2.緑色の瞳
明けましておめでとうございます!
暫くは毎夜21時頃更新すると思います。
目が覚めると、天窓の向こうに青空が見えた。澄んだ色が美しかった。が、どこか自分の知るものとは異なっているようにも思われた。地面の方ばかり向いてきたからだろうか。空の色を忘れている――そんなことを考えながら、流れる雲をぼうと見つめていた。
人の気配がして身を起こすと、薄闇の中から昨晩のあの男が姿を現した。
「お加減は如何ですか」
男は一頻り私の身体を検めると、脇の雨戸を開放してゆく。射し込む光に目が眩む。煌々とした明かりから目を逸らして室内に目を向ければ、そこは昨晩とは様相が一変していた。
まるで光が家具のひとつひとつを色付けているかのようだった。卓の色はより鮮やかに、芝の床はより瑞々しく。細部まで遍く照らすかの如き光の魔力は、男が二つ、三つと窓を開放するにつれ、より強大に室内を支配してゆく。壁から突き出た枝には淡い色の花が咲き、芝の合間から黄色く芽吹く菜の花を風がふわりと撫でてゆく。
寝台から這い出て芝の上に足を下ろす。久しく忘れていた感触だった。足の裏から生命力が染み込んでくるような、そんな気配がした。と――
「……治ってる?」
前夜の腫れが完全に引いていた。熱感もなく、楽に足首を回すことが出来た。
「良かった」
緑眼の男が爽やかに笑う。最初と随分印象が異なるが、満身創痍の中暗がりで見たそれと今とでは、違うように感じて当然だろう。……それにしても、全身の細かい擦り傷まで治っているのは、普通であるとは思えない。まだ夢でも見ているのだろうか。
「……あなたは、何者なんですか」
「私に会いに来たのではないのですか」
違うんですかと言わんばかりに、男は目を点にする。続けて何が面白いのか、大口を開け、笑い出してしまった。
「そ、そうですか、別段私に会う為に、来たわけでは、ふふっ、来たわけではないと」
何がなんだか分からず呆然としていると、
「ではまあ、しょうがありませんね。ひとまず朝食でもご一緒しませんか」
言って卓の方に手を向ける。卓上にはいつの間にか焼かれたパンが数枚と、珈琲が置かれていた。質素なものだと思いつつも、視覚と嗅覚を刺激され、途端に食欲が襲ってくる。
「あなたは何者なんですか」
「何者? その問いに答えるほどの価値があるんでしょうか」
私が閉口すると彼は苦笑混じりに、
「まあ、世捨て人ですよ、言ってしまえば」
「世捨て人?」
「あなたもそれになりに来たのでは」
言われて、思わず言葉に詰まる。男の言葉は間違っていない。何故こんな山奥くんだりまで来たのか。世間との関係を断ちたかったからだ。
「まあひとまずどうぞ」と男は私を卓へ促す。淹れ慣れていないのか、珈琲の味は異様に濃い。色味も相俟って、ともすれば醤油のように思えてくる。
「……ご自分のは?」
見れば卓には皿もコップも、一人分しか用意されていない。今自分の目の前にあるそれきりだ。「ああ」と男は軽く振り仰ぎ、
「私はあまり、食べ物を口にしないもので」
「口にしない?」
言われて改めて奥の台所に目をやれば、出しっ放しになっていた食器類にはうっすら埃が積もっていた。壁を掘り抜いて作られた食器棚も、使われなくなって久しいのか、所々蜘蛛の巣が糸を張っている。
「霞を食って生きているようなものですよ――仙人じゃありませんが」
言いながら木製のコップで水甕から直に水を汲む。水道なんてものは、恐らく通っていないだろう。「これで十分」と軽く振ってみせる男に対し、アンニュイな表情を返すので精一杯だった。パンは全粒粉のものなのだろう、素材の味が非常に強い。辺りに店らしい店があるとも思えないので、珈琲もコレも、自家製であるようだった。
「さて、少しばかりお話をしましょうか」
言うと男は、やおら窓際に寄り掛かった。
「あなたは『助けて下さい』と言った」
