儀式の乙女は王子様に助けられ、
山奥の修道院にその話がきた時、イリスはすぐにその真実に気付いた。
ああ、無駄死か、と。
それは国としても修道院としても歴史的に見れば大変な名誉な事ではあったのだけれども。
世の中を正しく導く為に必要で、定期的に行われてきた伝統でもあった。
それが行われるのは数十年振りとあって、国も修道院も積極的に話を進めた。
だからイリスはその役目を果たすことを自ら志願したのだ。
それが無駄死でしかないと気付いたから。
世界に悪が満ちた時、乙女を生贄として神に捧げるというそれ。
身を清めた乙女が聖なる湖にその身を投げ、世の中の平穏を願うというそれ。
聖なる儀式だという、それ。
『選ばれた乙女』が神にその身を捧げる訳ではなく『修道院にいる乙女の誰か』で良い時点で神聖性など疑わしいものではないかとイリスは思った。
今の修道院で候補となったのはイリスとハイリの2人だった。
だからイリスは志願した。
何故ならイリスは自ら望んで修道院に入ったが、ハイリは生まれる前から強制的に修道院に入れられているだけなのだから。
ハイリはずっと修道院で暮らしていて、一度も外に出たことがないという。
高貴な血を継いでいるという話を聞いたことはあったが、イリスは詳しくは知らなかった。
ハイリの母親はハイリを妊娠中にこの修道院に来て、ハイリがまだ2、3才の時に亡くなってしまったという。
イリスは4才年下のハイリを妹のように可愛がっていた。
置いてきた実の妹への罪滅ぼしのような気持ちがあったことは否定出来ない。
けれど、ハイリの世間知らずなのんびりとした性質は、イリスにとってこの修道院での癒しだった。
イリスは今のハイリと同じ14才の時にこの修道院に来た。
ケンカばかりの両親を見て結婚に夢を持つ事が出来ず、結婚をしたくないからという理由で修道院に入ったのだ。
今思うと、なんて早まった判断をしてしまったんだろうと後悔している。
イリスは信仰心が強い訳ではないので、修道院の静かすぎる生活にすぐ飽きてしまった。
あまりの厳しさから他の修道院に移る人も多いこの場所で4年も耐えることが出来たのは、ハイリがいたからだ。
だからイリスは、このようなつまらないことでハイリに死んで欲しく無かった。
けれど、『生贄』となる為に立った崖の上で、イリスは全てを後悔した。
短気を起こして修道院に入ってしまったことも、お姉さんぶってハイリに偉そうにしてしまったことも、どうせ死ぬかもしれないならハイリの為にもっと何か出来なかったのか、ということも、ここまで来てから後悔するなんて。
死ぬかもしれない、という恐怖はイリスの凝り固まっていた頑固さを縮み上がらせた。
『生贄』になる者として体に溜まった毒素を出す為に、2日間少しの水しか口に出来ていない体は既にふらついている。
修道院に来てから質素な食事しかしていないというのに、どこに毒素が溜まっているというのか。
お肉などしばらく食べていない。
ものすごくお肉が食べたい。
何も食べず体温の上がらない体を冷たい風が更に冷やしていく。
どうして寒さも強まってくるこんな季節にこんなことをするのか。
お酒でも飲んで体を温めたい。
好きではなかったお酒を飲みたくなる日がくるなんて。
『生贄』のイリスは今から崖の上から崖下に広がる湖に飛び込まなければならない。
力の入らない体で冷える水の中に飛び込めとは、なかなか酷い話ではないか。
それでもこの儀式は助かる可能性だってある。
儀式としては『身を清めた乙女が湖に飛び込む』だけで終わりなのだ。
その後水に溺れ死んでしまうのか、それとも助かるのかは天の思し召しによる。
助かると思っているのか。
こんなにふらふらで冷たい水の中に飛び込んで、助かろうとする力が残っているとでも?
