32.雨の宿にて
人は眠っている時に、一体どういう状態になっているのか。外面的には静かに寝息を立てる人の姿があるのみで、意識と呼ばれるものは少なくとも表層には現れてこない。意識が内部で凝ったものを夢と呼称していいのか、その辺りは専門家ではないので率直に分からなかった。
何れにしろ、起きているか寝ているか――これは一見しただけでは第三者には分からない。これを見極めるのは一般的には至難の業と言えるだろう。
そして逆に、『寝ているときに自分が何をしているか』もまた、分からないものだ。鼾をかいているか、どんな寝相なのかは、今度は第三者に言われないと分からない。起きたら寝相の悪さに文句を言われる、或いは映像を見せられて自分の鼾にぎょっとする、なんて話は良くあるものだ。しかし……
急に降り始めた雨に、酒場の店員は総出で急いで店仕舞いを始めていた。集まっていた客も細い路地から次々と散っていく。「参った参った」「いい酔い覚ましだ」と口々に笑いながら去る様は、酔っ払いとは言え、見ていて気持ちがいいものだった。
「兄ちゃんたちも、また縁があったら一緒に飲もうや」
「ええ、是非」
それに個人的には、丁度いい頃合でもあった。事情を知らないとは言え、自分が不用意なひと言で一座を静まり返らせてしまって、幾分申し訳ない心持ちだったからだ。無礼講とは言え、その中にもタブーというものは存在する。沈黙の後に複雑な表情を浮かべられたり悪態をつかれたりすれば、自ずとそれは知れるというものだ。まあ、終わってから言ってもしょうがないが。
「ハハ、まあアレのお陰で皆少しは冷静になったから、間違えず家路に着けるだろうよ」
ダナンが豪放に笑う。しとしととしていた降りは次第に強まっており、微かに遠雷も聞こえてくる。
「それにあいつらも、あんたに対してどうこう、ってワケじゃないだろうしな。そこは分かってやってくれ」
「と言いますと?」
「『酒下し』さ」
一同が静まり返ってしまった原因となるもの。それが酒下しと呼ばれる、『酒好きにとっての毒』だった。他はどうか分からないが、ここの客は総じて良く思ってはいないようだった。
「皆一度は試しているさ。何度も飲んでいる内に嫌になったって奴もいれば、一、二度で懲りたって奴もいる」
「因みにダナンさんは?」
カルミアが訊くと、「前者だな」との答えが返ってくる。傘もないので、皺の浮かび始めたダナンの額を雨滴が流れ落ち、身体は濡れそぼっている。一行で濡れていないのはカルミアと、その肩の上で伸びている妖精二人だ。酔い潰れそうになりながらも、なんとか魔法で彼女の周りを雨が避けるようにしているが、不安定で足元はすっかりびしょびしょだ。それでもウキクサとダナンに比べれば、身体が濡れない分全然マシ、というものだが。
「――別に悪いと言うつもりはないがな。酒を百薬の長なんて言うつもりもないしな。アルコールの解毒なんて率直に大したものだと思うし、個人的には変異の進行をどうこう議論するつもりもないからな」
「なら、どうして」
「気分が昂揚するのに、他人の行動に同調させられるんだぞ。変な話、周りが悪人ばかりだったらどうするんだ。自分も悪事に手を染めちまうのか?」
幸いそんな話は聞かないが、と彼はそう言う。アルコールを摂取したときのような認知機能の低下とは、それなりに毛色の違う話であるようだった。
「それに、感覚がひとつ持っていかれちまう、ってんのがなんともねえ。魔法ならぬ、新手の神秘体験かよ」
彼らが酒下しを『薬』ではなく『毒』と表現するのは、その辺りに原因があるのだろう。
「魔法と称されるものは、善き事の為に用いられるべきだろうよ。……とは言え俺たちだっていい大人だからな。物事に両面ある事ぐらい、百も承知さ。それでも――」
