3.森を抜けて
見知らぬ土地を行く足取りは重い。霞がかった森の中なら尚更のことだ。
喘ぎながら高低差のある森の中をひたすら歩いているが、足元は滑りやすく、決して歩きやすいものではない。何でこんなに歩く羽目になっているのか、思わず時折心中に問い返してしまう。
当て所があるか? ある筈がない。ここが何処なのかも見当がつかないし、そもどうすれば良いか分からず途方に暮れている人間に、目的地なんて存在する訳がない。
近場の岩に腰を下ろし、水筒を逆さに振る。小さな穴からチロチロと水が流れ出てくるので少しばかり口の中を湿らすと、惜しむように再び腰に提げる。
先程からこまめにではあるが、それなりの量は飲んでいる……筈だが、それにしては一向に重さが変わらない。木製のそれは幾分小ぶりな為、小さいコップで二、三杯が関の山だと思っていたのだが……。先刻緑の目をした男がやってみせたあの奇術と何か関係でもあるのだろうか。
表面の紋様は流れる水を象っているのだろう。かなり手の込んだ品で、一部字のようなものも刻まれているが、磨耗して判読出来ない。
嘆息をつきつつ、再度携行品を検める。
水筒に山刀、小袋、その中に鍵の形をした装飾品、それに不思議な色合いをした金属製の玉。
何れも自分のものではない。あの男が後に残したものだった。
――――――
最初に放り出された場所は、開けて、草花は美しかったものの、近くに水もなければ、食糧になるものもなかった。残されていたのはひび割れたヤドリギの塊くらいのもので、その他家にあったものは綺麗に消えてなくなっていた。
前述した品は、全てそのヤドリギの、割れ目から出てきたものだった。何故それらがその中に収められていたのか、或いは何かしら意味があるのかもしれなかったが、ひとまずは考えないことにする。答え合わせをする相手がいないし、そもそも意味などないだろうという漠然とした感覚があった。
頭上に目を向けてみる。最前と異なり薄ぼんやりとした光が広がるばかりで、方位も判然としない。あの青空が嘘のようだった。この霧とも靄ともつかぬもの――便宜上『霞』と呼んでいるそれは、森に分け入ると程なく現れ、忽ちこちらの視界を奪ってしまう。見通せるのは良くて二十から三十メートル。妙な質感は熱量なく、生き物のように身体に纏わり付いてくる。お世辞にも快いとは言えない。異質な存在感は衆人環視の中森を進んでいるような、そんな錯覚さえ覚えさせるものだった。
重い腰を上げ、前を見据える。こんな得体の知れぬ場所に放り込まれ、良く分からぬままただ死ぬのは御免だった。それならいっそ、元いた場所で…………いや、それもここに来たから言えることなのだろう。
と、ちよっとした坂を越えたときだった。
前方に、明らかな異常が認められた。
それまで橅や櫟が主だった森に、ある地点から急速に極彩色が混じり始める。山百合や蘭に加え、南方で見られる花弁の大きな花々や、果ては仙人掌の類まで――図鑑の中にあるものを雑多に並べたかのような、めちゃくちゃな植生が立ち現れた。季節も地域もごちゃ混ぜになった狂い咲きは、人を惑わす瘴気とでも呼ぶべきものを放っており、本能的に近付くのが躊躇われるものだった。
……だが喫緊の最重要課題、綺麗な水と食糧を手に入れる為には、そこは避けて通れぬ場所になっていた。と言うのも、既にそちらの方にしか、進む道がなくなっていたからだ。避けても、後戻りしても、やがて同じような極彩色の前に出る。いつの間にかこの空間の内側に囚われているのだった。
一帯に踏み込むと、手近なところに生えていた竹を山刀で切り落とし、新たに簡易の水筒を作る。また、竹槍状に鋭く尖らせたもので仙人掌を突き、落ちた葉肉の針をこそぎ取ってゆく。これを搾れば水分が得られる筈だが――
(毒は?)
まず根本的に、その判別が出来ない。多分大丈夫だろう、という根拠のない自信はあるものの、所詮は素人のそれだ。知識が圧倒的に足りない。
水は?
果物は?
キノコや木の実は?
