15.変異
魔法の習得にはそれなりの時間がかかるという話だったが、翌日には早くも豆粒大の光の球を生むことが出来た。比較的簡単な部類であるとは言え素直に嬉しいもので、カルミアなんかは子どものように覚えた魔法を何度も飽きもせず使っては、力尽きてカノープスの背に寝そべっていた。
「……何とも、コメントに窮するのう」
呆れ気味にシアが零して曰く、「後はどの程度で満足するかという問題じゃ」とのことだった。
習得が早かった要因には、どうやらあの人魚を食べていたことも関係があるようで、「仮説じゃが」と前置きした上で、妖精が自説を開陳する。
「概してマレビトの魔法習得には時間を要するものなんじゃが、それは彼らの食や生活が組成率に対して低い影響力しか持ち合わせていなかったからかもしれん」
「食……組成率?」
「うむ……」
言いつつも、どうにもイマイチ歯切れが悪い。伝えようか伝えまいか、逡巡でもしている風だ。
「何か問題でもあるのか」
問えば妖精は沈思した後、
「……ぬしら、妖精郷の話は聞いたことがあるか」
「妖精郷?」
「あ、あたし知ってるかも」
カルミアが声を上げる。
「異界かどこかに存在する、妖精たちの楽園でしょ? 昔御伽噺か何かで聞いたことがあるわ――それがどうかしたの?」
「どういう場所か、逸話か何かでも覚えておるかのう」
「えっと」
底に沈んだものを浚うように、カルミアが深く、自身の記憶の内に潜る。
「悪戯好きな妖精が多くて、でも基本的に性向は善良で。常春の国で居心地がいいから、戻りたくなくなる人が多いとか。居れば居るほど帰りたくなくなるとか――」
「そう、そこじゃ。伝えねばならんと思うから伝えるが……そうじゃな、儂のこのカラダ、何で構成されておると思う?」
何で構成されているか、なんて言われても、正直通常の分子論・原子論で説明出来るとも思えないので、まあ何となくだが――
「マナ、かしら?」
カルミアが答える。自分も正直、それくらいしか思い付かなかった。
「大体正解」
「ん?」
「実は僅かじゃが、ぬしらの物質世界由来のものもある、と考えられておる」
「へえ」
「つまり、正解は『マナで構成されている』であり、『物質で構成されている』でもある」
「うん?」
話の着地点が見えてこない。
「『りょーしろん』じゃったか? あれの猫がどうこういうのに近い」
「量子……シュレディンガーの猫か?」
「そうそう!」とシアが手を打つ。向こうの物理論を知っていることに軽い驚きを覚えるが、考えてみればこちらの世界にその手の知識がもたらされていても、何らおかしくはない。量子論は難解とは言え、世に出てからそれなりの時が経過している。先人の誰かしらが渡って来たと同時に広まったとして、決して変な話ではないだろう。しかしシュレディンガーの猫ということは――
「可能性が重なっているとか、観測することで原子の位置が確定するとか、お前が言いたいのはそういう意味か?」
「まあ、概ねそんな感じの解釈でいいわい」
さらっととんでもないことを言ってのける。つまりなんだ、物質ベースの可能性と、マナベースの可能性が並立してるってことか。説明として合っているか、自信はないが。
「概念が凝るのに物質が必要なのじゃが、まあ要するに、この地にいればいるほど、その比率が変わっていくのじゃ」
「比率が変わっていく?」
言いながらも、薄々その意味するところが理解されてしまう。
「つまりじゃ」
努めて飄々とした調子を保って、シアは言う。
「ここにいればいるほど、『向こうの存在』である比率は下がっていくのじゃ」
そしてその調子とは裏腹に、言葉自体は重い響きになってしまうのを避けられなかった。その意味するところはつまり――
「人じゃなくなるのか?」
「だから『猫』の話をしたじゃろう」
僅かの隙も差し挟まず、半眼で妖精は宣う。
「比率が変わるのじゃ。ここに来たばかりの人間が、『あちら』の割合が十割であるとすれば、それが徐々に九割、八割と変わってゆく。しかしどちらの存在でもあることに変わりはない」
「……その割合が『こちら』寄りになるほど、マナの操作もしやすくなる、ってことか」
「然り」
シアが首肯するも、こちらは嫌な汗がじっとりと滲んでくる。
だってそうだろう。自分のカラダが勝手に置き換わってしまうのだ。それほど薄気味の悪い話はない。
