24.黒い花
第七異界、結節点の街。その北側に位置する建物の屋上に、一人の男の姿がある。
男は夜空を見上げ、酒杯を傾けては、時折眼下の薄汚れた街灯りを睥睨する。
街の向こうに広がる荒野は茫漠としているものの、ぼうっとした月明かりに僅かばかり温かさを与えられているようにも思われた。
雨が僅かに、風に乗って男の頬をさらさらと濡らした。空にかかる雲は薄いので、通り雨の類だろう。雨滴は生温く、既に春も終わりに近いので、いっそ心地良い部類とも言える。
「良かったのか」
男に声が掛けられる。陰気な声音に男は変わらぬ様子で、「何が」と返す。声の主は溜息混じりに、
「本当の事を言わなかっただろう」
「本当の事しか言わなかったぞ」
そう返す男――カインに、陰気な声は鼻で笑う。
「そういうのを、屁理屈と言う」
「ふん」
カインは再び酒杯を傾ける。月明かりに琥珀色が美しく透けて見えた。
「起きた事実は一つでも、その解釈なんてテメェで勝手にすればいいのさ」
「『事実』を正しく教えないのは、不義理だとは思わんか?」
「思わんね」
開き直ったように大仰に腕を広げてみせるカイン。
「本人がその説明で納得しているんだ。これ以上話を混ぜ返す必要もあるまい。優しい嘘、ってやつさ」
陰気な声は呆れたように嘆息をついた。
「……しかし面白い連中だった。そうは思わないか?」
カラコロとグラスの氷を鳴らしながら、カインはそんな事を言う。
しかし問い掛けに返ってくる言葉は何もない。僅かに風がそよぐばかりだ。屋上にはただ一人、カインの姿しかない。ややあって、
「……まあ、面白くはあったか」
そう、陰気な声がカイン自身の口から漏れた。
――――――
「……逆に記憶の復元は出来ぬのか?」
ウキクサににべもなく断られ嘆息をついていたカインに、シアがそんなことを訊いた。無理と言われて肩を落としていたが、何か思い出したい事でもあるのかもしれない。
自分はどうだろうか?
(…………)
自問してみるも、意外にもなかなかそんな場面が出てこない。思い出したいような、忘れてしまいたいような、そんな薄ぼやけた情景しか出てこない。
「あんたも、本当にいいのかい?」
カインは今度はカルミアの方に向き直り、再度そう問う。女の方は『お断り』とばかりにひらひらと手を振った。
「そうかい……まあ、あんた一癖も二癖もありそうだしねえ」
「どういう意味よ」
カルミアが不機嫌そうな溜息をつくも、何故かカインはくつくつと含み笑いをする。
「……何よ」
「いやあ、大した女優だなあと思って」
途端、空気が凍ったように張り詰める。否――カルミアが怒気を張り詰めるが、カインの方は何でもないようにへらへらと笑いを上げ始めた。
「どういう意味よ」
「言葉通りだ。これでも山程色んな奴を診てきたんだ。その位は分かる」
言って男は尚も軽薄な笑みを浮かべた。カルミアは軽く舌打ちをすると、相手にしていられないと顔を背ける。
「まあ、あんたらの問題だから口は出さんがね。いつかえらい事にならんといいな」
言うだけ言って男は再びウキクサの方に向き直る。
「妖獣は上手く記憶を読めないからな。となるとやっぱりあんただが……」
「さっきも言った通り、その手のことはお断りする。別にそれで困る訳でもないしな」
「分かってる。だからここから先は、お願いだ」
「お願い?」
首を捻っていると、
「あんたの記憶、少しばかり読ませてくれないか。事前報酬として」
そんな事を男が言い始めた。
「事前報酬だと?」
「ああ。案内人としての仕事の報酬の、まあ前払いとでも思って貰えればいい」
「……自分で言っていて、面の皮が厚いと思わないか?」
「そうなのかもしれんがね。しかしこれはこれで、正当な報酬だとも思わんか? 小僧の問題は小僧の問題、同意なしにあんたらの記憶を覗こうとしたのはまた別の問題、そして結節点までの案内は更に別種の――コレはコレ、という奴だ」
呆れて物も言えないとはこの事だが、男は特段動じる様子もない。どこまで本気で言っているのだろうか。
「.……あんたの兄弟の、アベルって人はどこでつかまえられる?」
「アベル? ああ、あいつに連れてって貰うつもりか。ここにいるからすぐに会えるぞ。まあ、奴の気分次第だがな」
気分次第? これだけガタガタやってたんだ。階上に居室があるか分からないが、普通なら何事かと降りてきていておかしくない。
不審に思っていると、やおらカインは目を瞑り、数秒の後、それをゆっくりと開く。それとともに、何だか気配まで変わった気がする。姿形は変わらない筈なのだが、相貌が明らかに別人のそれになったような――
「……ん?」
そしてそれとは別に、明らかな違和感を覚える。数瞬前と顔のパーツの何かが異なる気がして、
「……そんな瞳の色だったっけ?」
カルミアがそう呟く。今目にしている男の瞳は群青――深海の静謐さを湛えている。先刻までは焦げ茶か、それに類した色をしていた気がするが。
