幕間
夜汽車の中だった。
乗る車両に乗客は殆どおらず――もっと言えば、自分と斜向かいに座る若い女の二人きりだった。
女の肌は白く、血の温もりが仄かに赤く浮き出ていた。髪は黒い。艶やかだ。瞳も黒く、僅かに青く、夜の海の色を湛えていた。美しいその眼差しを、退屈そうに流れる車窓の向こうに――そしてやがてひとつ、小さな溜息を吐く。
「ねえ」
どうやら私への問い掛けであるようだった。
「何だ」
「人嫌いなんでしょ?」
何とも不躾と言うべきか、それとも遠慮がないと言うべきか。
「……一応、そう自負してはいるが」
「窓側と通路側、人嫌いが座るならどちらの方が気が楽なのかしら」
私は通路側に座っていた。
「通路側に人がいる場合、出入りに窓側の人間が一声掛けるなりしなければならないけど、用を足したりしない限り、それ以外は関わらなくていい。逆に通路側は自由に用を足したり出来るけど、窓側の人間を入れる為にいちいち動かなければならない」
ボックス席に座っているのに、何故そんな事を訊くのだろう。まあ、それをわざわざ口にするのも、無粋というものだが。
「通路側かな」
「何で?」
顔は車窓に向けられたまま、彼女の目だけは反射して映る窓越しに私の目を見つめていた。
「出入りするのに遠慮がないから」
こちらが気を遣う分には構わない。窓側席に座ったら、やはり通路側に気を遣わせそうだし、あからさまに面倒臭そうな顔をされるのが嫌だった。自分が人を通すことに煩わしさを覚えるタイプではない、というのもあるのだろうが。
「私は、窓側かなあ」
女が僅かに顔を傾ける。
「外の景色を楽しむとか、自分の世界に浸れるじゃない」
言わんとすることは分かる。自分の席を境に、外的要因に左右されることのない、没交渉でいられる空間を作れるのは大きいだろう。それはそれで十分理解出来た。どちらを選ぶかは価値観のちょっとした違いなのだ。
「人の集まるところに行かなくて済む人嫌いはいいけど、そうじゃない方が圧倒的に多数よね」
彼女が遠い目を向ける先に何があるのか、何もないのか、光が窓に反射して、こちらからは上手く窺えない。窓の向こうは向こうで、ひたすら黒い陰影が流れるばかりだ。
「理想に届かなかった人間は、理想に殉じるのが美しいのかしら」
女が続ける。脈絡がない。言葉の意味は理解出来たが、発言の意図までは掴みかねた。
「理想を追い求めて、結果諦めるのは、決して醜くないわ。でも、追い求め続けるのって、自分の未来を損なうことになりはしないかしら」
半ば観念的な問いに、容易に頭は働いてくれない。
「新しい道を模索するのにも、多くの場合、長い時間がかかるわ」
女がこちらに向き直りながら言う。車内を照らす電球色が、女の唇の上を艶かしく流れていく。無表情という訳ではないが、決して答えが得られるものとは思っていない、感情をどこかに置いてきたかのような表情が私に向けられていた。……まあ、大して期待されている訳でもないのなら、好き勝手言っても問題ないだろう。
「理想って、不安と表裏だろ」
女が僅かに眉を顰める。それがまた、妙に可愛らしかったりする。
「ゴールまでの距離が離れていればいるほど、その途方もなさに簡単に打ちのめされる。現実までの距離にね」
「理想を現実にするには――いや、不安を消すには、どうすればいいの?」
「続ければいい」
女がこちらを見つめる。
「細々とでも続けていれば、それは何かしらの蓄積にはなる。まあ、だからこそ不安が幾らかでも緩和されて、理想に近付いていると錯覚して、結果どうしようもなくなるんだとも言えるが……」
「蓄積になることと、理想に近付くこと、その二つは別モノ?」
「行為の一つ一つが正しくゴールに向かっていると分かるなら、誰でもそうするだろう? そういう保証があるなら、『夢』なんて言葉は存在しないさ」
向かいから小さく笑いが漏れる。
「不確かだからこそ価値がある、ってこと? 随分ロマンティックな事を言うのね」
「茶化さんでくれ。コツコツ着実に積み上げている人間には報われて欲しいと思うのが自然だろう。客観的に可視化出来るならまだいいさ。自分の仕事や能力が正しい方向に役立っていると分かるなら。だが実際は? 殆ど分かりゃしない。……だからこそどいつもこいつも、十把一絡げにそういう『夢』を笑うのさ。安全圏から、高らかと。博奕打ち相手ならいくら物笑いの種にしても構わない、ってね」
「手厳しいわね。夢を抱くのは博奕?」
「ある意味そうだろう。逆に言えばだからこそ現実を見れていない愚か者が、逃げ道に『夢』なんて言葉を軽々しく使いたがるのさ」
「あなたはどっちなの?」
「勿論――愚か者の方さ」
