26.一宿一飯
「馬房の掃除、ありがとうございます! すみませんが飼い葉の方もお願いして宜しいですか?」
「ああ。必要だったらウチの山猫を使ってくれ、あれでなかなか力があるんだ」
「ありがとうございます!」
バケツに汲んだ水を口に咥えて運んでいたテトが、とことこと少女の前にそれを置く。少女がその顎を撫でると、山猫は気持ち良さげにゴロゴロと喉を鳴らした。
厩舎の中には全部で十二頭の馬がいる。雄が六頭、雌が六頭。そのそれぞれに名前が付けられているが、馴染みのない響きですんなり頭に入ってこない。フリメールとかプレリアールとか、欧州圏のそれというのは分かるが、どこのどういう意味かなどは全くもって分からなかった。
件の身重なのは、ジェルミナールという名前らしい。今回が初産で、それ故一家としても不安であり、楽観視出来ないのだった。
「下手な手助けは、次のお産に影響してしまいますからね」
場合によっては変な癖がついたり、育児放棄する例もあるという。
「そもそも野生ではひとりで産んでいますからね。まあ、だから見守る必要もない、とは思いませんが……。ウチでは、生まれたばかりの馬がどうしても膜を破れない、身体が一向に出てこない時などを除いて、あまり手助けしないようにしてるんです」
歯痒いですね、と彼女は苦笑を浮かべる。結局のところ、主役はあの牝馬と生まれ出て来ようとしている仔馬なのであって、少女を含めその他大勢は脇役に過ぎない。脇役が脇役たる役目を逸脱すれば、舞台効果的に大きく印象が変わるだけでなく、物語の行く末にまで影響を与えかねない。専門でないのなら尚の事だ。
(……しかし、なかなか足腰を使うな)
ウキクサは細く息を吐いて、額に滲む汗を拭った。作業を始めてから小一時間程経つが、未だ例の馬に変化は見られない。
(長期戦、ってやつだな)
だらけてしまいそうな身体にウキクサは活を入れると、厩舎を出て飼い葉置き場に向かうのだった。
――――――
遡って一刻前、戸口から離れたウキクサが真っ直ぐ向かったのが、この馬小屋だった。怪我人が出た為切羽詰まっていたのだろう、糞は処理されておらず、馬も落ち着きなく、或いはイラついているのが傍目からでも分かる。
奥の少し広い一画だけが、動きの多い他と違って、馬の姿もなくがらんと静まり返っている。そこだけは綺麗に清められており、何かに備えているのが一目瞭然だった。
「ここがお産の為の馬房か」
誰となしにに問えば、「は、はい」と追って来た少女がそれに答える。その馬房の真横にひと目でそれと分かる、腹部の張った馬の姿があった。掃除の途中だったのだろう、中は不自然に綺麗な箇所とそうでない箇所に分かれている。母馬は落ち着かなげにぐるぐる歩き回り、全身にびっしょり掻いた汗が差し込む光で美しい毛並みを鈍色に輝かせている。馬体から立ち上る汗とともに、一帯には独特の臭気が漂うが、不快というよりは、これが生きているもののにおいなんだな、という良く分からない感想が浮かぶ。
「……馬を間近で見るのは初めてなんだが」
言って振り向いた母馬の精悍な顔立ちに向かって、
「美しいものだな」
その言葉が通じたのかどうか、母馬――ジェルミナール号はぴたりとその足を止め、じっとこちらにその視線を向けた。
「……『旅は道連れ、世は情け』なんて言葉があるが、まあ袖擦り合うも何とやら、って言うし。手伝ってやらないか?」
「本当ですか!?」
少女が喜色を露わに笑みを浮かべる。
「なんじゃ、お主は気乗りがせんのかと」
シアが苦笑混じりに言えば、カルミアからも「紛らわしい」と言われてしまう。どうやら皆異存はないようだった。
「ひょっとしたらダイフクの力が役に立つかもしれないし、レイに料理を手伝って貰うことも出来るしな」
「でもこちらは何もお返し出来るものがありませんが……」
少女が僅かに俯くも、
「なに、こちらとしては雨風を凌げれば御の字なんだ。どこか適当な空き部屋でもないかな?」
「あ、はい、それなら……!」
言って彼女は「母に聞いてきます!」と駆けていく。その姿が外に消えるのを待って、おもむろにカルミアが近寄ってきて、
「一瞬本気で断ろうとしたでしょ」
くすりと笑みを浮かべた耳打ちは、どこか悪戯っぽい。
「ご名答」
そう返すしかなかったが、彼女は断ろうとした理由の方は強いて聞いてこない。反対に聞かれたのは、翻意の理由だった。
「そんな難しい理由じゃないよ」
被りを振って、ぼんやりと灰色の母馬に視線を向ける。
「最初は、利己的になろうと思って、面倒事に巻き込まれるのは御免だと思ったんだ」
「うん」