言われてもカインはぼんやりとしたままで、陰気な眼差しを一同に向けていた。
「…………アベルさん」
レイのそのひと言で、全てが氷解する。
即ち、二人は双子ではなく、同一人物、ということだ。
とは言えレイの反応も少しばかり変だ。ぽかんと口を開け、驚きと困惑の面持ちで男を見つめている。
対して男の方は、「久しいな」と、レイの言葉を肯定しつつ、同時に何でもない風で、「お前は知らなかったか」などと気怠げに頬を摩る。気付けば幾分猫背になっていて、それが無表情なのと相俟って、冷たさより事務的な空気や陰気さをいやましている。
「お主ら、双子ではないのか」
シアが問えば、
「体が別だったことはない。意識は恐らく生まれた時から別だったが」
さらりとそんなことを言ってのける。
一つの体に二つの意識、つまりは多重人格か。後天的なイメージが強いから、或いは全く別の括りなのかもしれないが。何れにしろ、その状態で生活をするというのは、尋常なことではないだろう。
「そんな事より、結節点を探しているんだろう。案内する」
それだけ言うと白衣を脱ぎ捨て、粗末な黒い外套に袖を通しすたすた歩いて行く。呆気に取られ急いで着いていくと、アベルはまず建屋の外に出て、迷わず裏路地の方へと足を向ける。
罠である可能性も考慮して警戒すべきかとも思ったが、ダイフクとテトが楽しそうに着いていくのを見ると、まあいいかという気分になってしまった。考えてみれば自分より危機察知能力が高い二匹だ。下手にどうこうするより、任せるのが良さそうだった。
ちらと後ろを振り返れば、少し離れたところにレイの姿があった。足取りは明らかに重い。遠慮がちに、というのとは少し違うそれだ。迷いながらもついて来ている、そんな風だろうか。視線は時折泳ぎ、ともすれば伏し目がちになっている。
一方、アベルはそんな他人の事情などいちいち斟酌したりしない。『案内人』としての誠実さは自分の仕事を実直に遂行することであって、客の『子守』は仕事の内には含まれない。
「ねえ、ここから遠いの?」
カルミアが山猫に追いつきその背を撫でながら言うと、「距離がどう、というのは一概に言えない」と返される。
「結節点は絶えず動いている。広場のど真ん中に現れることもあれば、いつの間にかあばら屋の厠の上に鎮座ましましている、なんてこともある」
「じゃあどうやって見つけるの?」
「目だ。特別感度が良くてな」
聞けば、『案内人』という職には、特殊な能力がなければ就けないのだという。アベルの場合は目だ。術をかけると、結節点のある方向が歪んで見えるのだという。確かにアベルの瞳はぼうっと微かに光っており、裏路地の向こうの茜色に染まる空と好対照を描いている。
『案内人』の総数は極めて少ないらしく、全階層を合わせても二百人程度と言われているのに加え、能力のない者が結節点を探すと圧倒的に面倒で時間が掛かる為、各界層に必要不可欠な人材なのだという。また、アベルが言うことには、
「結節点は異界と異界の繋がる要として広く認識されている。だから一般家屋内に現れた場合は、公益が優先されて立ち入って良いという暗黙の了解が存在する。それを逆用して他人のプライベートを覗き見る輩もいる訳だが――そんな偽物はバレた時点で周囲にボコボコにされる」
「あんたの兄弟もその部類じゃないのか?」
「あれは案内人の仕事とは別につまみ食いしてるだけだからな。ちゃんと『目』もあるし、別に問題はない」
客の『子守』はしないが、聞かれた事には普通に答えてくれるらしい。その辺り、天の邪鬼なカインとは正反対だろうか。
そんな具合に薄暗い裏路地を登り続け、やがて石畳の先に見晴らしの良い空き地が現れる。生い茂る草花は燃えるような茜色に包まれていた。決して広くはない。十二畳程の狭い空間だった。片隅には膝丈大の石像が、傾き半ば倒れかけていた。
「そこだ」
不意にアベルが足を止める。ゆっくりと指差された先には黒い花が、一輪咲いていた。他に異常は何もない。再度振り仰いでも、アベルはただ黙って待っているのみだ。ということは、もしやこれが……
「これが、結節点じゃ」
シアが進み出て、その花に触れる。と、花は音もなく花弁を散らし、次の瞬間にはそれが円形に広がる。円の内部は膜のように波打っている。水面のそれと酷似していた。
「ここに入れば界を渡れる。結節点は同じ場所には長くて三十分程度しか持続しない。どうする、入るか?」
シアが問う。自分は問題ないが、他の者はどうか。そう思って振り返るも、カルミアは、「おおー」と見入って抵抗がなさそうだし、妖獣二匹はそもそも分かっているのかどうかも怪しい。残るは一人なのだが――
「…………」
少年は肚を決めかねているようだった。感情を整理しきれていないと言うべきか。
