18.神話と荒野
赤茶けた土の色。それに混じる雑草の緑。そして時折現れる岩塊の灰色。それがこの地の荒野を構成する全てだった。
歩けど歩けど変わらぬ景色。どの程度歩いたかも判然としない。起伏はない為見通しは良いものの、地平線の彼方まで同じ色が広がっている。
(目がおかしくなりそうだ)
これだけ同じ色が続くと流石に脳から『別の色を見ろ』と指令が飛んでくるのだが、満たすことが出来ずじわりじわりと眼瞼に、そして精神に疲労が蓄積されていく。
それでも道すがら、妖精に色々とこの世界の事を教えて貰えるのは、有意義な時間と言えた。今まで断片的に散らばっていたあれやこれやが繋がり、かなり理解の助けになった。尤も、シア自身覚醒したばかりで記憶が曖昧になっている部分があるようで、
「じゃから少しばかりの間違いは、勘弁して貰うぞ」
と、そんな調子ではあったのだが。
中でも妖精の口から語られるこの地の歴史、草創期の話は、まるで寝物語に聞かされる神話のようで、知らず童心に帰ったような気分になるのを抑えられなかった。
――――――
遥かなる昔、『幻想種』が異界に凝った。これは人の間に生まれた一定のイメージが、集約・萌芽し始めたことを示すらしい。もっと言えば、幻想種それ自体だけでなく、付随する空間的イメージ・広がりも同時に形成されていくということだ。
種と界が同時に生まれた。
これが開闢であり、始原の地、胚胎の地とも呼ばれる最古の異界の誕生、森とも海ともつかぬものに覆われた、『こちら側』の始まりだった。
時代が下ると比較的明確なイメージのもと、竜種や精霊種が生まれる。
世界を拡張せんと彼らは活動領域を広げるも、もとより不安定なこの世界のこと、限界というものがあった。
そこで彼ら自身の持てる力から魔法という概念を打ち立てることで、異界そのものの数を増やすことに成功する。即ち第二異界の誕生だ。シアが話していた積層構造の、最初の外郭ということになる。魔法という概念は、彼ら自身がこの世界に固着するのにも役立ったという。また、人との接触もこの頃始まったらしい。
竜や精霊は、当時は『界渡り』が出来た。その背に乗ったり誘われる形で、人が異界を訪れるようになる。そしてそういった者たちが元いたところに戻って話が広がり、より幻想種の存在が強化される。最初にこの外郭を作った両種は今でも第二異界に多く住み着いているのだという。
異界にやってきた人間の中には、元いた所へ戻らず、そのまま居つく者もあった。この地に魅せられたから、後ろ暗いことがあって戻りたくないからという者も少なくはなかったが、一番多かったのはやはり、戦乱を逃れる為、という者たちだった。竜や精霊は特段彼らを敵視するようなことはなかった。理不尽に虐げられることのない地は、誰にとっても理想郷だというのは変わりない。
しかしそんな安寧が続いていたある日、魔法を研究していた一人の移民が自らの身体の変化に気付く。身体の線が細くなり、耳が長く、僅かに尖ってくる。シアの言っていた『変異』の最初の例だ。
時を同じくして、同じように変貌する者が現れてくる。すらりとし、耳が尖った者は、皆魔法が得意か、弓の心得がある者だったという。大工や力自慢の者は、よりずんぐりとした体躯に。坑道で働く者や工作が得意な者は背丈が縮み、素潜り漁をする者には鱗やヒレが僅かに浮かぶ。年を経るごとに、ゆっくりと、この地で生きるに相応しい姿に変わってゆく。亜人と呼ばれる者の誕生だった。その者たちが先住の竜や精霊と協働して、第三の異界を作り上げてゆく。
この時期は最も混乱の多かった時期であるらしく、種族間対立や種族内対立も起こったという。その過程で先住二種の心も一時、人から離れていったらしい。
大気に満ちるマナの齎す影響が判明したのもその頃で、解決策として外郭が重ねて作られていくことになった。変貌の度合いに個体差があり、より大きな変化に見舞われた者ほど長命に――それも文字通り桁違いの長命になってしまうのが、それに拍車をかけたという。