そこで一度言葉を切って、
「意識がないのに身体が勝手に動いてる、あまつさえ会話が成立しているなんて、ちょっとどころじゃなく、怖いだろう」
気付けば一行は宿の前に着いていた。「確率が低いって言われても、俺は御免蒙るね」
宿の主人は準備良く、玄関口にタオルを用意して待っていた。他にも何組か、狭いロビーで滴りを拭う者の姿が見られる。皆祭の帰りに降られたのだろう。
「お連れ様は先に戻られています」
そう言われて、髪や身体を拭ってから三階の大部屋へと向かう。
「さっきの話じゃが」
シアが尚もカルミアの肩の上に伸びていながら、気怠そうに口を開く。
「酒下しを飲んで意識を奪われる確率は低いということかのう」
「そうだな。何回も飲んだからなる、ってもんじゃないようだ。大体飲んだことがある奴二千人当たり、一人二人、ってところかな。もう少し多いかも知れないが」
「千から二千に一人かい。俺の肌感覚とも合うな」
言って反対の肩に伸びていたワムジールが胡座に座り直す。因みに部屋代は約束通りシアーーではなくダナンが、厚意で出してくれていた。今夜は一緒に大部屋だ。
「アレは一見して分かりにくいからタチが悪いんだ。それでいて自分の口で意識を失っている、なんて言い放つのだから、なかなかどうして、不気味なもんだぜ」
三階に上がると、大部屋の前にテトがいた。扉は半開きになっており、中から人の話し声らしきものが聞こえる。山猫はこちらに駆け寄ると、特にダナンを部屋の方へと促す。何かあったのだろう。急いで中に入ってみれば、そこにはベッドに腰掛けたレイと、ユーリの姿があった。ダイフクはどうしたもんかと両者の間で時折ちらちらとユーリの方を見上げている。
「ユーリもこっちだったか」
「ウキクサさん……」
お楽しみのところ悪いな、と普通ならそう続いても良さそうだが、どうにも二人の様子がおかしい。
「どうした。何かあったのか」
「どう説明したらいいか分からないんですが……」
「すみません、ご迷惑をお掛けして」
言葉を引き取って何故かユーリが謝る。どういう事だ?
「ちょっと、意識を失ってしまいまして。心配されたレイさんがこちらまで連れ帰って下さったんです」
それで疑問が氷解する。飲んだのだ、二人は。
言われてみれば、レイの視線もどこか定まっていない。
「私では判断しかねると思ったものですから、こちらにお連れしました……一人にするのも、怖かったですし」
「いや、賢明な選択だと思う。『酒下し』を飲んだんだろう? ひょっとして――」
「視覚を持っていかれましたね」
大した事ではないようにレイは言うが、決してそんな事はないだろう。聞けばテトがなんとかここまで導いてくれたのだとか。
「どんな作用があるかは、直前にユーリさんから聞いていました。それで二人一緒に飲んでみたんですが」
そこで少しばかり苦笑を浮かべながら、
「すぐに視界がぼやけてしまった自分と違って、彼女は直後は問題ないと言うもので。ハズレでも混ざっていたのかなと思っていたんですが――」
「でも意識がなくなるって、どんな感じだったの」
カルミアが興味本位の言葉を投げ掛けるも、ユーリは淡々と、「ちょっと説明が難しいですね」
まあ確かにそうか。自分が意識を失おうという瞬間を言語化するのはなかなかに難しい。それでも「急に気が遠くなって」と、「いきなりプツンと途切れるように」では、些か印象が変わってくるというものだろう。
……しかし横を見れば、レイも、そして親であるダナンも、強張った顔で沈黙している。
つまりは、そういう事なのだ。
そしてそれを証するように、ユーリは言葉を続ける。