だが、最終的にどうしたいか判断するのは、こちらではない。彼自身、自分自身で決めなければならない。
である以上、これ以上の口出しは無用だろう。
と、ふと気になったことがあったので誰となしに訊いてみる。
「これって、一回渡ったらなかなか戻って来れないとか、そういう類のものなのか?」
「ああ」とこれにはアベルが答える。
「内側の界から外側に行く時は結節点の近くに出るのだが、逆は少しばかり違ってな。殆どの場合、結節点から遠く離れている。なので外層界に行って帰って来るだけでも、それなりの旅にはなる」
「結節点は、言うなれば『一回使い切り』なのじゃ。まあすぐ新しいのが現れるし、出る場所が離れてしまう理由は解明されておらんがのう。階段の上りと降りでは必要なパワーに差があるが、それと似たような力学が働いているのかもしれん」
それで到達点がズレるということか。データのアップロードとダウンロードの関係に、少し似ているだろうか。カネは取らないのかと訊いてみると、「迷惑料代わりだ」との事だった。
まあ、永久に戻れなくなる性質のものでもないのだ。であるならば、強いて立ち止まる理由もなかった。
ゆっくりと、波打つ地面に足を踏み出す。ぞぶりと足首まで沈み込んだ。もう片足を踏み出すと、重みが溶けるかのように内部へと吸い込まれていく。
率直に言ってかなり不安だ。
だがシアもアベルも平然とそれを見ていることから、恐らく問題はないのだろう。
沈み切る寸前、例の傾いた石像と正面から目が合う。
その、生きているような目と。
直後、視界がホワイトアウトし、自分の身体はその白い世界に投げ出されていた。
――――――
さらさらと雨は降り続いている。街の者はなかなか通り過ぎていかない雨に悪態をつき、或いは店先の幌を伸ばし、或いは家路を急いでゆく。
カイン、或いはアベルの姿は、未だ屋上にある。身体は雨で濡れそぼり、如何にこの季節と言え、肌寒く感じるくらいにはなっていた。
それでも彼はそれには頓着する様子はなく、ぼんやりと街の明かりを見下ろしている。そうしている内に、
「お前が『たいした女優』と言っていた女、どう思う」
アベルが問えば、
「ありゃあどっちの種かによるな」
そうカインが返し、再度酒杯を傾ける。
「男の方も女の方も、まだ本心は表に出してない。打ち解けてきたとき、どっちに転がるかだろうな。良い方向に向かうか、激烈な破局を迎えるか――まあ、開けてのお楽しみ、ってやつさ」
言いながらグラスの中の琥珀色を注ぎ足そうとしたのを、アベルの手が止める。第三者が居たならば、男の『一人芝居』は不審に思われるだろうが、ここならその心配はない。カインは大仰に天を仰ぐと、
「それにしても、記憶を失いたい奴が多過ぎる」
言ってやれやれとあからさまな嘆息をつく。
「直近十日で何人診た? 恐らく三十人に迫るぞ」
「二十四人だったと思うぞ」
「そういう事を言ってるんじゃないが……何れにしろ、俺には理解し難いね」
頭の後ろで手を組み、薄雲の掛かる星空を見上げる。
「あの男じゃないが、自分の記憶は自分の行いの成果でもあるし、必ずしも良いものばかりとは限らない。だがそれを失ったら、自分、ってやつが無くなっちまう。忘れちまっても、そこに確かな何かがあった時間は必要だ。そんな気がする」
見慣れた星空に向けられた瞳はぼんやりとしており――もっと言えば虚ろだった。
それまで居たのと別の場所で生きていかなければならなくなり、肚を決めなければならなくなり……そうしてここに流れ着いて。記憶の彼方に置き去りにしてしまったものは、恐らく多いのだろう。
「今日のマナ濃度は?」
「知らん。体感では一を切っていると思うが」
三型マナ不全症候群。マナ濃度が高い所には長期間滞在出来ない、それが風土病の専門医の罹っている病であり、最も外側に位置する第七異界に居を構える理由であった。
とは言えそれで難儀をしている訳ではない。無闇に深層に向かわなければいいだけの話だし、別段そんな所に用事もなかった。考えてみたら他人の記憶を読めるようになったのはその時期からだが、そこに因果関係があるのかは分からない。
雲間からぷかりと半月が現れる。宙に浮かぶ様は空に掛かる舟のようで、それが知らず男を感傷的な気分にさせるのだった。
「前に見たのは、いつだったっけな」
カインが問う。
「忘れてしまったよ。しかし美しかったのは覚えている」
そう言ってアベルが目を細める。
二人の瞳に月影が映る。斑紋のような模様はすっかり見慣れてしまったものだ。
「連中はまだ大丈夫なんだろうな」
カインの言葉には、幾分かの羨望も混じっている。彼にしては珍しい事だった。酒を飲んでガラにもなく感傷に浸っていた為だろうか。
「そうだな」
そう返すアベルの声は、どこか柔和な響きがした。
雲は霧散し、夜空には満点の星空が広がっている。
雨はいつの間にか上がっていた。




