1.宵闇からの逃走
森の中を影が駆けていた。
息荒く、一心不乱に、足を縺れさせながら。
薄暗い広葉樹の迷宮を掻き分ける様は、まるで何かから逃れようとしているかに思われた。
ソレは腐葉土に足を滑らせ、足元に盛り上がった木の根に強かに顔を打ちつけると、蹲り、そのままの姿勢で固まってしまった。続いて微かな呻きと、絞り出された、消え入りそうに頼りない声で何事か呟いた。
しかしその声も、数瞬後には森のさざめきの裡に融け、消えてしまう。鼻腔からは鼻血が垂れ、鈍痛と痺れが襲い、足首は挫いた為に力が入らない。擦り切れた右掌からは血が滲み、痛みと熱感が身体に信号を発していた。
痛みを堪えるように、ソレ――男はぎゅっと口を引き結び、緑の織り成す天蓋に向け目を見開く。両の眦には光るものが、今にも溢れ出さんとしていた。
身体を凭せ掛けた大欅は、天を衝く高さで男を見下ろしていた。広げた枝葉は泰然とその腕を伸ばし、それでいて一条の光も差し込ませず、無慈悲に男を空から隔てていた。
瞬間、込み上げてきたものを、彼は背を丸め押し殺そうとした。膝を抱え込み俯くと、滴がぽろぽろと、次第に膝を濡らしていった。
目は虚ろで落ち着きなく、思考は形を成していないだろう。
それでもそんな男の中で何かが閾値に達したのか、身体を震わせ、続いて森の闇に響き渡る程の、咆哮を発した。
――哀切な響きだった。
それだけで男の抱える懊悩の、その深さが知れるよう思われた。
次第に咆哮も絶え絶えに、息苦しく肩を上下させ――男の顔が奇矯に歪み始める。漏れ出る響きも次第に色を変え、忽ち奇声と呼ばれるものになってゆく。
そうして男は幽鬼のように立ち上がると、やおら側に生えた草花を毟り、木々を殴り、蹴りつけ――自分の身を痛めつけ始める。拳を痛め血が流れれば腕を叩きつけ、腕や足が使い物にならなくなれば体当たりを食らわせて。
そうして大欅に何度か頭突きを食らわせたところで、男はゆっくりと、倒れかかるように膝をつく。
額は朱に濡れ、口元は開き加減に、声にならない叫びを発していた。
腫れた両の目からは間断なく涙が伝い落ち、顔にできた無数の擦り傷に浸み込んでいった。
――どれだけそうしていたのか、気付けば天蓋の向こうから僅かに滲んでいた光も弱まり、周囲は鬱然とした色に満たされていた。
男がふと身体を硬直させる。或いは宵闇に塗り潰され始める緑青色の世界に、畏怖のようなものでも抱いたのかもしれない。心許なさに自らの身体を掻き抱くと、男は四方に神経質な眼差しを向けた。この世に自分が一人きりであるかのような、そんな不安を滲ませながら。
それは本来、彼の望んだことに近かったのかもしれない。でなければ、こんな森閑とした場所に足を踏み入れたりしないだろう。
だが、森の側からすれば『余所者』が何を求めて来ているかなど知ったことではない。
森は街ではない。
森では人間社会の概念など意味を持たない。
何らかの関係性から逃れてきたにせよ、そうでないにせよ、自然はそんなものは斟酌しない。
そして自らの懐に人間を迎え入れる義理もなければ、社会から拒絶された人間を、拒絶しない道理などない。
男が背後を振り返っても、そこにあるのは見知らぬ景色。前に向き直ってもやはり、そこに現れるのは数瞬前とも何かが違った、真新しい景色だった。
既に涙は消えていた。流跡が残るばかりで、目は大きく見開き、爛々と隈なく周囲に向けられている。警戒するような眼差しは、人と言うよりは獣のそれに近い。或いは本能がそうせよと男を動かしているのかもしれなかった。
それでもやはり身体は落ち着きなく震え、足元も覚束ない。心身ともに疲弊しているのは明らかだった。
暗緑色に曇る空を覆い隠すよう枝葉が広がり、ざわりと男を嗤うかのように揺らめく。それを目にして男は顔を強ばらせ、ふらつきながらも緑の濃い方へ分け入ってゆく。宵闇から逃れようと、導かれるようにより暗い、森のより深き方へ。
薄闇は森から彩りを奪い、徐々に濃淡の世界に変えてしまう。数刻も経てばここも闇一色に塗り潰されることだろう。