「今既に、失っている状態なもので」
場に沈黙が降りる。
僅かにカルミアの息を呑む音が漏れ出たばかりだ。
ユーリの浮かべる何とも言えぬ気不味い表情は、良く見る彼女のそれの筈――だが、どこか決定的に、異質な得体の知れなさが潜んでいる。
意識を失っているなら、何故立って喋っていられるのか。
レイも我々も、担がれているのか。
そうでないなら……一体何が、彼女の内側から喋っているのか。
レイは視覚を奪われていたが、それでもおおよそ人の集まっている方に向かって、
「最初はちょっとした悪巫山戯だと思ったんですが。少し、様子が違うな……と」
流石のレイも困惑したという。常の彼女なら口にしないような冗談だったし、それでいて身体は問題ないと言われてしまえば、彼としては対処も何もなくなってしまう。加えて彼自身は目が見えなくなっていた。テトが服を引っ張り宿の方へと向かわせようとしているのだと気付いて、それでなんとかここまで戻って来れたのだという。
「実際には引っ張られながら、ユーリさんに横で道案内をして貰った、という感じですが」
つまりは、彼女を試したという訳だ。真っ直ぐ宿まで連れて行ってくれるなら良し、そうでないようなら山猫の引っ張る方向ですぐにそれが知れる、という訳だ。それも杞憂のようだったが。
「ダイフクさんは多分、私と彼女の間で右往左往していたように思います。こちらに乗っかったり、反対側に飛び乗るような感触もあったので……というか、その時点で治療出来るか否か、訊いてみるべきでしたね」
レイ自身も、軽いパニックに陥っていたのだろう。呻くように言葉を吐き出す。
「いや、そもそもダイフクからしたら、判断材料的に手出ししない方がいい、と思ったんじゃないか」
「と仰いますと?」
「そもそも自分たちの意思で飲んでいた訳だろう? ダイフクに伝わるかは分からないが、何か変になったら助けてくれ、とも言っていなかったんじゃないか」
「そうですね」
「見た目上、少なくともユーリは変わりがない。まあ右往左往していたって話だから気配の違いみたいなもんは分かったのかも知れないが……。レイはレイで、目が不自由になったようだが特別治してくれとかは言ってこない。ユーリの話した前段の話――そいつを飲んだらどうなるかというのをダイフクが何となく理解していたなら、敢えて手出しして助けるべきかは微妙なところだろう」
今日は祭の日で、同じようにして自ら酒下しを飲んでいる者が大勢いる。ダイフクの視点からすれば、それを敢えて治療してしまうのは無粋というものだろう。無粋という概念を理解しているか分からないが。
「まあ、仮に治療を頼まれたとして、それに応えられるかは分からないがな」
ダイフクの能力は未だ謎の部分が多い。というより、本人ですら良く分かっていない可能性がある。
ただ、今まで自分たちが目にしてきた治療は、言ってしまえば尋常な傷病のそれだ。今回の件が魔法絡みであるならば、そもそもそれが出来る性質でない可能性もある。
「「……」」
会話が途絶え、室内に静寂が戻る。降り落ちる雨滴だけが不規則に窓を叩き、その合間を埋めていく。
空気だけは張り詰めている。皆その場から動けず、視線だけがある一人に注がれる。
困惑、懐疑、心配、畏怖の混ざった眼差し、或いはそれらの綯い交ぜになったものが、その人物に向けられる。
無遠慮な眼差しに彼女――ユーリが目を伏せると、それに気付いて気不味そうに他の面々は僅かに顔を背ける。
『ユーリ』自身、自分の中に生じている齟齬については認識しているのだろう。もっと言えば、当惑している節がある。だからそんな風に目を伏せているのだ。
……であるならば、それは通常、『意識』と呼ぶものではないのか?
