってきそうで、強いて考えないようにする。
要するに、逃避だ。
しかしどれだけ逃避しても……結局押し寄せてくる現実の物量は変わらない。
周囲の自然の美しさも、この森が袋小路であることも、そして自分が一人きりであることも。
訳の分からぬ状況に置かれて、もはやどうしようもなくなっても、現実はそんなもの斟酌してくれない。
ならば……それに対する考え方を変えてしまうしかないだろう。
不安の正体が未知と孤独であるならば、私がこの世界に未知の恐怖を抱いているならば、この世界だって私を未知のものとして見ている筈だ。
この世界の異物? だから何だ。それで小さく縮こまっていなければならない理由にはならないし――キリがない。
未知のものがあるならば、既知に変えてしまえばいい。ここで暮らしていけば、分かっていくことも色々とあるだろう。そもそも孤独って何だ? ここでそんなこと考えたって、どうしようもないじゃないか。自分はこの地の恵みで生きていくほかないし、死ねば自然は自分と一体になる。ただそれだけだ。
知らず、笑いが込み上げてくる。ようやく正しく、自分の置かれた状況を理解したからだろうか。それとも自分自身の薄っぺらさに今更ながら呆れ果てているのか……或いはその両方かもしれない。
黄昏時の空が影を広げてゆく。相も変わらず、美しい光景だった。絶対的な自然美は脳内でうだうだこねくりまわした小難しい考えとは、およそ遠いところにあった。
一頻り笑いが治まると、急に腹の鳴る音に抗しきれなくなってくる。晩飯の調達に取り掛からなければならなかった。沢で水を汲んで、同時に魚でも獲れれば一石二鳥なのだが――とやおら重い腰を上げた、その時だった。
影の中に『ソレ』がいると気付いたのは。