男はそんな森の中を、足を引きずり引きずり、苦痛に歪んだ顔で進む。樫の太い幹に身体を凭せ掛けたところで、額に浮かんだ脂汗が、だらだらと顔に纏わりつくように流れていった。
裾を捲り、男はちらと右の足首に目をやる。赤く腫れ上がったそれは間断なく鈍い痛みを送り続け、皮肉にもそれが男に多少なりともまともな思考を取り戻させていた。
男は思わず自嘲的な笑みを漏らした。畢竟彼の肉体は、そこいらの尋常な人間と変わりない。ある程度腫れが引くまで、大人しくしているより外なかった。
何か口に出来そうなものはないかと周囲を見回してはみるものの、薄闇の下見つけられたのは、僅かに木の根元から顔を出していた、斑らに得体の知れぬ赤黒いキノコくらい。食用に向くかは甚だ怪しい。木々や草花は瑞々しくはあったものの露は溜まっておらず、それらを食むことでしか喉の渇きは癒せそうになかった。
男がひとつ、太く、長く息を吐く。疲労の色は濃く、瞳にどうにもならぬ愁いの色が浮かんでいた。少し眠れば、起きた頃には申し訳程度でも夜露か朝露が下りているだろう。獣に喰われてしまうなら、それも一興かもしれない――そう思うや身体は素直に脱力し、意識を深い眠りに誘っていく。それに抵抗することなく彼はゆるりと思考を手放すと、森に沈む感覚とともに、いつしか眠りに落ちていた。男の側では例のキノコが、淡く、不気味に、緑色の光を放ち始めていた。
――――――
その仄明るい場所で、男は仕事に追われていた。雑多な書類の海に埋もれながら、あちこち忙しく足を運んでは、現地の者と調整し、或いは周囲を説得し――仕事は必ずしも楽とは言えなかったが、やり甲斐はあった。誰かの力になれる事は素直に嬉しかったし、何より成果が目に見える形で結実するのは分かりやすかった。
それがいつしか澱のようなものに侵蝕され、次第に自らが望んだものとは程遠い色へ変じてゆく。
向けられる悪罵、侮蔑の眼差し、錆びた農具の鋭い穂先――脳裡にこびりついた光景が、現れては消え、また現れる。
そうやって夢見たものが音を立てて崩れるとともに、現実の境界が曖昧に歪み始める。
自分が夢か現か、どちらの側にいるのか、何かしら答えを得たような気になっても、得た筈の答えは意識の底に溶けてゆき――
そうして痛みに目が覚めた。
右足首が、灼けるように痛い。
鈍痛とも刺すような痛みとも形容し難いそれに次いで、先刻身体中につけた擦り傷がじくじく疼き、身体をその場に縛りつけた。
意志を込め目を凝らしてみれば、そこには暗黒が広がっていた。時間は判然としない。まだ宵過ぎであるようにも、夜半であるようにも思われた。いかんせん、木々の広げた枝葉で空は殆ど見えないのだ。加えて月も星も雲に覆われているのだろう、地上にはぼんやりとした明るさすら届かない。
額が汗で滲み、長く伸びた前髪がべっとりと貼り付く。平衡感覚は覚束なく、凭れ掛かった大樹の感触がなければ、忽ち前後も左右も、上下さえも心許なくなりそうだった。
視界を闇に塗り潰され、身体が傷だらけな状況にあって、唯一両の耳だけは、夜の森を吹き抜ける風の音を捉えていた。不規則に揺蕩う音の波に枝葉が揺れ、野花のすれ合う像が脳裡に結ばれる。それに伴い、痺れてまだ使い物にならない筈の鼻の奥で、青く生い茂る草の匂いが再生された。
冴えた音の感触は、様々なイメージを呼び起こし、男はその度頭の中が透き通るような錯覚を覚えた。
――と、そんな中微かに、毛色の異なる音がした。
土の上を踏み締める、規則的な音。
時折細枝が折れ、パキリと乾いた音を鳴らす。
脳裡に結ばれる音像は、獣のそれとは明らかに異なっていた。
無警戒とも無遠慮とも言うべきそれは、近付きながら次第に頭の中で人の形を象っていく。
しかしこんな山奥に人が? それからして有り得ない話だ。
となると山の神か、でなければ死神の類縁が、人の生き血を啜りにでもやってきたのだろうか。或いは森の精が拐かしに姿を現したのだろうか――そんな空想と戯れながら、視線をゆっくりと前方に向けた。
そこには人型の何かが、音もなく佇んでいた。