文明化された社会で『完成品』ばかり口にしていた人間の、何と頼りにならないものか。生えているものが食べられるか判別する方法も分からなければ、無毒化する方法も、濾過する方法も分からない。多少の調理が出来たところで、これでは意味がなかった。
散々逡巡した挙句、手に持つ仙人掌を、そっと地面に置く。
食糧と水は必要だ。しかし今すぐにリスクを冒す必要はない。
……いや、本当は分かっている。
自分は問題を先送りしたいのだ。
破れかぶれでいいなら、別に気にせず何でも口にしたらいいじゃないか。事この段に至って、一体何をびくびくしている? これなら本当に、出奔する前と同じじゃないか。
自嘲的な笑みが漏れる。
「まだ何か成し遂げたい、ってか」
可笑しくなって、次第に大口開けて笑い出してしまう。
相も変わらず情けない。性分だと分かっていても、呆れざるを得ない。
考えるのも馬鹿らしくなってきて、仙人掌の欠片はそのままに、ふらふらと極彩色の空間を分け入ってゆく。
どの道一人なのだ。なるようにしかならないなら、せめて気持ち良く生きて、死ねばいいじゃないか。
――次第に森の色合いが落ち着いてくる。シダやゼンマイの類が丈高く生え、或いは太古のそれもかくやという大きさのものも見られ始めた。瘴気も薄まり、『霞』はいつしか姿を消していた。植生自体はまともなそれに戻ってはいたが、大きさも相俟って、溢れる生命力が行き場を失っているように思われた。
差し込む光で塵のひとつひとつが煌めき、一種陶然とする美しさを覚える。最前のごった煮めいた一帯とは、天と地ほどの違いだ。
この近くにでも良い場所があればと思っている内に、沢に行き当たる。大股数歩で渡れるくらいの、浅いせせらぎだ。水の冷たさが心地良い。山椒魚が小石の陰からぴょこんと小さな頭を出しており、それが飲み水に適していることを証してくれていた。
先程までの益体もない煩悶も何処へやら、私は自然と手で水を汲み、喉を潤していた。
美味い。
月並みだがそれが率直な感想だった。
木製の水筒を満たして立ち上がると、胸一杯に空気を吸い込む。草木や露の澄んだ匂いが身体を内側から清めていく、そんな気さえした。それだけ煤煙塗れの世界に居た、ということだろうか。
足下では山椒魚が、未だそのつぶらな瞳をこちらに向けている。急に現れた得体の知れぬ生き物を値踏みでもしているのだろうか。こちらは相手を、「食ったらうまそうだな」などと思っていたりするのだが。
刺して、丸焼きにして、かぶりついて。
それにいつ獲物を獲れるか分からないのだ。今獲らずしていつ獲るのか。
……しかし不思議と、なかなか食指は動いてくれない。何故と考える内に、あることに気が付いた。
閉じ込められていた『繭』の中から出てきてこっち、いわゆる動物、あるいは昆虫の類を殆ど目にしていなかったのだ。少なくともあの極彩色の一帯までは見ていない。今はそこら中に蟻が、蜥蜴が歩き回っているし、枝葉の陰には鳥の気配さえする。四足獣の類はまだ姿を現していないが、こちらを警戒しているのかもしれなかった。
成程、とそこで得心がいく。
つまり、この地で初めて目が合った山椒魚に、一種の仲間意識を抱いているのだ。そうする事で安心感を得たいのだ。こいつと俺は知った仲だ。食うとか食われるとか、そういうのじゃない、種族を越えた何とやらなのだ、と。
であれば、捕まえるか否かなど、議論の余地もないだろう?
捕らえてシメた山椒魚を作ったばかりの竹水筒にぶち込み暫く歩いていると、少し開けた場所に出る。どれほどの広さになるだろうか。ざっと郊外にある、小金持ちの庭付き別邸くらいはあろうか。具合良く沢から支流が分かれていて、低くなった一角の端を流れている。小高く盛り上がった箇所はあるものの基本は平地で、ぽつぽつ花が生えている他は膝下まで達しないような短い草に覆われていた。木立も今までと比べれば疎らで、それでも並木になっているところも――
(……!)
思わず息を止め、ピタリとその場から動けなくなってしまう。
想定外のものが目に入り、心臓が早鐘を打つ。
身体が強張り、脂汗が滲んでくる。
ちょっとした並木になっている、その向こうに見えたのは、
(……小屋だ)
石造りのそれは藁葺きの屋根で、そこから草花が野放図に芽を伸ばしている。地面との境にはびっしりと苔が付いており、長らく人が住んでいないのだろうか、蝶番が腐食し外れた扉がすぐ近くに転がっていた。
得体の知れないものが出てこないか注視しながら、そして周囲に警戒しながら、ゆっくり、音も立てず、一段高くなった戸口に近付く。
中は薄暗い。狭い入口からのものを除けば、上部に並ぶ小窓から、僅かに光が差し込むばかりだ。それで少しばかり何が置いてあるか分かる程度で、灯りがないと仔細に検めるのは骨の折れる作業になるだろう。幸い人が出入りしている様子はなかったので、暫く拝借してしまっても問題はなさそうだった。
中に上がると室内はがらんとした土間になっており、寝台はおろか、卓も、椅子すら存在しない。代わりに壁面には鋸や金槌、シャベルの類が架かっていた。
貴重な金属類だ。錆はあるものの、実用には十分に耐えるだろう。実際にひとつ手に取ってみると、握りやすく、程良く手に馴染む。主を失って久しいのか、手の平は積もった埃で真っ黒になっていた。
次いで足下に転がっていたものを無造作に持ち上げ、光に翳してみる。こちらもやはり真っ黒で、角張った形状は厚みのあるガラス質で作られていた。そこらの破れ布で拭ってみると、あれば良いがと期待していたもののひとつ――ランタンが姿を現す。
戸口を出て、より明るい光に当ててみると、その意匠の細やかさに思わず目を奪われる。金属部分は蔦の葉の形にあしらわれ、赤銅色に輝いている。ガラス面には羽の生えた、妖精らしき姿が刻まれていた。渦巻や水紋がそれを取り囲み、隣の面へと視線を誘導する。何れの面も人間やら動物やらが、筆で描いたかのような細密さで刻まれており、五角柱全体に御伽噺か何かが描かれているように思われる。
と、中で微かに何かが揺れる感触を覚える。
油か?
