11.山猫
アイコンタクトというのは不思議なもので、時に全く理解されず取り違えられることがあるが、逆に十全以上に物語ってくれる時もある。今日の女は後者だった。
彼女が立ち直ったところにちらと向けられた私の目配せで、息を合わすように、ゆっくりと山猫から離れていく。
一歩ずつ、歩調を合わせるように、焦燥感を押し潰しながら。
彼女は私の横に並ぶと、ゆっくりと同じ方向に向き直る。ヒュッ、と息を飲む音がした。山猫の視線は、今や二人に向けられていた。息を揃えて、後ろ向きに、歩き出す。沢から小屋の方、開けた一帯へと脱出を図る。
(あれは……動き出したら一瞬だな)
山猫は微動だにしないも、一見して肉体に尋常でない力が秘められているのが分かる。筋肉がどうとか、そういうことではない。生殺与奪の権を握られているのではないかという、確信に近い、強烈な印象。
(……慌てたら、終わりだ)
足元は湿っていて滑りやすい。その上後ろ向きに登らねばならないのだから、神経を遣う。
それでも注意深く、視線を切らさず、背後に開けた光の気配を感じるところまで来て――
(……ちょっ!?)
女が駆け出しやがった。小屋に避難するつもりか。
すぐさま前方の影がそれに応じて動き始める。しなやかな肢体はそう急いでいる訳でもなく、それでいてあっという間に私の鼻先まで距離を詰めてくる。
そうしてじっと、私の目を見つめる。至近距離で見る黄金の瞳は、魔に魅入られそうな美しさだった。
(――覚悟を、決めるか)
山刀の柄に手を掛けようとする。が、相手は全くこちらを気にせぬ模様で、するりと横をすり抜けていってしまう。その先には――
(せっかく助けてやったってんのに……!)
山猫が自分をターゲットにしたことに気付いた女の、恐怖に歪む顔が見えた。みるみる距離を詰められ、残り三十メートルの地点で回り込まれてしまう。
蹈鞴を踏んだ女がナイフを抜く。
山猫の方はやはりさして気にするでもなく、無防備に近付いていく。
そして間合いなのだろう、女から五、六メートルの距離を取ると、ぐるぐると彼女を中心に、回り始める。それは狩りのようにも、遊びのようにも見えた。
女が突きを繰り出す。日の光に刃が煌めいた。山猫はそれをワケもなく、最小限の動作で避ける。そして反撃するでもなく、また女の周りをぐるぐるし始める。軽く退き、身を屈め、ちょっと捻って。女の攻撃を次々避けてしまう。熟練のボクサーも斯くやといったところだ。
その間にようやっと彼らの許へ走り着くと、ふと気付いた。
(あいつ、俺にはちょっかい出して来ないな)
不思議と狙われるのは、女の方ばかりだった。こちらにはちらと視線を向けることはあっても、積極的に近付いてくる気配はない。何故だ? ――いや、ワケを考えるのは後だ。
「おいあんた!」
呼ばれて女がちらとこちらに目をやる。
「上がれるならさっさと小屋に上がるぞ!」
もとよりそうする外ないのは彼女自身分かっているのだろう、視線は山猫に向けたままゆっくりこちらの隣に並ぶと、小屋の方へと下がってゆく。
私が一緒だからか、山猫はやはり動かない。そんなにクサいか? なんて馬鹿なことすら頭に浮かんでしまう。のそりのそりと緩慢な動きで近付いてきたのは、こちらがようやく小屋に上がり始めてからだ。
二人して戸を潜ると、すぐ脇に山積みしてあったものを外に向けて豪快にぶち撒ける。蓮の葉で軽く結わえ包まれたそれらが、地面に落ちるや四方八方に飛び散る。
真っ直ぐ向かってきていた山猫の前足が空を掻き、程なく距離を取って何とも言えぬ眼差しをこちらに送ってくる。
(気休め程度だな)
足元に零れ落ちたそれ――薔薇の枝切れを摘み上げ、外に放り投げる。
昨日の内に用意したものだった。影に潜られてしまう可能性は措いて、物理的な障壁代わりになるものを探した結果、辿り着いたのがこのマキビシ的なものだった。これなら採集に極端な時間は掛からないし、箒で掃き集めればすぐに片すことが出来る。
(あの身体能力の前では無意味かもしれないが……)
前方広範囲にばら撒いたとは言え、あの山猫が少しばかり本気を出して跳躍すれば届いてしまいそうな気配だ。