と言うのも、人――恐らく男――であるのは確かでも、気配が異様なのだった。目に見えぬ何かが凝って人を形作っているかのような、本能的な忌避感に似た感触が、身体の内から背筋を抜けていった。闇夜の中でそこだけが、不思議とはっきり、色も輪郭も明らかなのだった。
表情の抜け落ちたかのような『ソレ』は、その双眸をこちらに向ける。
美しい、緑色だった。翡翠や孔雀石のそれに良く似た、滋味を秘めた、不思議な色合いだった。それでいて眼差しは透き通っており――吸い込まれそうな瞳というのは、こういうものを指すのだろう。逃げ出したいのか見惚れていたいのか分からない――そんな経験は初めてだった。
「もし」
問われて初めて『ソレ』の顔を見る。
中性的な面立ちは凡庸そのもので、かえって気味が悪い。あえて人間の顔を平均化したかのような、そんな作為めいた印象を抱いてしまう。年の頃は判然としない。四十過ぎであるようにも、二十歳そこそこであるようにも思われた。
「何用か」
そんなことを問われても、何とも答えあぐねてしまう。もとより特定の誰某に、こんな所まで会いに来た訳ではない。
それでも不思議と口は開いて――
「助けて下さい」
そんな言葉を発していた。
『ソレ』は僅かに目を見開くと、こちらを安心させるように膝をついた。穏やかな眼差しに、もはや突き放すような超然とした色は存在しなかった。
「当家で休まれるといい」
男の言葉に、思わず涙が溢れた。
程なく嗚咽がそれに交じり、その場で一頻り、赤子のように泣き出していたのだった。
男の肩を借り、一体どのくらい歩いただろうか。彼が手に持つ灯火の向こうに、ぼうとあばら屋が立ち現れた。暗がりで確とは見分けられないが、柱は苔むし、茅葺きであろう屋根の輪郭は、その上に野放図に伸びた草花の為、歪な印象を受ける。
「大丈夫」
僅かに身体が強張ったのを悟ったのだろう、男はそんなことを言った。そうして古びた木戸を引けば、そこは虚穴の如き薄闇が漂っており――次の瞬間には、灯りに照らされ室内の様子が浮かび上がる。
思わず息を呑んだ音が、するりと室内に吸い込まれる。
床は芝に覆われていた。それからして風変わりであるのに、異様に瑞々しく、艶がある。加えて内壁は土壁のそれで、木造家屋に思われた外観の印象とは相当に異なっている。内側だけを別の空間から切り取ってきたと言われた方がまだしもしっくりきた。
男が数カ所に火を灯すと、忽ち隠れていた室内の全景が浮かび上がる。広い卓は太古の巨木をそのまま切り出したのか、中心に向かい幾重にも年輪を刻み、縁は緩やかにくびれてそのまま床に――青々とした芝の絨毯に吸い込まれている。周りには切り株の椅子がぽつりぽつりと所在なげに置かれ、台所は灰白色、壁際に木製の匙や皿が整然と並べられていた。
「こちらへ」
ダブルサイズ相当の寝台は天蓋付きで、それでいて天板の一部が刳り貫かれている。頭上、屋根にぽっかりと開く円窓に合わせてあるようで、いつの間に雲が流れたのか、透き通ったガラスの向こうには柄杓型に星の連なりが垣間見えた。
「今日はひとまず、休まれるといい」
言われるまま寝台に腰掛けるも、短時間とは言え先程まで眠っていたのだからそう簡単にはいかないだろう……などと思っていたのが、ふかふかのベッドに横になるや、忽ち身体から力が抜けてゆく。微睡みを覚えるまではすぐで、いつしか意識は吸い込まれ、私は深い眠りに落ちていった。
――――――
緑色の瞳が、寝息を立ち始めた男を見下ろしている。
言葉を発するでもなく、ただ、じっと。
その表情は逆光になって良くは窺えない。
そうしてどれ程経っただろうか、男は不意に頭上、天窓から降り落ちる星明かりに顔を晒す。
立ち現れた表情は無機質だ。およそ感情というものが感じられない。瞳が美しく煌めくも、やはりそこにも何も映していないように思われた。
僅かにその唇が開き、子守唄らしきものが男の口から漏れる。
あな愛しや我らが嬰児
さやけき吐息の温もりよ
虚空に向けられた呟きは、何に拾われるでもなく、静まりかえった室内に溶け、消えてゆく。
されど児ら皆十色に老いて
親より先に死に果つる————