底部に何かしらの液体が入っているようではあったが、ぱっと見では確認出来ない。差し口も分からなかった。家屋自体半ば打ち捨てられて久しいのだから、水でも溜まっているのかもしれない。
……最初はそう思ったのだが、よくよく考えてみれば戸口の内側のこの状況は、大分おかしかった。
均一に埃が積もり過ぎている。扉があんな状態なのだから、雨風がもっと吹き込んでいないと変なのだ。内と外とで境界がはっきりし過ぎていた。とは言えどのような原理でそうなっているのか、今の段階では何も言えないのも確かだった。
(……理由を考えるのは、ひとまず後にしよう)
被りを振って改めてランタンを調べる。真ん中に刺さる蝋燭は太く、素朴で、いかにも自前で作ったような印象を受ける。まだ使えそうだ。
こうなると火を点ける手段がないのが問題だった。今はまだ明るいが、じきに日が翳り始める。燐寸でも転がっていれば最高だが、なければ火打ち石のひとつでも見つけねばならない。或いは、農具で火花を出せれば楽だろうか。
使えそうなものはないか薄暗がりの中を探っては、手に取り差し込む光で透かし見、或いは戸口まで運び検めてみる。
鑿、画板、壊れた鋤、その他様々役に立ちそうなものや、そうでないものを分類していると、軽い小箱の感触に指がぴくりと止まった。側面がヤスリのようにざらざらしている。
燐寸箱だ。
振ってみるとカラカラと乾いた音がした。本数は十本にも満たなかったが、数日使う分には十分――いや、貴重な物資なのだから、今晩一本だけ使って、残りは緊急用に備蓄するべきだろう。
『衣食住』のうち『住』だけはこれで確保出来た。『衣』に関しては、まあ当面我慢するよりほかない。となると『食』である。
今のところ、水は沢から得られるから良いとして、食糧になりそうなものは腰に提げた竹水筒の中の山椒魚くらいのものだ。木の実や果実くらいなら、今から探しても見つかるだろうか。キノコの類には、正直やはりまだ手を出す勇気がなかった。
外に出て四方を見渡してみる。
かつてここに人が居たならば、近くに何かしら栽培されていてもおかしくないのではないか。
そう思って探してみれば、小屋の手前で壁のように立ち並んでいたのがまさにそれだった。恐らく植えられたものなのだろう、柑橘類――八朔だろうか――が生っている。足元に視線を落としてみれば、あちらこちらに赤や黒のベリー類が顔を覗かせていた。つつかれ、食べられた形跡のあるものも多い。それらをもぎって、次々ポケットに突っ込んでゆく。
すぐ横手には茂みがあった。果樹との並びを考えれば、これにも何らかの意味が――つまり人の手が入れられていると考えるのが自然なのだろうが……
淡い期待とともに緑に手を突っ込んでみるも、思わしい感触はない。雑草だらけといった感じだ。見込み外れだっただろうか。或いは単に時期ではないだけなのかもしれないが……
ひょっとしたら、と土の中に手を突っ込んでみると、確かな感触があった。手探りで周囲の土を掻き出し、ひとつそれを引きちぎってみる。卵大の『それ』は、引きちぎった断面に瑞々しいクリーム色を見せている。じゃがいもだった。
(……主食にしていたのだろうか?)
今はもういない住人に思いを馳せる。彼か彼女か、あるいは『ら』なのかは分からないが、その人物は恐らくここで作物を栽培し、果樹を植え、暮らしていた。
この倉庫のような石造りの小屋が住居だったかは分からない。が、少なくとも何らかの営みがあったことは確かだ。誰が訪れるかも分からぬ、こんな深い森の僻地に。
……どうしようもない不安が押し寄せてくる。
外敵の有無とか、この世界の仕組みがどうとか、そういうことではない。
殆ど自然『しか』ないという、ただそれだけで、いやに心許なくなってくる。
「……ひとりになっちまったな」
紛らわすように嘯きとも愚痴とも取れぬ呟きを異郷の空に向けて漏らすも、それでかえって感傷的な気分になってくる。放擲してきた筈のものに、今更胸を締め付けられそうになる。
何でこんなところにいる?
『やり直す』ためか?
それなら誰も知らない、遠い街で、経歴を嘘で糊塗して、また始めればいいだろう。
そうしていないのは、そんな諸々の関係全てに、嫌気が差したからじゃないのか……?
あのとき感じたのは、孤独だった。
今のこれも、孤独であることに変わりはない。
しかし二つの孤独は同じようで、何かが決定的に違っていた。
……何れ慣れてしまうだろう。別段、誰かと仲良くなろうなどとは思わない。
それでも湧き起こってくるものに、誰もいないのに私は、涙が零れるのを堪えていたのだった。