だが気休めでも何もやらないよりはマシ……だと思いたい。状況が悪化する展開も十分あり得るし、向こうが怒り狂って襲ってこないとも限らない。
……幸いと言うべきか、山猫は数度うろうろした後、森へ帰っていった。尻尾は垂れ下がり、心なしか残念そうにも見えた。これでひとまず今回はどうにか――
ドン、ド、ガチャ、ガラララ
振り向けばナイフを胸の前に突き出したまま、女が蹲っている。彼女が壁にぶつかった衝撃で、架かっていた農具やそこらに積んでいたものが倒れていた。
ナイフはこちらには向けられていない。
白刃の示す先に居たのは――
ポヨン
ダイフクだった。
明確に恐怖を示されて、困惑したようにその場でウネウネしている。
「すまん、そいつは……大丈夫だから」
女に言うも、聞く耳を持たないのか、ひたすら手を前に突き出したまま震えている。
その恐怖に当てられたのだろう、ダイフクは逃げるように家を飛び出していった。通ったところに撒いてあった刺を、見事に回収しながら。
必然的に、小屋には二人、女と自分だけが取り残される。女がダイフクの居なくなったことに気付いて、堰を切ったように嗚咽を漏らし始めた。ナイフは床に転がり落ち、私はただその様を眺めているより外なかった。
どれ程の時が経ったか、いつしか涙も枯れ果て、彼女は力なく、音も立てず、膝を掻き抱き俯いていた。そうしてぽつりと、
「好きにすればいい」
そう呟いた。
項垂れ、乱れた前髪から覗くのは、生気のない表情だった。
自らを見放した、そんな表情。
頬には流れたものが乾いて出来た白い流跡が痛々しく残っていた。
掛けるべき言葉なんてない。どう答えても気持ち悪さが残る。それでもこのままという訳にもいかない。何かは言葉にしなければならなかった。
(……そもそも、名前も知らないな)
名前を知っておかないと具合が悪い訳ではないが、いつまでも『あんた』なんて呼ぶ訳にもいかないだろう。
しかしあんな顔をしている子に、『お名前何ですか』なんてへらへら訊ける筈もない。それに小屋を出ればこの空気からは解放されるだろうが、今彼女を一人にすれば衝動的に何をするか分かったもんじゃない。
どうしようものか頭を掻いていると、森の向こうに再び山猫がその姿を現す。
反射的に山刀の柄に手を掛け――女はびくりとなりつつも、立ち上がることはなかった。
「……ん?」
と、山猫の背に見慣れた白いフォルムがぷよぷよ、上下に揺れていた。
ダイフクだ。
自分が回収し障害のなくなった道を、ゆったりと進んでくる。そのまま山猫と小屋に上がると、ダイフクが体内から魚を一尾取り出し――山猫がそれを咥え、私の前に持ってきた。
「……くれるのか?」
問うも当然答えは帰ってこない。じっと黄金色の瞳がこちらの反応を窺う。
「……ありがたく貰っとくよ」
魚を受け取りそう言うと、尻尾が機嫌良さそうに揺れた。
次いで尚も硬直している女の前で、同じように魚を取り出し、咥えて渡そうとする。女は最初ダンマリを決め込んでいたが、山猫も魚を咥えたままピクリとも動かない。やがて疲れたのか面倒臭くなったのか分からないが、とにかく根負けしたのは女の方で、「貰うわ」とだけ呟くと、魚を大人しく受け取った。
すると山猫はあからさまに嬉しそうに、猫撫で声で尻尾を揺らし、挙句ダイフクに二匹目をねだってそれを更に女に献上していた。
(こいつ、絶対オスだろ)
先程から女の方ばかり追い回して、逃げ惑う彼女と対照的に山猫は遊んでいるように見えたものだが、実際その通りで、女と遊びたかっただけなのではないか。
ダイフクが山猫から降り、やれやれといった風で私の側まで跳ねてくる。
「仲良くなったのか」
ダイフクが数度、気持ち良さそうに跳ねる。そうだと言いたいのだろう。
手元の魚は新鮮で、光に鱗がキラキラと輝いている。――そこでようやっと気付く。
「ワタが抜かれてる」
魚は例のイノシシと同じように、綺麗に腹部がはつられ、内臓が取り除かれていた。山猫が、『褒めて褒めて!!』と盛んに尻尾を揺らしていた。まるで犬のような反応だ。
「……ぷふっ」
女が思わず吹き出す。或いは呆れも混じっているのだろう。彼女自身、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。