「あの『人魚』は、マナの比率が極めて高いからのう。マナ操作をしやすくなるのも道理じゃ」
「今の私たちは、どれくらいの比率なの?」
心なしかカルミアの声も固いようだった。
「安心せい。九分九厘以上変わっておらんよ。普通に旅して時々魔法を使っていても、大した問題にはなるまい。仮に向こうに戻る手段を得たとして、まず問題なく戻れるじゃろう。戻った後は、今度は徐々に元の組成に戻ってゆく。……と言うより、お主ら儂に訊かんのか?」
「ん? 何を?」
カルミアと二人で首を捻っていると、
「だから、戻る手段についてじゃ。戻りたくはないのか」
「うーん……」
二人揃って腕を組み考え込んでしまう。
「……何と言うか、変わっておるのう。まあ良い。強いて身の上話をしろと言うのも変な話じゃしな。先に言っておくと、あちらに戻るには強運が必要じゃ。まあ、ひとまずそれだけ覚えておいておくれ」
「って言うと、戻れなくなる可能性もあるのか」
「ある。……と言ってもそれは最深部の古老たちになるがの。一定程度変異した者も、あちらへ渡るのはハードルが高くなるじゃろうな」
「最深部……変異?」
「変異って、え、どういうこと」
「ああ、まずこの世界はこういう構造になっておっての」
言ってシアが魔法で宙に図を描いてみせる。球の中に更に球があり、それが七つ目まである。玉葱みたいだ。その一番外側の部分が淡く光る。
「ここはその一番外郭に位置するのじゃ。言っておくが、物理的な図ではないぞ? 内側の界に空がないとか、そういうことではない。便宜的な図じゃ。まあ、実際に行ってみれば分かるが」
「それとその変異と、どう関係があるんだ?」
「内側の界ほど古く、全体の大きさも小さくなるのだが、逆にマナの濃度は濃くなっていく」
二人は黙って続きを促す。
「その影響を受けて、身体が時をかけて、それに最適化された身体になっていくのじゃ。余程内側でなければ、二十年、三十年と、長い時を掛けて。お主らもエルフやドワーフといった御伽噺上の存在は知っておろう」
ということは、つまり――
「元は人間じゃよ、そいつらは」
息を呑む。空気が一瞬張り詰める。
「居れば居るほど帰れなくなる妖精郷。その理由は、ひとつにはマナによる『組成率』の変化に伴う身体のこの世界への定着。そしてもうひとつが、身体の実際的な『変異』に伴う、心的な要因じゃ」
物理的に体の一部が変わる。エルフだと耳が長く、ドワーフならどっしり、ノームなら小さくなってしまうのだろうか。問えば、
「程度は人それぞれじゃがな」
そう言って肩を竦める。
「既ににかなり代を累ねている者も多い。実際、ここの住人でマレビト――つまり一世の者は、百の内一、二が関の山じゃろう」
「『代』って……シアみたいな?」
「ああ、違う違う」
妖精は被りを振って、
「こちらは普通の意味じゃ。親子、世代の意味じゃ。ここに移り、住み着いた者同士が結ばれて生まれた子。そのまた子。……何世代になるんじゃろうな。まあ何が言いたいかというと、そういう者はな、所謂『純エルフ』だったり、『純ドワーフ』だったり、あるいはそういった者同士の混血だったりするのじゃ。そしてそういった者は、当然『こちら』の組成率も高い。つまり――」
「向こう側に行くのは、難しい、と」
シアが頷く。
「一世の者は、かなりの割合で変異への恐怖を抱く。変異した姿で元の世界へは戻れないという心的抑圧――それが逆に彼らをこの地に縛りつける。二世の者とはアイデンティティーが異なる。実際接する段になれば分かるじゃろう」
言って音も立てず透明な羽を羽ばたかせる。
「知っておいて欲しいのは二つじゃ。ひとつ。基本的に変異の程度が軽微な者や代を重ねていない者ほど、浅い界層――ここから見て近い方に住まう傾向が強い。逆が深い領域じゃな。まあ、あくまで傾向じゃが」
現地の人間相手に、不用意に変異やらの話はしない方がいいということか。見知らぬ世界で、いきなり地雷を踏み抜くことはない。
「そしてふたつ。『ここ』から来たことは強いて口にせん方が良いかもしれん。あまりいい顔をされんじゃろうからの」
「「?」」
言ってからシアは暫し瞑目すると、
「結界を抜けるついでじゃ。ぬしら、あの塔には登った事がなかろう」
妖精は巨木地帯の向こうを振り仰ぎながら言う。
「中に案内しよう」
