10.恐れていた事態
石塔の調査は一旦保留にして辺りを探索したものの、結局他の人工物に行き当たるようなことはなく、いつしか良く知る南端側の間道から家に帰り着いていた。
庭で雑草を食んでいたダイフクを拾って家に入ると、改めて手製の地図に目を落とす。
中央の開けた一帯にあるのが、藁葺き石造りの建物。現在、自分が家としているこの小屋だ。そのすぐ側に、家庭菜園と果樹が連なるように植わっている。
南の間道から森に分け入り、南東方向へ暫く進んだところには、本式の菜園と朽ちかけた物置小屋がある。青地に赤い斑点のキノコがあるところだ。ここで目にした足跡は、はつられたイノシシのところで見たそれと同一のものだった。
地図の反対側に目を移せば、北北西に森を歩いたところに沢がある。ここは家からは南の菜園より近く、貴重な川魚やら沢蟹が手に入るので、比較的足を伸ばしやすかった。
ここより更に北に進めばあの植生の狂った極彩色の一帯がある筈なのだが――現在は到達不可能になっていた。
巨木が連なっていたのは、沢から更に北西、少し西寄りに行った辺りだった。最低でも数度は行き来している筈の場所だが、巨木を目にしたのは昨日が初めてだった。今日もそこを経由して問題なく石塔に向かえたことを考えると、やはりあの女の後を追ったことでルートが開けた、乃至女がこの地に来たことで開かれた場所なのだろう。
石畳で多少舗装された痕跡のある一部の道は別にして、ウロ穴の内部を見る限り、明らかに人の手が入った場所としては、あそこが三ヶ所目になる。四つ目が、その更に西に位置する石塔だ。
(歩いた感じ、一周するまでの実時間と距離感は、以前と変わらなさそうか)
ボールの上に描かれる模様は増えても、ボールそのものの大きさは変わっていない、そんな印象だった。
ともあれ今回の一件で、まだ『見つけていない』場所があるかもしれないと分かったのは収穫だろう。殊に北東部や南西部はここ数日足を運んでいない。再調査の価値は十分ありそうだった。
そうなるとやはりどうやってここに辿り着いたのか含め、あの女に諸々の経緯を訊く必要がありそうだったが、あの警戒度合いではまだろくすっぽ会話も出来ないだろう。
……しかし、ダイフクが腕の中に収まっていると落ち着く。感触もそうだが、話し掛けても必ずしもお互いの思っていることが伝わらない、この距離感がいいのかもしれない。一人暮らしでペットを飼う気持ちに近いのだろうか。良く分からないが。
解き放ってやるとダイフクはまた庭の雑草を食みに行った。そのシンプルな生き様は、ひどく牧歌的に映る。小難しいことばかり考えてもしょうがない――そんな気分にさせてくれるのだった。
翌日の朝方、夜明け前。
家庭菜園の方で物音がすると思って起き上がってみると、細窓からあの女が八朔を採ろうと四苦八苦しているのが見えた。ここまで来れたのだから、足の方は多少マシにはなったのだろうが、八朔を捥ぐのにかなり難儀している。あんな力任せに引きちぎろうとしなくても、コツさえ掴めば楽に取れるものなんだが。
――と思っている内に、ブチッという音とともに女が後ろに転がってゆく。手の内には中身が半分飛び出した戦利品が、薄明の淡い光を受けてきらきらと滴っていた。
見咎められていないかと女が辺りを見回し、そこで窓に張りついていた私と目が合う。一瞬大きく見開かれた目はしかし、決して逸らされることなく、ジリジリと後退り始める。そうして途中で思い出したように懐を探ると、こちらに向けて何かを出すのが見えた。
小型のナイフだ。見覚えのある形状は、先日私が懐に忍ばせていたものだ。状況も状況だったし、意識から飛んでいるときに不注意で落としてしまっていた。……情けない話だが。
しかしそれは女の方も同じようで、収穫するときに使えば良かったのを忘れていた恥ずかしさからだろう、暗がりでも分かるくらい、表情が険のあるものに変わっていた。
八朔を取っていくことをいちいち咎めるつもりはなかったが、向こうはこちらが目を離す隙を窺っていたのだろう。戸口でガチャガチャやって出た頃にはもうかなりの距離で、後ろを向かず一目散に逃げているようだった。まあ、生っているものを一度に大量に持って行かれても流石に困るので、それはそれで良かったのだが。
――――――
