17.旅の支度
薫風がカルミアの頬を撫でる。黄昏時の光を浴び、彼女の髪がその当たり加減で柔らかに輝いた。塔の上から迷いの森に沈む夕日を眺める彼女は、どこか物憂げで、話し掛けるのは躊躇われるものだった。
山猫は主と同様、森の彼方にいつもの何を考えているか分からぬ眼差しを向けていた。シアはダイフクとともに壁の縁上で遊んでいたかと思いきや、疲れたのか中央で大の字になっていた。
魔術師の間を抜け昇降回廊まで辿り着いた面々は、極度の心的疲労に足取りも重く、「最後に見せたいものがある」と言うシアに最初は容易には首肯し得なかった。それでも、「心配するな」という言葉を信じて昇降回廊に乗り、そこに現れたのが外側の塔の、その屋上部分だった。
眼下一面に広がる緑は壮観で、しかしそれがどこまでも続くが故に、見知らぬ世界の真ん中に取り残されたような、一種の寄る辺なさに襲われる。それでも開放的な空の下に戻ってきた為か、先程までの極度の緊張は幾分薄らいでいた。
「……見せたいものって、これか?」
シアに問えば、「まあそうではあるんだがな」と歯切れが悪い。
「実験が失敗して、本当は界隈の地形も変わっておるのじゃ。どこまでも森が続いているように見えるのは、幻影じゃ」
「ひょっとして下の森が途中でぐるっと元来た方に戻っちまうのは、その幻影とか、結界の為、ってことか」
「その通りじゃ」妖精が首肯する。
「なのでソレを解除すればこの森から出られるのじゃが……」
「やってくれ」
言うとこちらに視線を投げていた妖精が、今度はカルミアの方を見やり、同じ反応を返される。
「どうせもう生半可なものでは驚かないわよ」
「……そうか。なら――」
シアが森に向けて片手を広げ、何か弾いてみせる仕種をする。
――途端、強烈な風が吹き荒ぶ。
目も開けられないほどの風が。
木の葉が舞い上がり、空高く渦を巻く。
どれほどそうしていたか、葉の舞い落ちる感触とともに目を開けると、そこには嘘のような光景が広がっていた。
眼下に広がっていた筈の鬱蒼とした緑の海は、塔を中心にして精々一、二キロを残すのみになっていた。
そこから先に広がるのは荒野。
所々地面が深く抉れ、破壊の痕跡を残していた。遠くには地平線が見える。しかも、四方全て。つまりここから先、当分は何もない大地が続くのみになる。
「ようこそ、第七異界へ」
そう言って、淡々とした調子でシアが問う。
「こんな面白味のなさそうな世界でも、旅をしたいと思えるか?」
思わずカルミアと顔を見合わせ、苦笑を浮かべてしまう。
「思えるわ」
「右に同じだ」
ここは限界のある箱庭だ。森に外側がある、森の外に出られることが明らかになったなら、強いてその狭い世界で生きていこうとは思えなかった。外側への進出欲求は本能的なものだった。知ってしまったからには、このままというのはとても自分には堪えられそうになかった。
(……世間から距離を置こうとした人間の考える事じゃないな)
自然と自嘲めいた笑みが浮かぶ。
「……戻ったら旅支度かな」
「でもその前に……同じ道を通るんだよね?」
カルミアの言葉に二人揃って何とも言えない顔をしていると、
「いや、帰りは直行ルートがあるぞい」
言って妖精が巨木地帯を指差す。
「あそこにウロ穴が幾つかあるんじゃがのう、その内のひとつがこの屋上と繋がっておるのじゃ」
ふわりとシアが左隅にあった魔法陣の上に乗ると、下方へ続く穴が出現する。これがあの巨木と繋がっていると言うのだから、構造については深く考えない方がいいのだろう。多分来るときに登った、あの梯子のような存在なのだ。
「一方通行になっておっての、下りたらまた来たときのルートでしか入れん。じゃがその前に――」
ニヤリと笑うと、シアは太陽の方を指差す。
「時間も微妙じゃからな。どうせならもう少しここにいても良かろう? ここから見る夕日は、絶景じゃぞ」
そう言われてしまえば、二人に否やはなかった。先刻シアが『見せたい』と言ったのは、破壊の痕跡を残す荒野ではなく、夕景の方だったのかもしれない。