私は思わず視線を逸らした。
「何かから逃げてきた。借金からなのか、人からなのか、世間からなのか――まあ、どれも同じようなものかもしれないが」
男の視線を頬に感じる。
「とにかく逃げた果て、君はこの山に迷い込んで、私を見つけたという訳だ」
「逆じゃないか」
倒れていた私を彼が見つけてくれたのだ。『見つけた』が『見つけられた』では話が逆になってしまう。
「同じようなものさ。どちらにせよ、君の過去を詮索するつもりはない」
振り向けば男は窓の桟に指を這わせ、埃を拭っていた。
「生きていくのに道がひとつしかない訳じゃない。一度レールから外れてしまったとして、必ずしも同じレールに乗り直さなければならない訳ではないだろう」
言いながら指を離し、今度は外側の溝に指を這わせる。
「実際はレールなんて確固としたものがある訳じゃないし、それがあったところで成功に繋がるかは分かりやしない。……だとすれば、私が君に訊くべきは『逃避の理由』じゃあないだろう」
「『逃避の理由』じゃあ、ない?」
言わんとするところが分からず、思わず鸚鵡返しになってしまう。
「ひと言に『逃避する』と言っても、ニュアンスも経緯も様々だろう? 非才を嘆いて酒浸りになるのも逃避なら、家に籠もって出てこないのも逃避の一種だ。どのパターンなのか、まあ聞いてあげてもいいと言えばいいんだが……そうだな、やはり君に問うなら――」
言ってコップの水を桟に伝わせる。白茶けた色から忽ち鮮やかな木目が浮かび上がってくる。
「――ここまで来れてしまったという、『度合い』の問題の方かな」
窓から水が伝い落ち始めるも、男は先程と変わらぬ角度でコップを傾けたままだ。それでいてどんな奇術を使っているのか、いつまでも蛇口を捻ったような一定さで伝い続けている。伝った水は土壁の中程で吸い込まれ、部屋の壁面全体が次第に栗色に変じていく。
「度合い?」
「ああ。私としては逃避の理由なんかより余程興味があるね」
言いながらも視線は手元のコップから離さない。当然のように、水を注ぎ続けている。
「どうやってここに到着したか、覚えているかい?」
「どうやって? ……ひたすら山の中を彷徨い歩いて、そうしたらあんたに助けて貰って――」
ふふ、と男が笑い出す。
「ここが絶海の孤島だ、って言ったら、信じるかい」
信じられる訳がない――と一笑に付そうとして、途端そんな自分の感覚が心許なくなる。
気付けば菜の花の合間を縫うように、丈の高い草が生えてきていた。……悪い冗談が、今目にしているものだけとは限らない。
「君は真面目だねえ……真面目だから思考に余裕がないのか、余裕がないから真面目にならざるを得ないのか、まあその辺りは分からないけど」
声には呆れの色が滲んでいたが、強いて反論するのも面倒だった。
男がぐいっとコップの残りを呷る。口の端からつつと水が零れ落ちるのを袖で拭うと、彼は傍らの椅子に腰掛けた。
「普通、僕には会えないものなんだよ」
そんなことを男は言う。
「近寄ろうという者自体少ないし、意図して来ようとする者はそもそもここまで辿り着けないからね」
最前感じた薄気味の悪さが再び立ち上ってくる。
「でも意図せず来ただけじゃなく、まるで知らない外部の者となると、初めてかなあ」
そう言って実に面白そうな笑顔を向けてくるが、私にはその笑い方が幾分不気味にも思われる。
「まあ、幸か不幸か、君は生きてここに辿り着けた。ならば君が何者だろうと、そして私が何者だろうと、助けを請われたからにはそれに応えたい。そこで……君はこれからどうしたい?」
緑の双眸がこちらを見据える。まるでこちらの答えを既に知っていると言わんばかりの、透徹した眼差しが。
「……分かりません」
ハッ、と向こうは声を上げ、一蹴するように手をひらひらさせた。