儀式をした者は必ず死ぬ訳ではないとはいえ、イリスには全く助かる想像が出来なかった。
どうせ死ぬかもしれないのなら死ぬ程甘味を食べてみたかった、とイリスは崖の上から湖面を睨み付けながら思った。
甘味は修道院に入る前から贅沢品だ。
修道院に入ってからは一度も食べれていない。
こんなのただ甘いだけの食べ物じゃないか、と馬鹿にしていた甘味をこんなにも欲する時が来るなんて。
崖の下には教会の偉そうな年寄り達と、国の代表だという偉い人達数名がイリスが飛び込むのを待っている。
人の命が懸かっているというのに髄分とショボい儀式様式ではないかとイリスは下で黙って待つだけの木偶の坊達を睨み付けた。
イリスの命などそれらにとっては大したものではないことなど分かってはいるが、どうせ命を懸けなければならないのならもっと崇め奉ってくれてもよいのではないかとイリスは不遜にも思った。
この儀式がくだらないものであることなど知っていたはずなのに、いざ目の前に死があるのを自覚すると怖くて仕方なかった。
この儀式を見にきた国の代表の中にはこの国の王子様もいるらしい。
儀式の為に来た人達を近くで見た時、イリスは今まで見たこともないくらい綺麗な顔をした王子様を、ガッツリ見てきた。
どうせ死ぬのだ。最後に綺麗なものをじっくり目に焼き付けるくらいいいではないか。
失礼に当たるのではないかというくらい王子様の顔を見てきたイリスは、下で待つ人達の中で一番若いだろう王子様の姿を見詰めた。
イリスとそれ程歳も変わらないだろう若い王子様は堂々と立っている。
王子様、私が死んだ後はただの儀式の犠牲者としてではなく聖女の如き乙女がこの国を救ったのだと大袈裟に評価して下さってもいいんですよ。
死んだ後のことなんて知りませんけど。
イリスは崖の上から王子様に念を送った。
じっと見ていると崖の下の年寄り達の顔なんて碌に見えないのに、王子様の顔だけはしっかり見えるから不思議だ。
やはり若さ故だろうか。
と下らない事を考えることで気を紛らわせようとしていたイリスはやっと決心を決める。
儀式の最大の失敗は乙女が飛び降りないこと。
もしここで逃げようものなら教会からも国からも大きく批判をされて、罪人に近い扱いを受けることになるだろう。
イリスは細く繰り返す息の中で少しだけ長く息を吐き出すと、思考を頭の中から追い出し、助走を付けて、一気に崖を飛んだ。
どうせなら、立派に。
短気を起こして修道院に入ってしまうような愚かな自分の過ちを、精算する時だ。
強い衝撃が体を襲った。
痛みと、冷たさが全身から生気を奪った。
死ぬ。
とイリスは瞬時に悟った。
ところが、死ぬ、と思った一瞬後にはイリスの顔は水面から出ていた。
意識せずとも肺が酸素を求める。
イリスは死ななかった。
誰かがイリスを助けたのだ。
この儀式は飛び降りた乙女を助けてはいけない。
乙女が死ぬのか助かるのかは天のみが知る。
その結果がどっちでも良いというとんでもなく適当な儀式だ。
長年この適当なまま続けられてきた儀式に疑問の声を上げる者はいない。
滅多に行われない儀式の為に労力を掛ける人などいないのだ。
助けてはいけないことは儀式を見守る者達なら知っているはずなのに誰が自分を助けたのだ、とイリスが死にかけたにしては冷静にその相手を確認しようとした。
冷たい湖面から早くイリスの体を助け出そうとその相手は既に水の端までイリスを運んでいた。
その力強い腕は教会関係の年寄り達な訳がなく、それなら国関係の、王子様の護衛の誰かとかか、と予想を付けたイリスがその相手を確認して、一番ダメな人がそこにいた。
イリスを助けたのは王子様だった。
イリスは瞬時に現状を理解した。
気絶しなくて良かった。元々町娘のイリスは意外と頑丈だった。
「大丈夫か?」
心配そうに王子様が声を掛けてくれる。
既に体は水の中から出ていた。
冷たい水で冷えた体は早く現状をどうにかしたいと望んでいるが、やらなければならないことがある。
イリスは座ったまま力が入らない体を王子様の方に向け、深く頭を下げた。
「助けて頂きありがとうございます。私はこの恩をあなた様への忠誠で返したいと思います」
声は、はっきりと出た。
これで誤魔化せるかは分からないが、相手が相手だけに『忠誠』で納得してもらえないだろうか。
この王子様が儀式で乙女を助ける意味を知っていたとは思えない。
これがイリスが出来る最善の行動だった。
崖から飛び降りた乙女を助けた者は、その責任を取って乙女と『生涯を誓う』ことが決まりとなっている。
『生贄』役に選ばれた乙女に想いを寄せていた男が崖から飛び降りた乙女を助け、結ばれた事からその話は来ている。
つまり、国や教会の為の伝統的な儀式から恋愛的な伝説の面も合わせ持ってしまう適当感溢れる儀式なのである。