「……まあ、じゃあ」
自然、私はこう言うくらいしかない。
「取り敢えず……これ食うか」
――――――
恐らく自分は今、釈然としない表情を浮かべていることだろう。
さっきまでの殺伐さも何処へやら、目の前には女が、その隣には彼女に刃を向けられていた筈の山猫が、火を囲み揃って寛いでいる。山猫は女に背を撫でられ、目を半ば瞑りうっとりと身体を横に伸ばすまでしていた。終わってしまえばただの喜劇だが、正直目まぐるしい展開に多少ついていけていない。私の上に登ったり皆の周りを回ったりと、いつもと変わらぬダイフクの存在がせめてもの救いと言えようか。
「……八朔でも食うか?」
「頂戴するわ」
女の口数も、自然と増えていた。元来、無口な方でもないのだろう。
「でもあたし、随分『貰っちゃってる』けど、大丈夫なの?」
彼女が言っているのは、実を採り過ぎではないかということだろう。今晩だけで皆の分合わせて四つ、朝と昼には目の前の女が相当数もぎっていた。が――
「元々の生りがいいからな。それに、土壌が豊かだからか、やけに成長が早いんだ」
実際、一度測ったことがあった。数少ない食後の楽しみを、出来るだけ長く味わいたかったし、早晩乾涸びてしまうなら早目に収穫しても変わらないからだ。
しかし案に相違し異常とまで言えるスピードで育っていることが分かってからは、あまり気にしなくなってしまった。通常この手の作物は収穫から次の収穫までの間隔がおよそ一年は掛かると思うが……土を休ませる必要があったり、或いは品種次第だが、モノによっては数年を要することだってあるだろう。
それでいてあの八朔は、既に相当量収穫しているにもかかわらず、一見して私がここに来た当初とあまり変わっていない。
それもその筈、捥いだと思った翌日には横から小さく青い実が生っており、僅か二週間程で重量感のある、綺麗な黄色い果実に熟すのだ。
「え、何それ、大丈夫なの?」
「今のところ害はない」
完全に無害だと確言まではしかねるが、こんな得体の知れない土地なのだ。このくらいで敬遠するようでは、文字通り生きていけない。
「確かにね」
嘆息をつきながら、女はナイフで器用に皮を剥いていく。傍らの山猫に「いる?」と螺旋を描く皮をぷらぷらさせると、皮なり丸ごと食ったばかりなのに、飽きもせずそれを貰うとすぐに咀嚼し始める。苦くないのだろうか。
「そういやあんた、名前は?」
「名前? んー……カルミア」
八朔の滴を弾けさせながら、殊の外あっさりと、女はそう告げる。本名か? と問う前に、傍らに生えた花を頭に挿して、
「名前なんて記号みたいなものだから、花の名前でも構わないでしょ?」
「……まあな」
元が花屋なのか何なのか詮索する気もないが、八朔の酸っぱさに顔を顰める様は、最初目にした警戒心丸出しの姿とも――そして先程の諦めきった表情とも違う。これが彼女本来のタチなのだろう。私が得意な部類ではなかったが、この方が余程人間味があって、好ましかった。……切り替えが早過ぎるだろ、とは思ったが。
「あなたは?」
「ん?」
「あなたの名前」
「俺?」と、思わず呆けた返事をしてしまう。実のところ、何も考えていなかった。他人に名前を誰何しておいて自分の方は名乗らないなど、礼儀知らずもいいところだろう。
といって、どうしようものか。普通に名前を教えても良かったが、それだと何となく今までの日々と地続きになってしまうようで、気が進まなかった。暫く人に会う事はないのだとタカを括っていたから、女のようにパッとは適当な名前も思いつかない。
口を半開きに軽く考え込み始めると女がニヤリと笑みを浮かべ、
「キミ、あんま女の人にモテないでしょ」
図星ではあったが、被りを振って適当に流しておく。そこでふと、あの緑の目をした男の言葉が思い出された。
『――言っただろう。助けを請われたからにはそれに応えたい。流れのままに漂ってみるのも、悪くないと思わないか?』
「……ウキクサ」
「そう。ひとまず宜しく」
言って女が手を差し出す。努めて自然に握ったつもりだったが、それでもどこかぎこちなくなってしまった。……やっぱこの女苦手だ。美人だからというのもあるが。
「で、早速なんだけど――暫く同居させてくれない?」