「だけど、助けるのにいちいち理由が必要なのかって考えると、馬鹿らしくなって。本当の意味で利己的になると、助けた方が気持ちがいいんだよね。気持ちがいい、ってのはどうやら俺の中では重要なものらしくて」
「まあ、そういうの、嫌いじゃないわ」
「打算がなかったかと言われると、微妙だけどね」
「お陰で屋根がある場所で休めるじゃない」
「まだ決まった訳じゃないけどな。それに……」
母馬に向かって手を伸ばす。
「おい、興奮してるから危ないんじゃ――」
シアの心配を他所に、ジェルミナールは一瞬頭を垂れて大人しく撫でられ、すぐにまた落ち着きなく歩き始めた。
「動物にも魔術が使えるのなら、それにかかったのかもしれないな」
そう言って軽くおどける。尤も、半分は本気だ。子を産む為に万全の体勢を整えたいという母馬の執念のようなものが、自分にそんな気を起こさせたのではないか。手にべったりとついた馬の汗のにおいを嗅ぎながら、そんなことを思ったのだった。
――――――
「にいちゃ、アイもてつだう!」
「本当かい? じゃあ人参を二本ほど、持って来て貰えるかな?」
「アイにまかせて!」
そう言って野菜の貯蔵庫に向かう幼児の背を、何とも言えぬ心持ちで少年が見守る。妹がいたらこんな感じなのだろうか、とそんなことを彼は思う。
レイに家族はいない。父母は知らないし、兄弟がいるかどうかも分からない。唯一の縁者が、店の先代でもある叔父だった。その叔父も、今や何処にいるかも分からない。
(家族ってどんな感じなんだろうな)
ぼんやりとそんな事を考えつつも、手元は動き続けている。みじん切りにされた玉葱がボウルの中で合い挽きの肉と混ぜ合わせられる。
(ソースをどうするかだが……)
店で出すようなデミグラスソースは用意出来ない。出来合いのソースもないのであれば、
(白でいくか)
小麦粉、牛乳、バターを適量取って、肉を焼き始める。と、そこで、
「もってきた!」
得意そうに幼児が人参を二本、両手に持って突き上げていた。
「おお、ありがとうね、さすがだねー!」
「このくらいならアイもできる!」
「お、頼もしいねー。じゃあ、今度はその人参を綺麗に洗って貰おうかな?」
「おまかせ!」
そう言って鼻歌混じりに水場で洗い始める。幸い泥はあまり付いていなかったようで、手渡されたそれは問題なく綺麗になっていた。
「あ、ねこさん」
洗い終わった頃テトが母屋に戻ってきて、幼児がすぐにそれに反応する。
「お疲れ様です」
「お疲れ〜」
カルミアが肩と首を回しながら戻ってくる。
「飼い葉ってあれ、重いのねえ。下手に手伝わないでウキクサに任せときゃ良かったかも」
そんな愚痴めいたものを吐きながら、テトの顎を摩る。ゴロゴロと喉を鳴らす山猫に、幼児の目が釘付けになって――
「アイシアちゃんも一緒に遊ぶ?」
「いいの!?」
言って幼女がちらとレイの方を向く。手伝いを放り出すのに、少しばかり気が引けるのかもしれない。
「じゃあ、馬鈴薯を綺麗に洗って貰おうかな。そしたら猫さんたちと遊んでいいよ」
「わかった!」
言って彼女は再び貯蔵庫の方へ駆けてゆく。
「子どもは元気ね……お母さんの方は?」
「お二方の治療が上手くいっているようです」
「おお、良かった良かった。ちょいとシアたちの様子も見ておこうと思ってたから」
「ああ、もしそちらへ行かれるのであれば、三十分ほどで出来上がると伝えていただけませんか」
「分かったわ」
駆け戻ってくる子どもを後目に、カルミアは母親の寝室へ向かった。中ではシアが手を翳し、ダイフクはいつぞや彼女にやったような感じで腕に取り付いている。
「具合はいかがですか」
身を起こした母親に問えば満面の笑みで、「大分マシになりました。殊に腕の痛みが消えていってるのが、嬉しいですね」
言って彼女は妖獣に目を向ける。ダイフクは治療途中らしく、未だ身体を薄紅色に染め、内部には青黒い靄が凝っている。例の『鷹の爪』を服用したのだろう。
「前腕部と腰部の打撲はダイフクがなんとかしてくれとる。問題は骨じゃな」
「ホネ?」
カルミアが首を傾げる。
「前腕部の骨にヒビが入っておる。ダイフクが治そうにも、材料が足りないのじゃ」
言って妖精が『薬箱』を取り出す。中には様々な丸薬や正体不明のカケラが仕切りで分けられているが、この中には役に立つものがないということか。
「で、どうするの」
「こればかりは時間をかけて、ゆっくり自然にくっつくのを待つしかあるまい…………と、普通はそうなるのじゃが」
「普通じゃない妖精のシアさんには、他に手があると」
ニヤリと妖精がそれを肯定して、
「マナの力でヒビの部分を接合する。あとは代謝を活性化させて、回復を促す」
