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女は自分の腕が目に入ったのだろう、自分の腕をまじまじ見た。土埃で大層汚れているのが信じられない様子で、体、足と見分して。すると、突然立ち上がった。
「ぉい……どうした、」
声を掛けたが、女ははだしで屋敷を出て行ってしまった。
慌てて追いかけると、女は庭に生えている猫じゃらしを二本むしった。あの大きな猫をじゃらすというのだろうか。何をするのだろうかと見守っていると、それを両手に一本ずつ軽く握って庭を徘徊し始めた。
女はあてもなく歩いて、ついに裏山へ入っていってしまった。はだしで山に入ると危ないぞと忠告したって聞きやしない。
屋敷の裏山一帯は俺の敷地だが、放っておくわけにもいかないので付いて行くと。女は巨石の近くで足を止めた。手に持っている猫じゃらしと巨石、そして自分の位置を慎重に確かめている。
その時俺は見たんだ、女が左右に持っている猫じゃらしの穂先が、女が微妙に位置を変えるたび、ふるふると動くのを。自分で揺らしているのではないかとはじめは思った。だがそれは誤りだったと確信したのは、一寸先のことだった。
女は位置を決めたようで、巨石と向かい合わせになって立った。そして、猫じゃらしの穂先で巨石をちょんと突いた。俺が女の目を突いたよりも優しく突いていた。間違いない。
なのに。
次の瞬間、体を突き飛ばすような衝撃とすさまじい地鳴が襲った。鳥は一斉に飛び立ち、静かな山は騒然とした。鳥は危険を避けるために飛び立ったが、俺はといえば放心して、巨石の中心部が気持ちいいくらいにすっ飛んで山肌へめり込むまでの一部始終を息をするのも忘れて眺めていただけだ。
あの衝撃と轟音の中、女は平然と巨石の前に立っていた。辺りが静かになるとくりぬかれた部分へ躊躇いもなく入っていって、岩肌を調べている。
しゃがんで何か調べていた女は、すっくと立ち上がって。こちらに振り返るとにこっと笑った。
笑顔に誘われ、けれど恐る恐る空洞へ入る。足元はえぐれていて、大きなくぼみになっていた。女はくぼみの真ん中あたりで俺を待っているようだったから、そこへ行ってみると、女の足元には三寸ほどの水柱があがって、もこもこと揺れていた。
「水が湧いたのか」
女に聞くと、女はしゃがんで水に触れ、それから俺を見上げた。
「水を触れっていうのか?」
水はどう触っても水だろう、と思いつつ。しゃがんで触れてみると、その水は熱かった。
「あつっ、湯だ……湯が湧いてる、」
なんだか夢でも見ているみたいだった。
猫じゃらし二本で温泉を掘り当てただなんて、この目で見たのに信じがたかった。
巨石の入り口に腰を掛け、背中で湯の遊ぶ音を聞きながら思う。
女は自分が汚れている事に気がついて、清めるために湯を掘り当てたと考えて間違い無さそうだ。
「天女様……なのか? 綺麗好きみたいだしなぁ。でもまてよ、天女様は術を使うのか……?」
木々の間から青空を見上げたら、トンビが風雅に飛んでいた。
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女は眠るときも離れたがらなかった。
年頃の女と一緒に寝るなんてあってはならない。夫婦でもなければ慕っているわけでもないのに夜を共にするなど、天と地がひっくり返ったって道理が通らない。と、俺は信じていた。
温泉を堪能したその日の夜、隣の部屋に布団を用意して、お休みと言って襖を閉めた。と同時にふすまが開いて、女は驚く俺を素通りして部屋へ入ってくると、俺の布団へ潜り込んでしまった。
布団の中で亀のように丸まって、すぽんと出てきた顔はムスッとしていた。そのむくれ面、機嫌を悪くしている女には悪いが、童女のようで愛らしかった。
このとき、俺は胸中の糸の緩みに気がついた。年頃の女と一緒に寝るなんて、と思っていただずなのに。先程までの考えが、今は酷くいやらしく思えた。
「わかったよ、一緒に寝るとしよう」
微笑みかければ、女はにこっと笑った。
同じ布団に入れば、女の肌がことのほか柔いことを知る。さっきまでの俺なら着物が触れ合っただけで情動を煽られたかも知れない。そわそわして眠れなかったかも知れない。しかし今は全くそんな事は考えも及ばないほど心穏やかで、子供の頃から一緒に寝ているような、馴染みのよさに目を閉じた。
夜中、女のうめき声で目が覚めた。
何事かと思って起き上がると、ふじが女の胸の上で眠っていて、肝が冷えた。
「ふじ、そこは駄目だ」
おろそうとして手を伸ばすと。ふじはササッと下りて、今度は女の隣で丸くなった。