25.第六の異界
第二部になります。
宜しくお願いします〜
「……んっ」
ウキクサの視界が白く染まったのも束の間、足元に感触を覚えた。特段固く荒れているのでもなければ、フワフワしている訳でもない。若干柔らかめの土の上なんだろうなとは思うが、まだ目がやられている為確かめる術もない。
そんな中を、ふわりと風に乗って漂う香りがある。花の匂いだ。嗅いだことはあるが、興味がないから何の花かまでは見当がつかない。だが誰でも知っているような、有名な花の筈だ。
次第に目が慣れてくる。果たしてそこには花畑があった。白く広がる花弁には見覚えがある。あれは確か――
「ジャスミンか。良い匂いじゃ」
シアが深呼吸をする。ダイフクも一緒になって真似ていた。鼻があるのか、分からないが。カルミアは山猫の背に凭れ掛かり、少しの間気を失っていたようだった。尤も、すぐに目を覚ましたが。「ジャスミン……」とだけ彼女はぽつりと呟くと、次いで胡乱な眼差しをあちこちに向け、更にひと言、
「ここが、第六の異界?」
ジャスミンの広がるそこは、川沿いの草原になっている。現在地はその中でも日当たりの良い高台だった。
「……彼岸には渡れなくても、こっちには渡れるのね」
などとカルミアがワケの分からぬことを口走っているが、それは措いても、強い違和感は覚える。
「黄昏時だったよな」
見上げれば、太陽は中天に掛かっていた。月の位置までは覚えていなかった。
「ああ、それは『時差』によるものじゃ」
「時差?」
どうやら界を渡ると標準時も変わるらしく、その辺りは『向こう側』と良く似ている。時間そのものの尺度に変化は生じないので、交易は比較的スムーズに行えるとのことだった。
「尤も、それを望むかどうかはまた別の問題じゃがな」
「どういうことだ?」
「前にも触れたかもしれんが、各々の持つ思想によって界の住み分けがなされているような側面があってのう……」
「――この界層は偏屈な人間が多いらしいですからね」
少年の声に振り返ると、そこには見覚えのある姿があった。
「レイ」
少年は苦笑を浮かべながら、
「考え込むのは一旦やめにしました。まあ……飛び込んでしまったからそう思うことにした、というのもありますが。店はアベルさんが残しておいて下さるそうです」
言って少年は懐から、ずしりと拳二つ分はある袋を取り出してみせる。中身は言わずとも察せられたが、レイはそれを開けてみせると、「当分の路銀にはなるかと」
日の光を受けて、鈍色に銀貨が、そして銅貨が煌めく。
だがこれを受け取るのは少しばかり気が引ける。彼が時間をかけて貯めたものであろう事は容易に察せられた。しかしそんなこちらの心中を知ってか知らずか、
「皆さん、お金は持っているんですよね?」
「「「…………」」」
そう。皆カネを持っていない。シアが幾らか持っていると言えば持っているのだが、それもあと銀貨が数枚といったところだ。どうあっても、好意に甘えるしかない。
「……結構、行き当たりばったりなんですね」
そう言われてしまうのも仕方がないだろう。何れ金を稼ぐ方法を考えねばならない。そう言うと、
「なら行商はどうじゃ」
「行商?」
「各界層の特産品を、別の界で売るのじゃ。空間的な断絶がある分、高値で売れると思うが――まあ、買い手が付けばじゃが」
「素人が手を出したら大失敗しそうだな。因みにその手の経験は?」
「無論、ない!」
胸を張って妙に清々しい表情を浮かべているが、強いてそこにツッコミを入れる気にはならない。カルミアは移動販売程度ならやったことがあるというレベル、レイも似たようなものだった。ウキクサに関しては言うまでもない。人間、生きていく上で根拠のない自信は重要だと思うが、それも時と場合によるというものだろう。
「……まあ、それについてはおいおい考えよう」
被りを振って眼下の緑を見下ろせば、川岸に沿って道が続いている。雑草も多く、轍の跡も見られないが、明らかに人の通る道として使われているものだ。
「誰も道の分かる奴がいないなら、取り敢えずあの道を下ってみるか?」
「それがいいかもしれないわね」
「異議はないのう」
一応シアはどの界にも行ったことがあるらしいが、流石に今どの辺りにいるかまでは分からないらしい。
「街に出れば、すぐ分かるとは思うんじゃが……」
「急ぐ旅でもなし、のんびり行けばいいさ。……で、この界層の人間は、どう偏屈なんだ?」
シアとレイに訊いてみると、何故か二人揃って一瞬空を見上げる。
「「?」」
カルミアと二人で首を捻っていると、
「組成率についての話はしたと思うが、覚えておるか?」
身体が徐々に『こちら側』のものに置き換わっていくという、あの話の事だろう。
「無論、覚えているが」
「変異の程度や世代によって『帰還』が難しくなると言ったが、実は自分でどの程度比率が偏っているか知ることが出来る」
