幕間
薄暗い森の天蓋が、頭上を流れていく。木漏れ日は時折差すものの、薄膜を経たような柔らかさだった。張り出した木々の先からは滴が垂れ落ちてきそうな気配だが、暫く目で追っても一向に落ちては来なかった。
ゆっくりと、シアは身を起こす。そこは舟の上だった。川は穏やかな流れで、水は澄んでいる。不思議と何処かに停めようという気は起こらず、流れに身を任せてゆく。
平らに均された時間の中で、妖精は変化というものに飢えていた。日常を生きる事で決して変化がない訳ではなかったが、長命な種族にとって大概の変化は、大した事のないさざ波であった。誰と喧嘩したかも、何を成し遂げたかも、或いは親しい誰かの死も。
引き延ばされた時間の中で感受性まで薄っぺらになってしまっているんじゃないか、そう思ってしまう者も、中にはいるという。短命な存在がその短い生涯で行き合う様々な『変化』――行為としては長命な者と大して変わらないが、記憶に深く刻まれるほどの劇的な何かを、自分たちはもう体験し得ないのではないか、と。徒に生が長いだけで、その長さに反比例するように様々な感覚を失っているのではないか、と。
だからそういった種族は、旅に出る者が多いと言う。自らの意味を求めに、快楽を求めに、目的は様々だ。
だがその根底にあるのは、恐らく里の古老が見せる諦念の眼差しに対するある種の忌避感、何れ自分もあのような表情になってしまうのではないかという不安にあるのだろう――……と、シアの頭の片隅で緩慢な思索が繰り広げられ、程なく解け霧散していった。
シアも古い存在だ。ある種の諦念が身体に染み付いている自覚はあった。
かと言ってそれを恐れてもいない。だから変化に行き合った時に素直に驚けるし、必要以上に頑迷な態度を取る事もない。少なくとも、そうでありたいとは思っているのだった。
「……ん」
視界に何かを認め、僅かに目を凝らす。鬱蒼とした森の奥、川の流れを堰き止めるように、四角い構造物が見えてくる。
(閘門か)
この時点でシアは薄々自分が夢を見ている事に勘付いていた。しかし強いて起きる必要性もない。川の流れはどうなっているのかとか地形がどうなっているとか、そんな真っ当な諸々について疑問を抱くのは無意味である以上に無粋なものだった。夢に具体性など求め始めたら、忽ち現実に引き戻されるのがオチだ。
なのでシアは大人しく閘門の内側に収まり、背後に扉の閉められる音を聞く。ドボドボと給水されていく数メートル四方の空間は、思いの外心許ない。門扉やバルブを操作する者の姿が見えないからだろうか。二言三言、挨拶なり出来るだけでも随分違うのだが――
そう考えている内に、とぷりとぷりと水が満たされ、やがて上を流れる運河の姿が見えてくる。操作室は長期間風雨に曝された為だろう、外壁の白も随分と褪せて、随所に黒ずみが見られた。中には実直そうな老夫が一人、白い口髭を撫でながら、微かにこちらに向かって笑っていた。
最上段まで上がると、金属の軋む音とともに扉が開いてゆく。空は茜色に紫が混ざり、それでいて昼の青さもまだ残っており、薄く雲が広がっていた。運河は開けた丘の上にあり、その先には街の灯が見えた。
振り返ると森は跡形もなく消えていた。操作所も、あの老夫も、煙のように存在丸ごと遡って消されてしまった――そんな錯覚に陥りそうになる。
舟は流されてゆく。ゆっくりと、しかし確実に、どこに向かうのかも分からぬままに。
「まあそれが君の生き方なら、とやかく言うつもりはないがね」
舟と並んで歩く人影があった。外見的には尋常な人の三十代から四十代といったところか。角度の関係で顔は見えない。
それでいて、不思議とそいつが旧知の仲である事は分かった。誰だかは分かるが、名前が出てこない。単に夢の中だからかも知れないが、相当長い間会っていないのだ。本当に忘れてしまっていてもおかしくはなかった。
「強いて変化を求める必要があるのかい。倦んだ眼差しを浮かべるのも、別に悪ではあるまい」
「強いて求めてなどおらぬ。ただの性分じゃ。それに――変化が向こうからやってくるのじゃ。関わってやるのもまた一興じゃろう」
そう返すとそいつは困ったように嘆息をつく。
「それで立ち止まったんじゃないのか」
「…………」
相手は歩みを止めていた。知らず、自分の舟も停まっていた。何か反論すべきなのかも知れなかったが、言葉は不思議と出てこなかった。
「君は、責任感が強過ぎるんだよ」
「……もう少し、肩の力を抜けと言いたいのか?」
「率直に言わせて貰えれば、もう少し無責任に生きてもいいと思うがね」
「無責任、ねえ」
半ば鼻で笑って返すと向こうは再び歩き始め、舟の方も動き出している。丘の向こうには小洒落た食事処が点在しており、風に乗って芳しい匂いが漂ってきた。ツレが「食べないだろう?」と訊き、こちらも「食べない」と返した。瞬く間に店は後ろへと流れ去り、気付けばツレは同じ舟に乗り込んでいた。
「高い場所の方が、見晴らしはいいと思うんだけどね」
「それはそうじゃろう、じゃがこの景色も悪くないと思わんか?」