――――――
迷いの森の中に佇む、石の塔。シアによれば、『求道者の塔』と呼ばれているらしい。カルミアが来てから発見したこの構造物には、出入り口が存在しなかった。
少なくとも見た目上は。
些か規模の違いはあるものの、その威容はかつて金字塔と呼ばれたピラミッドを彷彿とさせる。中に入るのが目的とは限らない、巨大建造物。もしこれも同じような思想で建てられたものなら――
つつ、とシアが塔の表面を撫でる。石造りの壁面はざらついており、改めて見るとどれ程の歳月風雨に曝されてきたのか、全く見当がつかなかった。
「こっちじゃ。離れずついてくるが良い」
言って反時計まわりに飛ぶ。壁のどこに秘密の入口があるのか、カルミアたちと再度目を皿のようにして探すもやはり分からない。シアは壁には一瞥もやらず、ひたすらそれに沿って飛んでいた。そこでようやく気付く。
「もしかして、壁沿いに移動すること自体が、鍵になっているのか」
「ご名答じゃ」
ニヤリと妖精が振り返る。
「少しばかり時間はかかるがのう。しかしそれだけ、安全でもある」
言いながら二周目に突入する。まだ何も変化はない。
三周目。変化なし。
四周目。同じく。
「……結構、歩くんだね」
疲れている訳ではないだろうが、思わずカルミアがそう零す。
「なに、まだようやく入口じゃぞ」
「うへえ、あと何周するの?」
「心配するな。ひとまず――」
言って妖精が止まる。丁度七周。そうしておもむろに、
「――『本物』の塔に向かうとしよう」
壁に突っ込んでいった。
「「!?」」
驚く間もなく、小さな身体がぞぶりと壁に入っていく。まるで粘性のある水に入るような、そんな重さが僅かに揺らめく。恐る恐る触れてみると、壁が吸い付いてくるような感触を覚えた。
「何をしとる、早う来い」
壁の向こうからシアの声がする。あまり長く解除は保たないのかもしれない。
覚悟を決めて足を踏み出す。内と外を隔てる薄膜を抜けると、そこは――
「……っ!」
眩しさに一瞬目が潰れそうになった。何だと思いつつようよう瞼を開くと――――肌が粟立つのを覚えた。
白一色。
真っ白な空間だった。
どこまで空間的な広がりがあるのかは分からなかった。境目らしきものが何一つ見当たらないのだ。
その中に、黒い階段がひとつ。空間内の色を全て喰らい尽くしたかのような、深い闇の色だ。知らず見入ってしまったのは、その色としての、純粋な美しさ故だろうか。
ふと足下に目をやれば、自分の影が消失していた。まるで階段に吸い込まれたかのように。後から来たカルミアも、同様に口を半開きに驚いている。
「ここは――」
「内側と外側を繋げる結節点みたいなものじゃな。線ではなく点じゃ」
点。だから存在はあっても影はなくて構わない、とそういう理屈だろうか。
「ほれ何しとる、さっさと行くぞい」
ぽかんと口を開けていた二人を尻目に、テトがダイフクを乗せ、シア共々階段を上ってゆく。
あれこれ考えてもしょうがなさそうだった。とにかくコレを上ってみるしかない。
カルミアがおっかなびっくりテトの後を追い、程なく先を行くシアの姿が消えてしまう。驚く間もなく、次いでダイフクたちも。
「ああ、そういう仕組みね」
何か理解したのか、カルミアも続いていった。残すは自分だけ。
「……大所帯だな」
苦笑ともつかぬものが漏れるのを意識しながら、階段を上っていく。
次第に、階段の黒が溶け出したかのように、白い空間が灰に変じてゆく。そうしてやがて白と黒の比率は逆転し、階段は雪のような純白に、空間は夜闇の色に染まってゆく。
上り終えるとそこには、奇妙な塔が建っていた。
十数階もあるガラス張りで、それでいて両手で絞ったかのように捩れている。
そして何より――
「人がいるのか!」
建物内に多くの人の姿が見えた。
しかしどうも様子がおかしい。
カルミアが片手を口に、遠巻きに動けないでいた。
シアは「分かってはいても、慣れんものじゃ」と苦い顔を浮かべている。
ダイフクとテトだけは、いつもと変わらぬ調子で中に入ってゆく。
少し塔に近付いてみて、そこでようやく分かった。何故二人が立ち尽くしているのか。
中に人は確かにいた。
だがどれもこれも、眠ったように固まり、塔の内側を漂っているのだった。
「ようこそ『求道者の塔』へ」
シアの声だけが闇の中で響く。
「物言わぬ者たちの揺り籠へ」