言ってシアは再び空を見上げ、そこに浮かぶ二つの白い弧を指差す。
「アレじゃ」
「月?」
物心ついた頃から目にしてきた、見慣れた大きな月と、こちらで初めて目にした、斑紋のある小さい月。
「徐々に見えなくなるんじゃよ、あの大きい方が」
「「…………」」
月が、見えなくなる。
自分と『向こう側』を結ぶ、唯一の縁である月が。
この地に来たばかりの頃、一人の夜に、良く夜空を見上げていた。見慣れぬ星空に見慣れぬ月。――そんな中にあってあの大きな月だけは古い知己であり、この世界にとって恐らく異物である自分の存在を無条件に受け入れてくれている……そんな風に思ったものだった。
翻ってコンクリートの海の中で暮らしていた頃は、そもそも空を見上げる事もなかった。
そういう存在。当たり前だからこその無関心。月明かりのありがたさなど、考えてみたこともなかった。
それがダイフクと出会い、カルミアやテトが現れて、シアが出てきた頃には再び見上げなくなるのだから分からない。
「夜空とは、そういうものなのかもしれんな」
「そういうもの?」
「一人のときは見上げてしまうが、人の中にいると気にも留まらない」
この間満月を見たと思ったらいつの間にか半月になり、気付いたら新月を通り越して三日月が浮かんでいる。そんな経験は、誰しも一再ならずしていることだろう。
「そういう意味では、この界層の連中は『昔カタギ』なのかもしれんのう」
「『昔カタギ』ねぇ……因みにシアやレイは、どのくらい見えるんだ」
「私はほぼ完全に見えますね。時折霞むくらいでしょうか」
「儂は種族特性とでも言うべきかのう、全く問題なく見えるのじゃ。後は竜種も同様の筈じゃな」
その辺り、例の神話の時代にあちらとこちらを良く行き来出来ていた事と関係があるのだろう。
「挨拶にも使われているそうですね。『月は見えるか』とか。……まあ、『一部では』という但し書きがつくので、大丈夫だとは思いますが」
「一部、ねえ……」
嘆息混じりに川に目をやれば、水面には魚影が幾らか認められる。この分なら、当面食料には困らないだろう。
「あ奴らが最も嫌うのは、比較されることじゃろうか」
「比較?」
「というより、議論かもしれんな」
妖精は頭を掻きながら、
「月が見えても見えなくてもいい、とか月が見えない方がいい、とか。そういった議論を好む連中を嫌うイメージじゃろうか」
「……その手の人を面倒臭いと思うことはあるけど、私は嫌うまではいかないかなあ」
テトの上でだらけている女が、薄目を開けて言う。自分も同じような感想だった。
「表現が難しいんですが……」
レイが慎重に言葉を選びながら、
「思想の多様性は認めても、それと交わるのはあまり積極的ではないと言いますか……店に現れた客限定の話になってしまいますが、自分たちの在り方に自信を持っている方が多かった印象です」
「要するに、頭が固いんじゃ」
バッサリとシアがぶった斬る。
「他の界はそうでもないんじゃ。所謂職人気質な頑固親父のそれとはニュアンスが違う。もっと排他的な印象じゃった」
ぷりぷりとにべもない調子のシアを後目に、最前の川でダイフクが魚を獲り始める。もちもちした丸っこい物体が魚以上の俊敏さで獲物を仕留める様は、傍から見ていて異様と言う外ない。それを見てテトがうずうずし出したのを感じ、カルミアがその背から降りると、山猫は勢い良く川の中へ駆け下り、瞬く間にクマ宜しく岸辺に魚を跳ね飛ばしてゆく。
「要するに、タブーって程じゃないんでしょ?」
身体を解しながらカルミアが言う。
「どっちかって言うと、その手の面倒臭さそうな話より、私は早く服を買いたいわ」
着ている服を摘んで軽く嗅ぎ、あからさまに顔を顰める。
「暫くお風呂にも入ってないし」
言われてみれば、軽くでも水浴びが出来たのは、隠者のところで湯を借りて以来になる。体は毎日拭っていたが、結局あの宿場町でも入れていない。「あはは……」とレイが気不味そうに視線を逸らすが、むべなるかなといったところか。
そうこう言っている間にも、川岸には次々と魚が並べられていく。軽く十匹は下らない。獲り過ぎにも思えたが、集落がどれくらい先か分からないし、状況次第では物々交換のタネにもなる。だがそれ以上に――
「……私もちょっと、水浴びしてくる!」
そう言ってカルミアも斜面を降りていく。まあ、二匹があれだけ楽しそうに遊んでいるのだ。汗もかいているし、入りたくなるのは自然というものだろう。
結局皆で水浴びをして、魚を焼いて食う。塩を振っただけのシンプルなものだが、王道の美味さだ。
「ね、こういうとき不便でしょ」
背後から声が聞こえる。
そう、水浴びをするということは服が濡れるということでもある。そして濡れた服は乾かさなければならない。