「ひとつの界を隔てるごとに、影響の度合いはおよそ五分の四になるからのう。それを良しとしない者は、より外の界層に移っていった」
五分の四。ここ第七異界だと、その六乗――――一番深いところとの比較で、約二十六パーセント。四分の一まで低減されるのか。
「あの塔で見た人たちは、度合いとしてはどれくらいなの」
何が、とはカルミアは言わない。話を聞き、軽々に『変異』や『変貌』という言葉を使うのが憚られたのかもしれない。
「あれはまだ、軽微な部類が多いかの。まあでも、中には中程度の変異を起こしている者もおるからその限りではないか。満遍なく、というやつじゃな」
肩を竦めてシアが言う。
「この辺りに住んでいる者はどのくらい居るんだ?」
「居ないことはないじゃろうが、数は大分少ないじゃろうな」
言いながら前方に見えてきた黒いカタマリに近付いてゆく。元は小屋か何かだったのだろう、すっかり崩れ、薄汚れた板切れの山に成り果てている。当然、人はいない。
「……被害の範囲は、どのくらいなんだ?」
「…………」
シアが押し黙ってしまう。不躾な問いであることは自覚していたが、訊かざるを得なかった。それほどまでに、この荒野は広く、長く続いている。
「……そうさなあ」
言って妖精はこちらを見返してくる。
「お主の元いた所の尺度で言うと、中心から半径百キロメートル、というところじゃ」
半径で百キロ……? 東京から富士山くらいまでの距離でコンパスを取って円を描いたくらいの広さ……?
そう考えると、ゾッとしたものが込み上げてくる。それだけの広範囲にわたって、この荒涼とした大地が広がっているということなのだから。
「…………」
思わずこちらも黙り込んでしまっていると、「ああ、お主が思っているような被害は出ておらんぞ」
「どういうことだ?」
「求道者の塔は実験施設という性質上、人の住まうところからはかなり離して建ててあったからのう。人的被害は外には出ておらん。そもそもこの界層は、外縁部に隠者が幾らか住んでいるだけじゃったしのう」
それを聞き、横でカルミアが小さく息を漏らす。話には混ざってこなかったが、恐らく安堵のそれだろう。
……とは言え、もう何日歩いている? 成人の平均歩行時速が、確か四キロとかそこらだった筈だ。一日あたり、およそ八時間。今が四日目の午前だから、もうそろそろ荒野を抜けてもいいんじゃないか。
「ん? ひょっとして何か勘違いしとらんか?」
「何を?」
「被害というのは、マナの乱れの話じゃ。その影響が及んだのが半径百キロほど。衝撃波による破壊の範囲は、もっと狭い。とうに通り過ぎておるぞ」
「何? じゃあこの小屋は――」
「単に打ち捨てられただけじゃろう。実験が失敗してからも儂は暫く起きておったから覚えておるが、破壊やマナの乱れが起こったことで、この地は忌避されるようになったのじゃ。何が起こるか分からん、とな。僅かに内地に住んでいた者も、多く移り住んでしまったと聞いておる」
改めて崩れた建屋に目をやる。確かに、衝撃で破壊されたというよりは、ゆっくりと朽ちていったような倒れ方だった。人も住まず、手入れされることもなく、風雨に晒されてきたのだろう。……いずれ自分もこのように朽ち果て、土に還るのだろうか。
「何が言いたいかというと」
おほん、とひとつ咳払いをして妖精は続けた。
「まだまだ荒れ地は続くぞい」
まあ、そうなってしまうか。後ろで、「えーっ」と嘆く女の声がするが、大仰な割に声は力ない。
とは言えそれでも四日目だ。人工物を目にする機会も増えてきた。崩れた小屋や、放置されたリヤカー。朽ちた農具は蟻の住処になっていた。
鳥が上空を旋回している。そう言えば、こっちの世界に来てから鳥らしい鳥を目にしていなかったかもしれない。あの鳥はどこからやってきたのだろうか。自分と同じようにこちらに渡ってきたのだろうか。
「お、郭公か」
シアが漏らす。野山にあまり親しんで来なかった身としては、寧ろ「あれがカッコウなのか」といった感想だった。
「ねえ、あれ何?」