「マナで接合?」
どうやってやるのか見当もつかないが、シア曰くそれなりに体力を消費する為、極力使いたくはないらしい。今日に関しては、一宿一飯の恩義に加え、仲間に安心して身を任せられるから、とのことだった。
「まずは儂が接合して、代謝の活性はダイフクに頼む。時間としては、まあ合わせて四十分といったところかのう」
「あ、ご飯三十分で出来るらしいよ」
「む、そうか。まあ慎重に、丁寧にやろう――あ、ご婦人」
「は、はい」
気付けば母親の表情が曇っている。施術に懸念があるのだろうか。
「マナの侵食はないからご心配めされるな」
そう言うと、母親の表情が緩む。
身体を動かしてすっかり頭から飛んでいたが、この界の人間は、『変貌』を極力避けようと思って渡ってきた者だと言う。その辺りの配慮は、必須だろう。
「まずは剥離部をマナで固着させ、次いでマナ糸で骨全体を固定する。そこを目印にダイフクが局所集中で活性化させる。自分の力で回復するだけじゃから、特に問題はなかろう。後はダイフクに儂のマナを回収して貰う。出来るかや?」
シアがダイフクに問うと、ボフ、と青黒い煙が上がり、それが綺麗な輪を描く。了解した、という意味だろうか。
「分かりました、委細お任せ致します。それと、組成率に関しては、私たちは親世代ほど気にする方ではないですので、お気遣いは無用ですよ」
「で、あるか」とシアは患部の上に手を添えると、静かに目を閉じる。
「原理としては自分の回復力で骨を治すから、術後は多少食欲が亢進するじゃろう。儂は多分術式が終わったらすぐ眠ってしまうじゃろうから、その分ご婦人か、皆で分けてくれると助かる」
シアの指先が発光し始める。術式が始まったようだった。これ以上ここにいても邪魔になるだけだろう。
「アイシアちゃんと遊んで待ってるわね」
「うむ」とだけ妖精は返し、手元の感覚を研ぎ澄ましていく。
カルミアが後ろ手に、静かに扉を閉めると、アイシアが山猫の上に乗っていた。幾分おっかなびっくりで、山猫の方もそれを感じ取っているのだろう、時折ちらと子どもの方へ目を向けていた。
(ポニーに乗ってるみたい)
そう思いくすりと笑み零れた次の瞬間、脳裡に何かの影像が浮かぶ。
子どもがポニーに跨っている。後ろには小さな向日葵畑が、夏の日差しを受け、丈高く、気持ち良く伸びている。
(……子供の頃の、記憶?)
正確な場所は思い出せない。どのくらい前なのかも、やはり判然としなかった。正確な記憶が残っているのは五歳前後からだから、恐らくそれ以前なのだろう。歯痒さに似たものが立ち上ってくる。
「わわっ!」
その声にハッと自分を取り戻す。見れば少女が山猫から落ちそうに、首にしがみついていた。テトはそれをゆっくり地上まで導くと、目を閉じ尻尾を左右へ振ってみせた。
アイシアは憮然とした表情を隠し切れていない。途中で落ちてしまったのが悔しいのだ。
「ねこさん、もっかい!」
アイシアが言うと、山猫は伏せて彼女が乗りやすいようにする。女の子の眼差しはそれまで以上に真剣になっていた。
ぼんやりそれを、カルミアは見つめる。記憶の底に沈んでいた澱の正体を探して。
しかしそれも、アイシアが乗るのに慣れてきゃっきゃと笑い声を上げるまでで、気付けばカルミアも一緒になって彼女と遊んでいるのだった。
半刻後、治療を終えた母親が、膳の並べられたテーブルの前に戻ってくる。
「あら美味しそう、ありがとうございますね」
そう言ってレイに笑みを向けた。
「いえ、このくらいお安い御用です」と彼は返しながら、母親の腕を見て、「お加減の方は、如何ですか」
母親の腕はギプスで固められていた。余計な力が掛からない為だろう、三角巾で吊るしてある。
「一日こうして固定していれば、もう大丈夫らしいです。お産に間に合わないのが心苦しいですが……」
まあ、それについてはどうしようもない問題だ、とレイは思う。治療法があろうがなかろうが、彼女は直接的な仕事をすることが出来なかった。それはしょうがない。
しかし彼女なら指示が出せる。経験と知識がある。
上の子はある程度の詳しさは持ち合わせているが、いざというときの対応力はまだまだだろう。
「御指導頂けると助かります」
そう言って卓につく。見張り番である上の子とウキクサを残して、皆が揃っていた。例外的に、シアはダイフクの上で大の字になって大鼾をかいているが。アイシアは大人数で食べるご飯に少しばかりはしゃいでいた。ホワイトソースのハンバーグも一家には新鮮だったらしく、レイが母親から熱心にレシピを聞かれていた。
馬のお産が始まったのは、その夜半頃だった。