「分からないなんてのは嘘だね。分からない人間ってのは、もっとどうしようもなく動けないものだ。『何をすれば良いかも考えられぬまま現状維持を続ける』ものだ。陥穽に落ち込んでいるのは『状況』じゃない、『思考』だ」
言ってやおら立ち上がると、もう一杯、木製コップで水甕から水を掬う。
「これは変な動作かい?」
いや、と私は首を横に振る。「じゃあ」と男は一度それを飲み干し、どこからともなく水差しを取り出すと、今度は柄杓でそれに水を満たしていく。そうして満たされた水差しで、再度コップに水を満たす。
「これは?」
何となく彼の言いたいことが分かってきた。
「本質的には変わらないが、最初から水差しと柄杓があったなら、最初の飲み方は無作法に思っただろう――と、そう言いたい訳か?」
男はそれに首肯すると、いつの間にやら空になったコップを、どうやってか宙に浮かせている。
「人間の思考には、実際大きな魔力がある。他の動物が持つ、本能的欲求から行動までの連続性というのは、言ってみれば『最善』に近い、と私はそう思っている。対して人のそれは欲求と行動の間に思考というものが、意識的にしろ無意識的にしろ、他の種以上の濃密さで介在している。結果どうなるか? 『最善』以上にもなり得るし、それとは程遠い、愚かな選択をも取り得る」
言って卓に腰掛け、トン、トンと指で拍子を取る。
「無論全ての行動が成功に繋がる訳ではないし、結果良くない事態を引き起こすことだってあるだろう。どの程度の変化がどの程度の成果を生むか、それを予め知ることは難しい。だが――」
ト、と男の指先が止まり、真っ直ぐこちらに向けてくる。
「無意識だろうと何だろうと、世捨て人になりにこんな辺鄙な所まで来てしまった――着いてしまえたんだ。『度合い』っていうのはそれのことさ。あんたの逃避は、世間一般を『逸脱』しないと届かないところにあった、ということになる」
確信のある物言いだったが、些か話も脈絡も飛躍しており、正直鼻白んでしまう。……昨日今日会ったばかりの相手に何が分かると言うのか。すると相手は苦笑を浮かべつつ、
「旅は好きかい?」
「あまり行かないな」
「それじゃあ回答になってない。それとも言葉の意味を忖度されることが優しさの表れだとでも教えられてきたのかい?」
「……殆ど行かなかったから、好きも嫌いもない」
「それは勿体ない」と、向こうはやおら立ち上がると、
「たったひとつの旅で、人生も、中には価値観さえ変わる者もいるのに」
言って再び窓際に寄り掛かる。
「……何が言いたい?」
「言っただろう。助けを請われたからにはそれに応えたい。流れのままに漂ってみるのも、悪くないと思わないか?」
「話が見えてこない」
「御誂え向きに用意出来るってことさ。新天地ってやつを――偶々だがね」
界隈に人里があるとも思えない。人買いの誘い文句でないならば、冗談と取るのが正しいのだろう。しかしそんな事以上に――
「人間嫌いにどこへ行けって言うんだい」
「ハハッ、私にはそのようには見えないけれどねえ。暫く君のことを誰も知らないような場所で、普通に旅人として生きてみたらどうだい? 君の望むような場所はないかもしれないが、君が自分自身を見つめ直すには丁度いいだろう」
「旅?」
「ああ。或いは――私にとっても、これがいい機会なのかもしれないしな」
肩を竦め、男はそう嘯く。
「変化というのは何時でも不安を伴うものだ。予想の出来ない未来に身を委ねることになるからね。だからなかなか踏ん切りがつかない。しかし――何をどう思い詰めたのか知らないがね、少なくともあんたの助けを求める声は、私を動かすだけの力があったよ。紛れもなく、あんたが行動を起こした結果さ――」
咄嗟にテーブルから飛び退いた。
けたたましい音を立てながら椅子が転がってゆく。
思わず息を飲むと同時に、眼前で始まろうとしていることに脳が理解を拒否して、上手く言葉が紡げない。
男が足元から徐々に溶け始めていた。