今回の儀式でイリスはこっちの方は有り得ないだろうと気にしてなかった。
修道院にいては恋愛関係になりそうな異性と会うことすらなかったし、町娘だった時にも親しくしていた異性もいなかった。
ところが、今回どういう訳か儀式を見に来ていた王子様がイリスを助けてしまった。
通常ならイリスと王子様は結婚しなければならない。
それが教会が決めた決まりだからだ。
けれど、イリスが王子様と結婚するなんて有り得ない。
だからイリスは咄嗟に『生涯を誓う』の意味を『忠誠』にして教会関係者の判断を誤魔化そうとしたのだ。
死にかけたばかりだというのに自分は頑張った、とイリスは冷静な自分の判断を自画自賛した。
元から適当な儀式なだけに教会関係の年寄り達も「そんな感じでいいだろう」とイリスの判断に流されてくれた。
な、の、に。
「成る程。あれにはそういう意味があったのか。それなら結婚したらいいじゃないか。幸い俺はまだ結婚していない」
王子様がとんでもないことを言い出した。
「有り得ませんから。お断りです」
イリスは相手が王子様であることを忘れて素で返した。
儀式が終わって体を温めて食事を取ったイリスは、王子様に儀式で乙女を助けることの意味を説明したのだが、王子様はどうやら意味を理解していないらしい。
因みに熱は出なかった。やっぱり元町娘は頑丈らしい。
「更に幸いなことに俺には婚約者もいない。何も問題ないじゃないか」
「むしろ問題しかありませんが?」
イリスの失礼にもなりそうな態度を王子様が気にする様子はない。
ただの見映えの良いだけの王子様ではないらしい。
イリスは王子様に好かれたい訳ではないので失礼なのを分かっていて取り繕わない態度を取ることにした。
「今は王家と教会は微妙なバランスを保っているんだ。教会と揉めたくないんだが」
「だから『忠誠』を誓いますので、私を王子様の臣下としてお城に置いてくれたらいいんじゃないですか」
王城の中のことまで教会は確認しないはずだ。イリスがお城のどこかで働いて王子様に忠誠を誓っているふりをすることが一番問題ない解決策ではないか。
とイリスは言ってみたのだが、王子様が納得した様子はない。
「無理だな。俺としてもここまで人に興味を持つのは初めてなんだ。話してみたら面白いし、手放す意味が分からない」
何を言ってるんだこの王子様は、とイリスは困惑した。
「そもそもなんで私を助けたりしたんですか?」
王子様とイリスは今日初めて会った。まさか一目惚れなんてことは有り得ないだろう。
「ちょっと好みかな、って思う娘が俺の事をじっと見てきたんだ。これはもう俺に惚れたな、って思うだろ」
確かにイリスは王子様のことを不躾なくらいじろじろ見た。
それが最後だと思っていたからだ。
まさか王子様がこんな勘違いをするだなんて思う訳がない。
「惚れた訳ではありません。こんな綺麗な男の人は初めて見たから最後に見納めておこうと思って見ていただけです」
「助けたのは体が勝手に動いてしまったんだ。もうこうなったら責任取って結婚しよう。上から睨み付ける姿もなかなか良かった。君は人の上に立つのが向いているのかもしれない。飛び込む姿も勇ましく、見惚れた。そんな君に対する興味が薄れる気がしない」
何言ってるんだこの王子様は、とイリスが言い返そうとする前に王子様がとんでもないことを言ってきた。
「イリス、儀式を成功させた聖女として花嫁になるのと、とりあえず臣下として王宮に行き、俺との愛情を育てていくのとどちらが良い?」
「は!?聖女??絶対そんなの嫌です!もちろん臣下で!」
聖女などと話が大袈裟になりそうだったのでイリスは咄嗟に答えた。
死ぬかもしれないと思っていた時は聖女とか大袈裟に評価しろ、とは思ったが、もちろん冗談である。
直ぐに王城に向かうことになった。
初めて来る王都にイリスは興奮した。
静かな修道院で4年も過ごしていたので賑やかな王都に興味が湧く。
混乱していたイリスが一緒にハイリも王城に向かっているという違和感に気付いたのは既に王城に入ってからだった。
「イリスは王子様のこと嫌いなの?」
ハイリの純粋な問にイリスは戸惑う。
「嫌いとかそういう問題じゃないでしょ?身分の違いとか色々と問題があるじゃない」
そもそもイリスは結婚したくなくて修道院に入ったので問題外の話である。
「身分ならイリスは聖女様と言われてもいいようなことをしたのだから何とかなるんでしょ?」
「本当に止めて。聖女とか絶対嫌だから」
そもそもイリスのようながさつな人間が聖女になれる訳がない。
イリスはただ馬鹿みたいな儀式の犠牲者だっただけなのだから。
「でもね、私はイリスが王子様と結婚してくれたら嬉しいわ。だって」
ハイリはその先を言わなかった。
というより言えなかったのだ。
馬車はとっくに王城の入り口の前に着いていて、大袈裟な程出迎えの人々が待っていた。
何事!?