北東部、及び南西部の再調査に乗り出したは良いものの、数日掛けても結局目新しい建物は何も見つからなかった。遺構のひとつくらい見つかっても良いだろうと嘆きたくもなるが、ないものはしょうがない。一応、収穫と言えなくもないものがあるにはあるのだが……
「これ、分かるか?」
頭に乗っかっていた白い物体がぷよん、と地面に着地する。目の前には例の『足跡』があった。猪の一件で見たのと同じものだ。場所は南西部の端。猪がはつられていたのが南の間道入り口付近で、南東方面の菜園でも足跡が見られたから、やはりこの辺りが縄張りなのだろう。
(もう一度、警告した方がいいかもな)
『南』の端に出没するということは、『北』の端にもいつ現れてもおかしくないということだ。いつあの女の目の前に現れてもおかしくない。当然、自分もあちこち探索やら収穫をしているから、立場としては同じなのだが。
ダイフクを連れて来たのは、同じ影に潜れる種族同士、何かしら分かるやもと思ったからだ。言葉では説明出来なくても、その反応で敵か味方か分かりでもすれば、御の字なのだが。
足跡を見るや、ダイフクは訳知り顔に数度頷いたようなそぶりを見せてから、おもむろに足跡の上に身体を押し付ける。次に跳ねた時には――足が一本生えていた。
ダイフクの身体と同じ真っ白なそれは大型犬並みの長さで、なかなかにリアルだ。爪や筋肉だけでなく、毛並みまで再現されている。これがどういう能力の産物なのかは分からないが、まるっとすべやかなダイフクの下半身からすらりと伸びる長い脚は、率直に言って不気味だ。
「会ったことがあるのか?」
問うと脚が屈伸運動をしてぴょんぴょん跳ねる。肯定的な返事だとは思うが、新手の妖怪にしか見えない。この精巧過ぎる脚がダイフクの記憶を辿り形作られているのか、或いは足跡の形を読み取りその場で謎理論により生成されているのかは知らないが、まあ兎にも角にも情報は情報だ。
「ダイフクみたいに仲良くなれそうかな」
そう問うと、何とも言えない様子で左右にゆらりゆらりと揺れ始める。ややあって一、二度跳ねると、形態を維持するのが難しくなったのか、ぶるりと震えて元通りの姿に戻った。最後に跳ねていたのは、『是』ということだろうか。そうであると良いのだが……
南の菜園で野菜を調達して家に戻ると、またあの女が来ていた。今回は籐籠を手に、八朔やらジャガイモを――小屋の横の家庭菜園にも気付いたらしい――詰め込んでいる。今度はナイフを使っているのもあり、かなり手際が良くなっている。同じ日に二度も来るのは予想外だったが、こちらが出払っているタイミングを狙っているのだとすれば納得だ。私に気付くや朝方と同様、こちらを睨んだままジリジリと後退していく。
しかし朝と今とでは、状況に幾らかの違いがあった。
まず一つ目。私は家の『中』ではなく『外』にいた。つまり女から継続的に視線を切る瞬間がないので、見失う心配はほぼない。
二つ。それなりに荷物を背負っている為、決して身軽とは言えないこと。両手にも簡易の籠を持っているので、なかなかのボリュームだ。まあ襲われそうになったとして、いざとなれば投げ捨ててしまえば良いのだが、そのときはそのときで、背負子のダイフクを驚かせてしまうだろう。
三つ。朝と違い、彼女に話し掛ける明確な理由があること。つまりは、あの謎の獣についてだ。伝えるだけ伝えておかないと、何と言うか、こちらの寝覚めが悪い。
そう考えてみると、こちらが大荷物なのは決してマイナスとも言えないかもしれない。両手が塞がっているのなら、警戒している相手の言葉であっても少しは耳を傾けてくれる……と思いたい。
「……この間も言ったが、得体の――」
そこまで言ったところで女が一目散に駆け出す。籐籠から戦利品が何個か飛び出すのが見えた。
まあ、別にいいんだけどね?
別に好かれたいとか、そういうことじゃないし。
でも、もう少し聞く耳を持ってもいいんじゃないか?
……などと思ったりもするが、客観的に考えて、良く知りもしない他人から、『自分の話なら聞かれて当然だろう』などと押し付けがましい期待を寄せられるのは、決して気持ちの良いものじゃない。
……いや、そうじゃない。これはもっと単純な話だ。
つまり、私は彼女と話くらいは出来るようになりたい。
対して彼女は当初よりはマシとは言え、未だ敵対的な態度を崩していない。
さて、私はどうしたら良いでしょう?