カルミアの声に再び前方を向くと、真四角な謎の構造体が見えてくる。「あまり期待は出来んだろう」と言いつつ妖精はそれに近付き、それにマナを通していく。すると構造体はゆっくりとフタを開き、微かな腐臭を放つ。
「ああー、やっぱりダメじゃ。簡易なものじゃったからのう」
覗き込むと中には干からびた何かが微かに残っているのみで、元の形がさっぱり分からない。しかし用途からすると恐らく――
「デポか」
「ご名答じゃ」
有事の際に使用出来るデポに、食糧を入れていたのだろう。簡易な魔法では、長期保存は出来なかったのだ。
「この先にも一定間隔で出てくる筈じゃが、中身がご覧の通りではな」
そう笑って、さっさと先へ進んでしまうのだった。
シアの言葉通り、デポは一日に一回の間隔で一行の前に姿を現した。しかしこれまた言葉通りに、使われなくなって久しいのだろう、口に出来るようなものは皆無だった。
荒漠とした大地は未だその景色を変えていない。森もなければ、川もない。ひたすら岩と、僅かな草や低木と、赤い大地。変化の少なさは疲弊の度合いを上げていく。唯一の楽しみはメシ時で、フリーズドライ様々と言わざるを得ない。
「っていうか、みんなでパーッと飛んでいけないの?」
マッシュポテトもどきを頬張りながら、日に一回は聞く科白をカルミアが口にする。口元には野菜を煮詰めて作ったソースの褐色が、薄く髭のように伸びている。
「そんな力があったらとっくにやっとるわい」
これまた聞き飽きた科白が妖精から返ってくる。こちらは口と言わず、豪放に頬まで汚し、まるで子どものそれだった。
そんなやり取りには我関せずと、ダイフクらは辺りに生える草を食みに行っていた。彼らはこちらと同じものを口にすることもあるが、食べる量は決して多くはない。食べずとも多少の期間は大丈夫なのと、後はマナの豊富なものを好むらしかった。
ふわりと風が吹き抜ける。乾いた風だ。それだけで水分を持って行かれそうな、そんな錯覚に陥りそうになる。森ではそんなことがなかった為、余計にそう感じるのかもしれないが。閉じているが快適な空間と、開かれてはいるが過酷な空間。どちらが人にとってより好ましいのか、その辺りは分からない。
「まだまだ海や水は遠い、ってことか」
「まあ、夏になれば腐るほど雨は降るがのう」
「夏?」
「うむ」
「ここ、四季あったのか」
「? 何を言っとるか分からんが、普通にあるぞい」
「ずっと森の中にいたから、どうも感覚がな。快適だったし」
「まあ、あそこは塔の状態維持の目的もあって、常春の結界にしてあったからのう。お主の言うことも間違ってはおらん。出るときに同じものを掛け直してきたから、戻っても快適じゃぞ」
動植物の生息分布や植生に偏りがあるよう感じられたのは、その為だろうか。草木の種類によっては、寒さも必須のファクターになっているものだってある筈だが。
「そう言えばここの一年って、何日あるの? そもそも暦や七曜は?」
カルミアが問う。これまで必要じゃなかったから、さして考えたことがなかった。ここに来た日から起算して何日か、という数え方しかしていない。
「三百六十プラス数日じゃな。年によってプラス幅は変わる。七曜はあるにはあるが、あまり使われておらん。皆数え方は、その季節の何日目か、という感じじゃからな。春の六日目、夏の八日目といった具合じゃ。年末に閏日を設定して調節している感じじゃ」
「今はいつぐらいなの?」
「そうじゃな……春の七十日目くらいじゃろうか」
「テキトーだな」
「ま、集落に行けば分かるじゃろ」
「集落? そう言えば隠者がどうこうって言ってたけど、近いのか」
「あと幾らか歩けば着くじゃろう。まだあれば、じゃが」
集落があってもてなしに与ることが適えば、それはそれで良し、受け入れられなければ――或いはそもそも人がいないならば、残りの食料でどうにか狩猟採集が出来る場所まで保たせればいい。
という事は間もなく、この地に来て初めて先住の者に会うことになるのか。そう考えると、妙な緊張感に襲われる。
……新しい出会いは苦手だ。外様なら尚更のことだった。
人家が見えたのはその翌日。
しかしそれはもはや集落ではなくなっていた。