いや――地面と同化し始めていた。
沈みながら男の両脚が癒着し、太い幹と化してゆく。腕や顔のあちこちからも新緑が芽吹き、瞬く間に部屋全体へと枝の腕を伸ばす。
月桂樹に姿を変えた、神話の人物もかくやというように。
『別に怖がることはあるまい』
もはや顔も埋まり、大木と化したソレが、戸口だった筈の壁面で縮こまり震えていた私に向け語りかける。
逃げ場などなくなっている。
こんな人ならざるもののいる空間に、そんなものは存在しない。
意志の力を総動員して見上げる。葉が枯れ落ち始め、何やら見慣れぬ、丸い物体が枝の股からぶら下がっていた。
ヤドリギだ。
そこから銀の滴が、ぽたりぽたりと落ちてゆく。落ちる度地の草花は腐り、一瞬後には再生して、それまで以上に野放図に生え広がって室内を飲み込む。
『君なら絶対大丈夫――なんて無責任なことを言うつもりはないけどね』
涙とも涎ともつかぬ滴を垂らしながら、ソレはのたまう。高く伸びた草花が天井まで達し、繭のように絡み合ってゆく。
「――何をするつもりだ」
意に反して、訴えは小さな呟きにしかならなかった。
『急いで世捨て人になる必要なんてない。君は少しばかり、カタブツが過ぎるんだ』
言っている間にも光が遮られてゆく。
『まあ、暫く好きに生きてみたらどうだい。きっと君にとって何かしらの意味や答えは見出せると思うがねえ。まあ、兎にも角にも――』
そこまで言うと一度言葉を切って、
『良い旅を』
それが合図だったのだろう。
四方の緑が一斉に部屋を閉ざしてゆく。
瞬く間に頭上を覆う緑の色も分からなくなり、どうすれば良いかも考えられぬ内に――
最後の一条の光が、音もなく、消えてなくなった。
――――――
……どれくらい経った?
物音ひとつしない――闇に音が吸い取られたかのようだった。
確からしいのは床に生える芝の感触だけで、それを除けば五感の悉くが頼りない。
生きているような、死んでいるような。
このまま意識も身体から遊離してしまうんじゃないか――そんな錯覚さえ覚える。
ようよう立ち上がり、黒一色に塗り潰された空間に向けて、恐る恐る一歩を踏み出してみる。平衡感覚が依って立つものを失って、甚だ心許ない。
虚空に手を伸ばしながら、覚束ない足取りで歩んでいくと、何かを踏み外して思わず地面に手を突く。
「……っつ」
軽く擦った手の平から痺れとともに血が滲む。その現実感のある痛みと同時に、何に足を取られたのか、その正体にも行き当たるのだった。
ガサリ、ともグシャリ、ともつかぬ感触がした、それ。恐る恐る屈んで触れた指先には、独特の質感をした無数の小さな葉っぱらしき形が伝わってくる。全体は丸く、人間の頭部と同じくらい――そんなことを考えていたところで、指がぴくりと動きを止める。ヤドリギの、割れ目だ。落ちた衝撃で砕けたのだろうが、頭に自然とあの緑色の瞳をした男の顔が浮かんでしまい、思わず嫌な汗が滲んでくる。
気を取り直して慎重に歩を進め、そう離れていないところに草花の壁らしきものを探り当てる。しっとりと水気を含むそれは恐らく幾重にも絡み合っているのだろう、厚みのある感触がした。
これを破るのはなかなかに骨が折れそうだ…………と、頭上から一条、微かな光が降り注ぐ。
光は次第に強まりながら、足元の青々とした芝を照らし出してゆく。
天井が光によって少しずつ切り開かれ、いや――溶け始めている。淡い発泡音を生じながら、次第に世界が開けていく。
現れた世界は色彩が迫ってくるかのような鮮やかさで――やがて壁が溶け切り、発泡音も微かな残響を残して、空気に溶けて消えた。
そこは森の中、円形に開けた場所だった。
空は澄んだ水色、流れる雲は胡粉のような白を数本刷いていた。
地には色とりどりの花が咲き、しかしあばら屋は跡形もなく、あの男も姿を消していた。
そんな場所に、私は立ち尽くしていた。