「まあ、否定はしないよ」
ツレは眼下に広がる街を一瞥すると、
「ただ、君が見ているものがこちらの見ているものと同じだとは限らない」
「禅問答は苦手じゃ」
言いながらもちらと家々の煙突から煙が立ち上る様に見入ってしまう。メシ時なのだ。白い煙は日々の営みを証しているようで、見ていてある種の温かさを覚える。
「嫌になる景色だ」
「そんな事はなかろう」
「苦手なのかも知れないな、この黄昏時のステレオタイプな情景が」
ツレがそう言って立ち上がると、舟はバランスを取ろうと軽く揺れた。
「どうした、急に立ち上がったりなどして」
問うと相手はひと言、「飽きないか?」
そう言って舟を飛び降り、脇道の先に建つ古い石塔を目指し歩いてゆく。別に着いていく義理はなかったが、手招きされたのもあり、気付いたらフワフワと後を追っていた。
何れ夢なのだ。舟に固執する必要はないし、深く考える必要もない。
「仮に解決策を見出したとして、それが必ずしも君の意に沿うものとは限らないだろう」
「分かっとる」
「その時は、どうするつもりだい」
「じゃから、分かっとる」
言いながら丘を登り、朽ちた塔の扉に触れる。元は物見の塔だったのだろうか、卓には街の地図と鳥瞰図が無造作に置かれていた。後者の方は、インクの具合から手書きで描かれたのだろうと推察された。
「……外から飛んでいくかい?」
「そんな真似はせんわ。この塔の性質が分からなくなるではないか」
「別にひとっ飛びでもいいと思うがねえ」
そう言って二人して螺旋階段を登り始める。無論、妖精は相方の肩の上に座っているのであるが。
「まあ何れにしろ、君の決断はあくまで君のものだ。そしてそれと同じように、他者の決断は他者のものだ。自分の決断の結果は自分が引き受けねばならんかも知れんが、かと言って他人のそれまで引き受ける義理はなかろうよ……」
呆れているような、心配しているような声音だった。
「そんなに頼りないかのう、儂は」
「いいや、頼り甲斐はあるだろうよ。あり過ぎるから問題だと言っている」
「力持てる者は相応の責務を担うべきだと思うが?」
「『ノブリス・オブリージュ』も結構だがね、そうあらねばならぬ訳でもあるまい」
「まあ、それはその通りだのう……ん?」
そこで妖精が首を捻る。
「……いつから、下っておった?」
最前上り始めた筈の螺旋階段は、いつの間にか下りのそれに変わっている。
「ああ、いつの間にか下っていたな」
ツレは別段動じるでもない風だった。後ろを振り返ると螺旋階段は壁の中に埋まっていた。つまり戻る道はない。下へ進むしかないのだった。だが――
「参ったのう」
前に向き直った時には、壁面も天井も、ぐにゃりと蠕動して内側に迫り始めていた。
ツレの判断は早かった。見る間に階段を駆け降りて、突き当たりの扉に体当たりを食らわす。
そこは風が吹き抜けていた。
つまり、外だった。
眼下には先刻目にした街の灯が広がっている。突き破った筈の扉はどこにもない。
「……下っておったと思ったら、てっぺんに出るとはのう。まこと奇っ怪じゃが――」
と、そこで言葉は途切れてしまう。ツレの姿が見当たらなかった。扉を突き破って外に転び出たところまでは確かだった。
「……なんじゃ。どうせ夢なら、最後までおらんか」
妖精の呟きは風に吹かれて消えてしまう。誰かがいた、その温もりごと跡形もなく。
むべなるかな――とシアは遠景に目を細めた。業腹だが、相手の顔も、そして名前も思い出せないのだ。夢の終わりまでいて欲しいなど、虫の良い話だ。
(仮に解決策を見出したとして、それが必ずしも君の意に沿うものとは限らないだろう)
あれは何に対する言葉だったのだろう。
求道者の塔について? でなければユーリの事を指して? 或いはウキクサたち一行を助けている事に対してだろうか。……それとも、それはシアの失われた記憶に関する事なのだろうか。
「……くっくっ」
思わず妖精の口から笑いが漏れる。
(阿呆か。夢の中で誰かが口にした言葉なんぞ、儂自身がそう反応して欲しいと作り上げているからに他ならんじゃろうが。自惚れるな)
気付けば石塔は崩れ去っており、シアはその瓦礫の山の上に座っていた。
「儂は儂の成すべき事、成したい事に力を注ぐだけじゃ。それ以上でも以下でもない」
口に出してふわりと浮かび上がると、残骸は風に溶けて消えてゆく。後には小さな石像が一つ残されたばかりだった。
シアは再び舟に乗る。しかし既に景色は変わっていた。運河は夜の色に染まり、雲間から垣間見える星々の煌めきを映していた。眼前には広漠とした大地が広がり、地平線を遮るものは何もない。
瞑目すると微かに唸り声のようなものが聞こえてくる。獣のそれか、はたまた自分の心の声なのか……。
夢の中で目蓋を開いた瞬間、視界の片隅で何かが光った。
「遠雷――」
それとともに急速に意識が浮かび上がってくる。夢の中の物事が解けていく。記憶が解けていく。
「……雨の、匂い」
呟きは音になった端から溶けると、夢の中に残されたまま、忽ち消えてしまうのだった。




