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『天女は悲しみに暮れ 涙になって消えた』
子供の頃、さちにせがまれて何度も読んだ御伽草子をそっと閉じた。先程まで足元で懐いていた大きな猫――ふじ――は、いつの間にか大きな体を足の甲に乗せて眠っていた。
気にいった挿絵のところばかり「読んで」と繰り返しせがんださちはもう、十五になった。
『弥吉、私を守ってね。天女はか弱いから、涙になって消えちゃわないように』
妹分のさちが自身を天女になぞらえていた幼きあの頃、そんな事を話していたような。
「天女なんて居るわけがない」
―この世のどこにも無い意匠の着物、美しい黒髪、柔らかい体の線……そう、所詮天女なんて御伽草子の産物でしかない
もう一度草子を開き、挿絵を眺める。
おぼろげな記憶を辿りながらさちの真剣な表情につい、反論めいたその時。屋敷に何かぶつかる大きな音がして身をすくめた。普段は動きの遅いふじも飛び起きて一目散に何処かへ走り去った。
近頃、大筒なる砲のためし撃ちを見学したが、それと同じような音だ。まさか敵襲か、と思ったその時。天井を突き破って何かが落ちてきた。
「うわっ」
頭を抱えて身を縮める。書物が一斉に落ちてきて体を叩きつけた。この衝撃では書庫が壊滅したかもしれない。
静かになってから、本に埋もれていた俺は顔をあげた。書庫は酷い有様だった。棚はすべて倒れ、ここにあったすべてが散乱して何がなんだかもうわからない。と、その時。瓦礫と書物の下から人の手足が出ているのを見つけた。それは動かなかった。やけに静かな状況が怖くなり、まとまらない思考で天井に開いた穴を見上げれば青空に白い雲が浮かんでいた。木片がぱらぱら落ちてくる。嗚呼、これは現実らしい。では先程見た手足も現実なのだろうか。現実でなければいいが。
見間違いであれと願いながら。おそるおそる視線を床に戻せば、瓦礫の下にはまだ、何者かがいて、そして動かなかった。
死んでいるかもしれない、そう思って瓦礫を掻き分けると顔が出てきた。埃まみれでぬばたまの黒髪を乱し目を閉じている。長いまつげ、額や顎は優しい輪郭だ。
「女か、」
妙に心臓が縮んで、せっつかれるようにさらに瓦礫をどかした。
すると上半身が現れて、胸のふくらみが上下に動いていた。
「生きてる……」
すぐさま木片の中から抱き上げて全身に付いた土埃と木片を払ってやる。
しかしこの女、着ているものがこの辺の者とは違った。というより、見たことがない。
襟が立って、丸くて光沢のある小さな飾りが胸元から腹にかけて縦に並び、足にはどう見ても窮屈な藍色の袴のようなものを履いている。
もう一度天井に開いた穴を見上げる。
青い空、白い雲のほかに何も無い。
では、この女は一体何処から来たのか。
何も無い空から落ちてきた?
そう考えるよりほかに無さそうだ。
その時、俺は握り締めたままの御伽草子の存在に気づく。
珍妙な衣装をまとって空からやってきた女……
挿絵の天女と女を交互に見て俺は確信した、目の前の女は天女だと。
信じざるを得ない証拠を前に、手足は小刻みに震え、耳の奥がざんざん鳴ってうるさかった。