そんなことを考えながらも、いつしか沈む夕日に目を奪われている。
そして祈らずにはいられなかった。どうか、この塔の眠り人の癒やされんことを、と。
――――――
「しかしあそこは湿気がひどいじゃろう。まさか仮宿にしていたとは、逞しいと言うか、何と言うか」
「しょうがないじゃない、あたしだって他にいい場所があればそっちにしたわよ」
日の入りとともにショートカットのルートで家路に着くと、その日は適当にありもので食事を済ませ、明日本格的な旅支度をすることにする。シアもどの道出るつもりだったらしく、暫くは同道してくれるとのことだった。地理や事情に明るい訳ではないので、正直ありがたい。
だが例のウロ穴が出口だったことから、カルミアがこちらで最初の日々をどう過ごしたかシアが知るところになって、色々突っ込まれて不貞腐れ気味で面倒臭い。
二人のやりとりに割って入るつもりは毛頭ないので、その間ダイフクやテトと大人しく人魚狩りをしている。特に山猫は、いい夜食が手に入ったと言わんばかりにホクホク顔だった。
しかし自分で言っておいてなんだが、旅の支度に何が必要なのだろう。ここに至るまでの道のりは計画的な『旅』では断じてなかった。当て所のない、言ってしまえば自棄な彷徨だ。
(あれは持って行かないとな)
緑色の瞳をした男の置き土産――水筒、山刀、小袋の中には鍵型のアクセサリーに、金属の玉。現時点で唯一の私物らしい私物だし、実用性もあった。
カルミアは缶詰を除けば衣類が嵩張りそうか。あのドレス始め、彼女は大荷物を持っている印象だ。シアは手荷物などないだろう。実際訊くとその通りだったが、
「荒野になってしまったのは結構広域なのでな。その間飲まず食わずという訳にはいくまい。水に関しては、お主のソレがあれば問題ないと言えばないが――」
言って水筒を指差す。シアに見て貰ったところ、やはり魔術的な代物であることが確かめられたのだが、極めて貴重な物の為自分たち以外の連中には秘匿しておくよう言われていた。
「魔法で水を作れないのか?」
「そうじゃな、そうした方が良いじゃろう。まあ問題はやはり食料じゃろうか」
言ってどうしようものか唸り出す妖精。異空間に繋がる袋とか、空間を拡張出来る魔法とかがあるにはあるらしいが、「無闇矢鱈にそうやって使うものではない」とのことだった。何かポリシーでもあるのかもしれない。
となると生鮮品はあまり持ち歩けない。かと言って、長期間油漬けや塩蔵品を口にするのは御免だった。……まあ、油も塩もないのではあるが。
「圧縮するのは?」
とカルミアが声を上げる。
「圧縮?」
「フリーズドライ製法よ」
「ふりーずどらい?」
シアは意味が分からず首を捻っているが、成程、それならそこそこ多量の食料が、少ない容積かつ軽量で運べる。火さえつけば湯を沸かすのは容易い。
「向こうの技術だ。食べ物を冷凍して、真空状態にして乾燥させると、軽量かつ長持ちする。魔法でそれが出来るか?」
「凍らせるのと、空気を抜く作業じゃな。少しばかり神経を遣いそうではあるが、まあ問題なく出来るじゃろう」
面白そうだ、という顔でシアがパタパタ羽を羽ばたかせる。
「ならば南の菜園で大収穫祭じゃな!」
「……ふんっ、やはりっ、植物はっ、……ぐぬっ、強いのう……!」
シアは汗だくになっていた。小さな身体で強引に大根を引き抜こうとして、四苦八苦している。ウキクサとカルミアは、その様を少し離れ、覚めた目で見ていた。
お得意の魔法でささっと切り落とせばいいのに、何やら意地があるとかで、ああだこうだと身体を捻っては力一杯飛んでいる。キャベツや玉葱もあるが、その都度同じリアクションを見ていなければならないのだろうか――という間に、カルミアは無視を決め込んでアスパラガスを収穫し始める。テトは犬みたいに土を掘り返しては、玉葱を器用に引っ張り上げていた。因みにダイフクは淡々と、そして素早く、菜園に生えた雑草を食していた。これはこれで食料にならないものの選別になるのでありがたい……のだろうか?