とイリスが驚いて馬車から降りれずにいると、ハイリが開いた馬車から飛び降りて一番真ん中で待つ人の所まで走って行った。
ハイリにも馬車から飛び降りるようなやんちゃなところがあったらしい、とイリスはどうでも良いことを思った。
「お父様!」
ハイリは一番偉いだろう人に抱き付いた。
「ハイリーシア!遅くなってすまない。やっとお前と暮らすことが出来る」
何やら感動の再会が目の前で繰り広げられ、外にいる人々は涙ぐんでいる。
「ハイリーシアは俺の異母妹だ」
王子様の説明をイリスは聞きたくなどなかった。
余計な情報を頭に入れたくなかったので逃げようとしたら捕らえられた。
何故か今は王子様の膝の上だ。
「すみません、殿下は今までご令嬢と親しくしたことがなかったので距離感が分からないみたいです。誰にも興味を持つことのなかった殿下のこんな姿を見れるなんて、私も驚いています」
側近がニコニコしながら何か言っている。
謝るよりも王子様をどうにかして欲しい。
既に暴れまわったイリスは抵抗すればするほど王子様が喜ぶのを見て、抵抗するのをやめた。
抵抗するのが好きなら従順になってさっさと諦めて貰おうという作戦だ。
今のところ問題はイリスの忍耐力だ。
4年の修道院での修行の成果を発揮する時が来た。
ハイリは王様の側室の子供だった。
ハイリの母親は国王の側室を狙う者に不貞の無実の罪をきせられて王城を追い出され、修道院で隠れてハイリを生んだ。
残念ながら母親は罪が晴れる前に死んでしまい、ハイリはそのまま修道院で育てられた。
王様はハイリの事を知っていて何度か会いに行ったこともあるらしいけれど、王子様がハイリの事を知ったのは最近だという。
「ハイリーシアの母親は俺の母上の侍女だったんだ。父上は母上がハイリーシアの事を知ったら怒ると思って隠していたみたいだが、母上は父上にはとっくに愛想を尽かしているからな、嫉妬とかもなかった。ハイリーシアの存在を知った母上が側室もどきだった首謀者をさっさと追い出してだらだら続いていた問題を解決させた。母上はお気に入りだった侍女の娘のハイリーシアに会えるのを楽しみにしていたから、俺が修道院に行ったのはハイリーシアを迎えに行く為だったんだ」
ええ、王様だけでなく、王妃様にも何故か感謝されましたからね。
危うく王様に本当に聖女にされかけて大変だった。
娘のハイリーシアを守ってくれたお礼だとか言われたけれど、イリスがハイリと会ったのはたったの4年前からだ。
聖女にしたがる王様を抑えてくれたのは王子様である。
だから今は大人しくしているのだ。逆らって聖女にされかけるのは絶対に避けたい。
さっきは暴れまわった事など忘れたようにイリスは心の中で言い訳をした。
4年間修道院にいたので人肌がこんなにも落ち着くなんて忘れていた。
王子様の膝の上で大人しくしているのはきっと人肌が恋しかったのだろう。
イリスはいきなり修道院から王城に来て戸惑っているだろうハイリの側でしばらく働いて欲しいと言われた。
王子様の側でなくて安心したものの。
「修道院で暮らしていたハイリーシアの為に付いてきてくれた心優しきイリスと恋に落ちて徐々に愛情を育てていくという筋書きだ。残念ながら聖女の役を与えて教会に力を与えたくないからな」
あんまり嬉しくない説明は無視だ。
「イリス、君には本当に感謝している。もし、儀式の役目がハイリーシアだったなら、父上が怒って教会との大きな対立になっていたかもしれない」
イリスは変な汗をかくのを感じた。
意外な所で大問題が起きかけていたらしい。
「それ、知りたくありませんでした!」
イリスの悲鳴に近い言葉に王子様が笑いながら返した。