「単刀直入に訊くが、ユーリじゃないなら、『君』は一体どういう存在なんだ? 意識がないなんて、何故断定的に言える?」
そうウキクサが発すると、一同は揃って押し黙ってしまった。それでもひとり、『ユーリ』だけは、少し安心したように表情を緩めたのだった。言語化されることで、自分の存在の曖昧さがもう少し明確な何かに変えられる、そんな期待でも混ざっているのだろうか。
「説明は難しいんですが……私はやっぱりユーリなんですよ」
自分が渋面を浮かべているのが分かる。そのくらいの、難解な返答だ。
「……もう少し、噛み砕いてくれると」
「あ、すみません……えっと、まず誰かの記憶に触れた時点で、私はその人にしかなりきれない訳です。なりきれないというか、間違いなく思考回路的にはユーリのそれなんで、『ユーリ』なんですが」
「別人格のようなものとは違うと?」
レイに出会った街の『専門医』兼『案内人』――カインとアベルのことが思い出される。尤も、あの二人は尋常な多重人格とも、また少し趣を異にするものだったが。
「多分……違いますね。私は人格と呼ばれるものではないか、と。もっと深いところで流れている何か、それが偶々ユーリの身体に引っ掛かって、一時的に『ユーリ』である私が浮かび上がっているだけです」
なので本来は長くは続かない筈なんですよ、と彼女はそう言って僅かに笑う。レイが斜め上を見上げる。記憶を確かめるように訥々と話し始める事には、
「……私たち二人が皆さんと別れたのは夕刻、で間違いないですよね」
「そうだな」
茜色の空を見た記憶がある。
「目が見えなくなって感覚が掴めないのですが、今はそれからおよそ四時間前後、といったところでしょうか?」
壁掛け時計を見れば、短針がもうすぐ十を指すところだった。
「お見事、良く分かったな」
「皆さんと別れて二時間ほどは、二人で祭を楽しんでいましたので。アレを飲んでからは時間感覚が良く分からなくなりましたが、それでも真っ直ぐ帰って来ましたのでおよそ三十分。着いてから雨音が聞こえてくるまで小一時間弱ほどあった印象でした。そして皆さんが戻られるまで、そこから更に三十分なので――」
「それで大体四時間、って訳か。……流石だな。それとも料理人の時間感覚が鋭いのか」
「それこそ偶々ですよ。それはともかく、これは酒下しを飲む前にユーリさんが言っていたことなんですが、症状によって継続時間が異なるとか」
「ああ、そうだな」とこれにはワムジールが答える。「眼・耳・鼻・舌がおよそ一日。触覚は身体の一部で半日近くだったか。俺はアレで味覚をなくしたことがあるが、まあ味のしないメシってのは、自然と言葉数は少なくなるわ、気分は滅入るわで最悪だったな」
「意識の場合は、どうなります?」
「確か数時間――」
とそこでワムジールが止まる。引っ掛かるところがあったらしい。
「待て。そう、数時間の話だ。俺の聞いた話じゃあ、その数時間はタダの悪ふざけにしか思われないほど本人そのものだった筈だ。況してや、ソレが自ら状況説明をして、更に自他の違いに言及するなんて、聞いたことがない」
「俺もそう聞いているな」
そう言ってダナンが頷く。娘の身に起きた事を案じてだろう、傍目にも組んだ腕に力が入っているのが分かる。
「今日行った酒場なんだが、酒下しで意識を持ってかれた事のある連中が何人か居てな。……だが『そうなった』とき、あんたみたいに客観的に自分のことを語る存在がいたらしい――なんて話は、聞いた事がない」
『ユーリ』は瞑目するも、言葉ひとつ発さない。肯定という事だろうか。
「『本来は長くは続かない』と言ったな。あれはどういう意味だ」
彼女は尚も瞑目する。
「……娘は、いつ戻ってくる」
「それを解決する為に、今こうして『出てきて』彼我の話をしているのです」
そこでようやく『ユーリ』は目を開くと、
「ユーリが戻って来れなくなる前に、連れ戻さなければならない――ご協力、いただけませんか?」
そう言って真剣な眼差しを、『父親』に向けたのだった。