大仰に自虐的な身振りをしてみせるも、女はそれを馬鹿にするでも、一緒に笑うでもない。じっとこちらの目を見て、そうしておもむろに懐から何かを取り出した。
「一枚引いてみて」
タロットカードだった。素直に細長い束から一枚引いてみる。表には崖の上に立つ若者の姿が描かれていた。
「引きがいいわね」
「どういう意味なんだい」
カードを指差し訊ねるも、女はそれには取り合わず、
「これを見て、どう感じた?」
「どう? そうだな――なんか、こいつには幸せになって欲しい、って感じかな」
「幸せに」
「一見自由気儘で軽薄そうだし、病んでいるようにも、やぶれかぶれになっているようにも見えるけど……そこを突き抜けて欲しい、かな」
「報われて欲しいってこと?」
「そうかもな。何て言うか……いや、何でもない」
思わず口を噤んでしまう。若い放浪者の姿に自分を重ね合わせている気がして、急に気恥ずかしくなってしまった。
女はそんな私の内心もお見通しとでも言うようにクスリと笑い、
「これは『愚者』のカードよ。本当の自分の在り方を、見つめ直させてくれるカード」
ああ、なるほど、と思わず頭を掻いてしまう。さぞ私はバツの悪い顔をしていることだろう。
「まあ、絵やカードの意味はともかく、貴方が他人に温かい目を向けられる人だ、ってことは分かったわ」
こちらとしては「どうも」と答えるくらいしかない。
「そんな人が人間嫌いであるとは、到底思えないのだけど」
そう言われても、率直なところ少し困ってしまう。
深い関係性を築くことはあまり得意ではない。好きではない、と言う方が正しいか。ある程度の距離感を保っている方が、安心する部類だ……世間はそれを、気楽さに逃げていると言うのかもしれないが。
「誰かと親しくなることそれ自体が嫌な訳じゃない。勿論、色んな人と昵懇の間柄になれるなら、それはそれで良いことだろう。でも正直、そこまでの必要性は覚えないし――いや、少し違うか」
「違う?」
頷いて窓の外に視線を向ける。こちらを向く女の後頭部が窓に映っている。それを見つめる自分の顔は、些か間抜けに感じられた。
「結局は一歩が踏み出せないんだろうな。他人の内側に入るのが怖いんだ」
言いながら、不思議と窓に映る自分の顔は笑んでいる。
「世間ではそれを、怖がりと言う」
違いない。苦笑とともに女に向き直ると、彼女は穏やかな笑みを湛えていた。
「愚者は〇番。破滅するも飛躍するも、貴方次第。心の思うがままに歩いてみるといいわ。プロローグはここまでよ」
女が僅かに窓を開けた。差し込む光は白く眩く、向こう側が見通せない。そろそろ降りる時間のようだった。女に目礼して立ち上がろうとして、「そうそう」とまるで忘れていたかのように、彼女が手元の『愚者』を口元にやる。
「人間、一体何割を自分の意思で生きていると思う?」
また突拍子もない問いだった。ひとまず「三割くらいかな」と適当な答えを返しておく。
「多いのね」
「そういう君は?」
「百の内の、二から三、かしら」
随分と悲観的な数字に思われるが、意思とは何ぞやと問われれば、容易に答えは出ないだろう。
「昔は貴方と同じか、それ以上と思っていたんだけどね。ちょっと考えが変わったの」
「何かキッカケが?」
問うと彼女は目を細めて笑いながら、
「それはまた今度、もし貴方が覚えていたら、ね。でも忠告だけはしておくわ」
言って彼女は手元に残ったカードをパタパタとひっくり返していく。
「目に見えるものを素直にそれと受け取るのはいいけど、見るものに対する捉え方は、万人が同じとは限らないわ」
表になったカードには崖の上に立った男、放浪する男、犬に危険を知らされている男――どれも『愚者』だ。
私は『愚者』しかないデッキから『愚者』を一枚選ばされたことになる。
「人間の意思や行動なんて、ともすれば容易に誘導されてしまうものよ」
差し込む光が強くなり、女の姿を白く塗り潰していく。
「お互い失いたくはないわね。そういうのに対する感性は」
そんな言葉を残して、眩い光の中に彼女が消えていく――
光が視界を塗り潰す。白一色の、有無を言わさぬ光が。
その中から、浮かび上がってきたのは――
人の群れだった。
表情がない。
女の座っていた席を除き、全ての席が埋まっている。
照明が薄青い光をぼんやりさせる中、
真っ直ぐ前だけを見つめた、それら。
人間?
立ち上がろうとするも、金縛りにあったように動けない。
正面に座る女の生気のない眼差しが、本能の何かを揺り動かす。
動け
動け
声も出せない。
嫌な汗が滲み出そうになったところで、女の瞳に違和感を覚える。
彼女のそれは列車の席を映している。
平たい形状を映している。
赤い色を映している。
つまり。
――そこに、私は映っていなかった。
そこで目が覚めた。