手分けして作業をした結果、山のような量の野菜が積み上がる。キロ換算でどれくらいあるだろう。百キロまではいかないだろうが。
「……面倒だからこのなり真空にしてしまいたいのう」
「まあ、気持ちは分かる」
思わず頷いてしまうも、
「結局食べるときに困るだけなんだから、早く帰って今の内にさっさと作っちゃうわよ」
そう言ってカルミアはカゴを両手に、すたすた先を歩いていく。一瞬母親に怒られた子どものような気分になったのは、気のせいだと思いたい。
小屋に戻り野外調理の準備が整うと、ダイフクらが集めてくれた枯れ枝やらに火をつける。採集した木の実や果物、野菜に加え、何時ぞや手に入れた猪の干し肉も台の上に並べ、また沢で獲った魚や沢蟹も並べられる。
こうまでして色々な食材を集めた目的は、道中バリエーションに富んだメニューを口にしたい為だ。つまり『料理』を作り、それをフリーズドライにして持ち歩こうという魂胆だ。
ノルマは一人最低五種の料理を作ること。
味付けに塩は使えないし、味噌や醤油も当然ない。自然淡白な味になりがちなのだが、そこはそれ、上手く食材を組み合わせることで味を引き出したりといった具合だ。
見込みとして必要になるのは、およそ二週間分。それだけ歩けば、この世界の際、人の活動領域に辿り着けるのではないかという話だった。各々が自分のものを背負っていくとして、どのくらいの重量になるのだろう。
そんなことを考えている内に、横のカルミアが早くも魚を捌き始める。何を作るつもりなのかは分からないが、慣れた手つきは見ていて安心する。
反対側に目を移せば、シアがなかなかに凄いことをやってのけていた。包丁に魔法をかけて自動でキャベツの千切りをさせる間、自らはアスパラの肉巻きを作成、早くも火にかけ始めている。傍らではこれまた自動でラズベリーが潰されていた。どんな料理に仕上がるのか楽しみだが、無闇矢鱈に使うものではないのではなかったのか。
……こちらも負けていられない。大量のジャガイモを手にすると、鍋で蒸し始める。芋は大概こうすれば美味いものだ。今回は更に手間を加えてマッシュポテトにしたいところだったが、残念ながら牛乳がない。今回は断念――と思っていたのだが、色々と試行錯誤している内に発見があった。
「人魚を削って入れると、うまみっていうか、いい感じの味が出てまろやかになるぞ」
元の味が良いのもあるが、料理に混ぜると明らかに深みを増した味になる。乾燥した人魚は軽量だが、形状は持ち運びには適していない。粉末状にすれば使いやすいだろう。
「ふむ、これは悪くない」
「本当ね」
二人も早速料理に投入するほどで、上々の手応えと言える。
そんなこんなで十五品以上の料理が出来上がる。量的にも長旅に必要な分は確実にあるし、これだけ種類があれば飽きがくることもないだろう。最終的に背嚢ひとつに自分の食料は収まりきったのだった。
「これは置いていくわ」
言ってカルミアが旅行鞄と缶詰を指す。確かに歩きの旅には重荷になるだろう。
「何かあって戻ってきたときの非常用ね」
自分に加えカルミアとシア――ダイフクとテトもついてくるようだが、縄張りとかそういったものはいいのだろうか。
「ああ、そうじゃそうじゃ」
言いながらシアが何かを取り出す。油紙に包まれた薄っぺらいそれを数枚、自分とカルミアに手渡してくる。ちらと開けてみるも、白茶けた乾物めいたそれは、どういう用途のものなのかも怪しい。いや、多分食い物なのだろうが。
「これは?」
「回復薬じゃ」
へえ、ともう少ししっかり確認しようとして、乾物に光を当てると――
「あ」
透過した。光を遮ると、再び浮かび上がってくる。これはもしや……
「原料は特殊なキノコなんじゃがな、いやぁまさかあんな用具入れの中に生えているとは思わんかったわい」
確定だ。菜園の用具入れにあった、あの毒々しい、赤と青のキノコだ。シアの口ぶりでは、一応問題はないのだろうが。
その晩はなかなか眠れなかった。興奮していたのかもしれないし、見知らぬ世界を旅することに、やはりどこかで不安を抱いているのかもしれなかった。
……不安。何の?
見知らぬ地でも一人旅ならある意味気楽だというのは確かだろう。
となると道連れがいることに対してか?
……そうやってうだうだ考えている内に眠りに落ちてしまう。カルミアとシアの寝相のせいで、眠り自体は浅くなってしまったが。
その日の夜風は不思議な生温さだった。
そして見上げた空には二つの月が、爛々と輝いているのだった。