「君はもう戻れないところまで来てしまってるんだから諦めた方がいい。君はけっこう頭が回る。それを俺の側で発揮するだけだろう?」
「もちろん、臣下としてですよね!?」
イリスの言葉に王子様は笑い声で返した。
この国に今は王子様は1人しかいないという事をイリスはさっき知った。
つまり、この王子様は次期国王なのだ。
「茨の道じゃないですか」
イリスの呟きに王子様は面白そうに口角を上げた。
「地獄に行く予定だったんだ。茨の道くらいかわいいものだろう」
茨の道がかわいいとはこの王子様もよく言ったものだ。
この変な王子様とのやり取りも嫌というわけでもないから困る。
イリスは王子様が自分の口に菓子を入れようとしているのを無意識に口を開けて食べた。
さっきから菓子は気になっていたけれども、どのタイミングで食べればいいのかが分からなかったのだ。
口に入れる時に指が唇に触れてしまったが、手から食べさせる方が悪いのだろうと気にしなかった。
菓子はとても美味しかった。
まさか甘いだけでない甘味が存在するとは、と静かに感動に打ち震えるイリスを、王子様が頬を染めながら見ている事など気付くことなく、次々に差し出される菓子も王子様の手から食べた。
ここに居れば美味しいものは食べられるらしい、とイリスが食欲に屈しようとしていると、王子様のイリスの腹に回っている腕に力が入ったのに気付いた。
この力強い腕にイリスは助けられたのだ。
あの時、この腕を頼もしく思ったことを思い出したイリスは胸に何かが灯るのを感じた。
命を助けられた恩を、イリスは返したいと思っている。
結婚したくないからと修道院に入るような単純な判断をするような娘だったけれど、助けられた恩を感じ、この王子様の為に何かしてあげたいという気持ちはある。
だから王子様と結婚することは有り得ない。
茨の道がかわいいものだと言われても、恩人を棘だらけの道に行かせることはどうも望めない。
「………食べたい」
王子様がとても小さい声で呟いた。
イリスは自分だけが菓子を食べさせてもらっていたので王子様も菓子を食べたいのだと思って王子様の口に菓子を持っていった。
よく考えたら王子様が自分で食べたらいいだけだったのだが、イリスの頭は修道院で動かないように鍛えられていたので王子様が何を食べたいと思ったか気付かなかったのだ。
イリスが王子様の口に菓子を持っていけば、赤面する王子様を見る事が出来た。
イリスは飽いていた。
修道院の4年が飽いていたのだ、と思ったが、たぶんそれよりも前からずっと飽いていた。
儀式の時は、修道院で眠ったように生きるのも死ぬのも変わりがないだろうと思っていた。
けれど、ここにきて今までにない刺激はとても魅力的だった。
この王子様をもっと赤面させてみたい。
修道院で眠っていたイリスの積極性が訴えてくる。
イリスは心の中でこの国に側室制度があるのを密かに確認した。
イリスはまだ気付いていなかった。もう逃げられないということに。
『王子』として生きることで『眠ったように生きていた』本来の王子様を目覚めさせてしまったのはイリスだ。
崖の上から睨み付けるイリスを見た時、王子様は自分の中の己が目覚めるのを感じた。
死を前にして睨み付けるその姿に見惚れた。
この娘を見過ごせない。
イリスが飛び込むと同時に王子様は湖に飛び込んでいた。
眠っていたのはお互い様。
より困難な道を選んでしまうのは己を理解せず己を飽きさせてしまった自分から自分への報復だろう。
気を付けた方がいい。自分を飽きさせてしまうと、自分からの大きな報復があるかもしれないのだから。