結果、男性陣は服が乾くまでの間、川の方を向いて魚を頬張る羽目になっていた。「じゃから儂は性が……」と何やら妖精が言っていたが、適当に聞き流しておく。
自然、妖獣二匹とカルミアが後ろで食っていたのだが、バリボリと骨を噛み砕く音は、横にいて姿が見えるならまだしも、振り向けない状態ではあまり心臓に宜しくない。
「分かったよ、市に着いたら服な。……すまんがレイ、貸しにしておいてくれないか」
「貸しと言わず、普通に必要経費で出しますが――」
「いや」
続けようとするのを制止してウキクサが神妙な顔を浮かべる。
「人間、一度楽を覚えると抑えが利かなくなるもんだ。金やアテがあるならともかく、今はその状態じゃない。然るべき時にきっちり本人から取り立ててやってくれ」
「えっ」
後ろから困惑してるんだか引いてるんだか分からない声が聞こえてきたが、きっと気のせいだろう。
そんな具合で一昼夜、川に沿って道を下る。気候も穏やかで暖かい為、野宿とは言え比較的快適に過ごせた。綺麗な水が近くを流れているのも助かった。考えてみれば朝が冷え込むことも少なくなっていた。ともすれば土地の気候は関係ないのかもしれない。
「立夏の祭りも間近じゃからのう」
シアがそんなことを口にする。
区分上春と呼ばれる期間は、九十日存在するらしい。そしてレイによれば、今日がその、『春の九十日目』だという。つまり明日が『夏の一日目』、『立夏』だ。
この立夏の日には、どこも豊穣祈願の祭りが催される。農業や畜産に携わる人が主役だが、街の者皆がこぞって繰り出す日であるらしい。
(……そう考えるとやはりこの世界に来たのは、こちらで言う『立春』の辺りになるか)
既にそれだけの時日が経っていることに驚きを覚えるが、密度としては疑いなく濃密な日々だと言える。一日一日が新しいものとの出会いだからだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、遠方、丘の向こうに煙らしきものが一筋立ち上っている。恐らく人家があるのだろう。
いよいよここの第一村人と接触だ。そう考えると妙な緊張感に襲われる。
「表情がカタいのう。柔和な笑みをしろとまでは言わんが、もうちょい自然体でないと警戒されるぞい」
「そう言われてもな……」
正直、こういうことはあまり得意な方ではない。カルミアのときなど、変に緊張して声が裏返っていた。忘れてくれているといいが。
やがて馬小屋のようなものが見えてくる。最前の煙は隣接した家屋からのものだった。
子どもがその扉から姿を現す。歳の頃はレイと同じくらいだろうか……見た目上は。手には桶らしきものを持っており、こちらを認めて珍しいものでも見るような目を向けてくる。
「ねえちゃ、どしたの」
姉を追い掛けて来たのだろう、幼児が彼女の脚に抱きつく。こちらは五歳前後といったところか。その子もこちらを見つけて、
「ねえちゃ、あいさつしないとだめなんだよ」
そう口にして、「こんにちはー!」と笑みを向けてくる。ほのぼのする笑顔だ。
こちらも「こんにちは」と挨拶を返すと、「おお」と幼児の目が二匹の妖獣に注がれる。
「ぷよぷよと、おっきいねこさん……」
姉の脚に抱きついたまま、興味津々といった感じだ。
「旅の者なんですが、街への道筋が分からなくて」
カルミアが事情を説明すると、「界渡りですか」と彼女も徐々に警戒を解く。
「ここは街のあるところからもそれなりに離れているので……集落までは草原を数時間歩けば着きます。それなりに規模のある街となると数日は……」
「ああいや、集落まで着けばまた誰かしらに聞けば問題ない。すまんのう、取り込み中に邪魔してしまって」
「いえ、それは別に――」
シアの言葉に姉が返そうとして、
「ねえちゃ、おうまさ、おうまさ!」
幼児の方が姉の服を引っ張る。聞けば馬が産気づいているらしい。折悪しく父親は祭りの準備で街まで下りており、重ねて不味いことにその後母親は産気付いた馬に蹴られて腕と腰を痛めてしまったらしい。
つまり子ども二人で怪我をした母親と馬の面倒を見なければならないという状況だ。
「…………」
別に、善人になるつもりはない。
話を聞いてしまって、ちょっと手伝いを申し出るくらいしてもいいかという気分にはなるが、別に見返りが欲しい訳でもない――という善人思考。或いはクソ真面目と言い換えるべきか。三十数年生きて宿痾のように凝ったその思想から脱却せねばならない。
……じゃなきゃ、こんな場所に来た意味がないじゃないか。
「行こう」
強引に促して、シアたちを戸口から引き離す。困惑の声を無視して黙って進む。何か言われているのは分かったが、何と言ったかまでは耳に入ってこなかった。
(もっと利己的になっていいんだ)
そんな心の声が聞こえてくる。
(もっと利己的に……)