こういう問題の筈だ。であれば――
「得体の知れない大型獣がいるから気を付けろ! 伝えたからな!」
答え。取り敢えず大声で言うだけ言って、自分自身の義務感を満たしてやる。
これで少なくとも義理立てはした。後はどうなろうと、向こうの問題だ。そう思うことにする。大声に驚いたダイフクが背負子から飛び降り、不思議そうにこちらを見上げる。すまん、と詫びを入れると分かったのか分からないのか、いつものように家庭菜園の草を食み始めるのだった。
それにしても、と思う。
(……あの女、善人だな)
刃物を持っているなら、幾らでもそれで脅しをかけることは出来た筈だ。朝イチ戸口を出たところを狙うとか、家の中で息を潜ませているとか。
仮に彼我の体格差を鑑みて強い行動に出ていないのだとしても、盗みくらいは出来る。外出中は基本的に戸に鍵など掛からないので、必要なものを幾らでも持って行き放題なのだが、その形跡もない。スコップも金槌も、変わらず壁面に掛かったままだ。
(まああのランタンについては、幾分不気味だから敬遠されてもおかしくないが)
思いながら淡い光に手を差し伸べて、暫し瞑目する。意識は次第にあの女から、得体の知れない獣の虚像に向けられる。
(さあ――どう対策するか)
共存出来るのか出来ないのか、それすら分からない相手になる。武器や罠が必要なら、用立てるなり手入れをしておく必要があった。一応腰には扱いに慣れた山刀が、屋内の壁には何時ぞや作った竹槍や、種々の農具が掛かっている。一帯に罠らしい罠は設置していない。準ずるものとして鳴子がある程度だ。
(しかし攻撃したところで、本当に通用するのか?)
相手はイノシシをはつってしまえるような存在だ。ダイフクの再現した脚から推して、図体もそれなりの大きさがあると見るべきだろう。
加えてソレはダイフクと同じく、隠遁能力を有していると考えられる。正直、潜ったまま家の中に入られたときの対応策は何も浮かばない。壁に掛かったスコップやらを振り回し、大立ち回りを演じるくらいか。
「一応、物理的な障壁だけは用意しておくか」
なのでせめて家と相手を隔てる為の何かしらは講じることにする。忌避する臭いでもあれば良いが、それすら分からないのでは他にどうしようもなかった。
そして翌昼。
魚を獲りに、沢へ下りた時の事だった。
例の女が少し離れた岩の上にいるのが見えた。背を向けたまま、不自然に力んだ様子で、何故か身体が固まったように動かない。
――瞬間、バッとその身が振り返り、こちらに目が向けられる。
激しい慄きの眼差し。
私だと分かると僅かにその目元が緩み、しかしすぐに引き締め周囲を警戒する。
思ったものと違った、という事だろう。
それで流石の私も察しがついた。あの女が男以上に警戒するような相手。ただの野生動物に対する警戒心ではない、もっと未知の存在に触れてしまったことから来る、ある種の畏怖。
(――出たんだな)
影に潜れる種族を目にしたのだろう。例えば、
(『人魚』か)
隠遁能力を持つ個体がどの程度存在するのかは、全く見当がつかない。少なくとも自分が知るのは、『人魚』とダイフクの二種のみ。もう一種、恐らくそうだろうと思われるのが――
(…………ッ!!)
黒い、大きなシミだった。
それが音もなく左の斜面を滑り下りて、女が逆方向を向いている間に後ろを取る。
闇の中よりぬっ、と顕現したその姿は黒く、しなやかで、脚はダイフクが再現してくれたものと『同じ』ではあったが、柔らかな和毛が風に揺れると、途端、畏怖に似た何かが背筋を走り抜ける。
目は真円に見開き、満月のように煌々とした色。引き結ばれた口元は口角がキュッと上がり、理解を拒絶するような、それでいて明確な、思考の色を窺わせる。
(――山猫)
図体のデカさを無視すれば、一般にそう呼ばれるものの筈だった。前足で立った姿は豹もかくやという大きさだ。
(あれが……『内臓喰い』)
女の背後を取ったまま、何をするでもなく、ただ見下ろしている。
そう、見下ろしている。
つまり、女により濃く影が掛かっている。
遠目に見える彼女は顔色を失っている。ただただ足元に広がる影と少し先に咲く花の、その中空に瞳が縫い付けられたように動かない。
異様な光景だった。
周囲の自然はそのままに、二つの生き物だけが停滞した時間の中にいた。
「おい」
だから我ながら不思議だった。
「こっちを、見ろ」
そいつに向かって、そんな言葉を発したのが。
山猫は体勢はそのままに、ゆっくりと首から上だけを動かす。そうしてその月のような瞳が、真っ直ぐ私に向けられる。その、千里眼のような瞳が。
私は一歩を踏み出していた。明らかに、より面倒な方を選んでいた。
女を助けたいと、そう思ってしまったのだった。