鬼と薬草
その身の丈、おそらくドライオの二倍近く。
巨大な体躯の鬼が、木の幹からそのまま削り出したかのようなこれも巨大な棍棒を振り上げた。
とっさにドライオが飛びのく。棍棒がドライオのつい今までいた場所に叩きつけられ、地面が抉れて土が舞い上がった。
鬼が、さらに棍棒を振り上げる。もう一撃。
辺り一面に轟く、衝撃音。
だがその見た目からは想像もつかないほどの敏捷さで、ドライオは鬼の一撃をかわしていた。
「あぶねえ」
棍棒が巻き上げた土を口から吐き出して、ドライオは戦斧を構えた。
旅の戦士ドライオは、逗留したとある村の宿で小さな客の訪問を受けた。
「お母さんの病気を治すための薬草が欲しいの」
ドライオの凶悪な人相に、その幼い少女は声を震わせながら、それでも気丈に銅貨の入った袋を差し出した。
「薬草か」
ドライオはその袋を受け取って重さを確かめる。
「こりゃあ、お嬢ちゃんが自分で貯めたのか」
「トルーおじさんのお手伝いをして貯めたの」
「そうか」
ドライオは頷いて、少女の頭を撫でた。その岩のような手で撫でるたび、少女の肩がびくり、びくりと震えた。
「お嬢ちゃんが欲しいのは、この銅貨じゃ買えねえような貴重な薬草なのか」
「うん」
少女は頷く。
「山の奥にしか生えてないの」
「山奥か」
ドライオは鼻を鳴らす。
「村には誰か、採ってきてくれるような親切な人はいねえのか」
しかし少女は首を振る。
「村の人は誰も採りに行けないの」
「どうして」
「だって」
少女の答えに、ドライオは眉を上げた。
「その薬草、鬼の肩にしか生えていないの」
少女からその薬草の特徴を散々聞いておいて、結局ドライオは、鬼退治するのにこれっぽっちの銅貨じゃ無理だ、割に合わなすぎる、と銅貨の袋を少女に突き返した。
肩を落とした少女がしょんぼりと帰っていくのを見届けてから、ドライオは宿を出た。
この村、近くの山に鬼が出るらしいじゃねえか。噂になったら商人も寄り付かなくなるぜ。
今のうちに俺が退治してやる。悪いことは言わねえ、こういうのは鬼が山から下りて来てからじゃ遅いんだぜ。
村長にそう穏やかに持ち掛けて報酬の算段を付けたドライオは、翌朝元気に宿を出た。
その日は山の中腹で一泊し、翌朝日が昇る前から再び山を登り始める。
やがて、ドライオの鋭敏な目と鼻が、そこかしこに鬼の痕跡を捉え始めた。
こりゃ、本物の鬼だな。
ドライオは気を引き締める。
群れを作って村や隊商を襲う汚い小鬼たちとは違う。
相手は、人間をはるかに凌駕する膂力を持つ、正真正銘の鬼だ。
その日の昼前には、ドライオは自分が鬼の縄張りに入り込んだことをはっきりと知った。
食い散らかした獣の骨が、辺りに無造作に転がっていた。
獣よりもさらに強い、野性の匂いが漂っていた。
遭遇は突然だった。
茂みが不意に、ばきばき、と砕けるような音を立てたかと思うと、巨大な影が立ち上がった。
その大きさに、さすがのドライオも息を呑む。
ドライオの二倍はあろうかという巨躯。
鬼は、茂みの中に埋もれるようにして寝ていたのだ。
その手に握られた丸太のような棍棒を見て、ドライオはこれから始まる戦いの苦しさを予感した。
鬼の知能がどの程度あるのか、それはドライオにも分からない。
だが、鬼には交渉の余地は微塵もなかった。
身体を起こした鬼は、いきなりドライオ目がけて棍棒を叩きつけてきた。
威力も、速度も、人間の出せる限界を超えていた。
とっさにかわしたドライオは、続けて襲ってきた第二撃も何とかかわすと、戦斧を構えて鬼を睨む。
「話が早えじゃねえか」
ドライオは身を低くした。
「嫌いじゃねえな、そういうのは」
鬼がドライオをぎろりと見据える。
その左肩に、確かに苔のようなものがへばりついていた。
お嬢ちゃんの言ったとおりだな。
ドライオがそう思った時だった。
鬼が大きな叫び声をあげて棍棒を振り下ろした。
ドライオはそれを紙一重でかわす。そのまま地面にめり込んだ棍棒に足を掛けると、思い切り鬼目がけて跳躍した。
小さな人間が自分の身長と同じ高さまで跳ね上がってくるのを、生まれて初めて目にしたのだろう。鬼の顔が驚愕で歪んだ。
力も速度もお前が上だが。
ドライオの思い切り振りかぶった戦斧が、太陽の光を受けてきらめいた。
戦いの経験は俺の方が上だな。
すさまじい生命力を見せた鬼がようやく地面に横たわって動きを止めると、ドライオは自分の血を拭って歩み寄った。
額や胸から流れているのが血なのか汗なのか、もはや自分でも区別がつかなかった。だがいずれにせよ、拭うたび赤く染まるのだから血はどこかから流れているのだろう。
余計な気を遣わなけりゃ、もう少し楽に勝てたかもしれねえが。
ドライオは鬼の死骸を見下ろした。
斧の斬撃をいくつも受けた傷だらけの鬼の身体の中で、一筋の傷もない場所が一か所だけあった。
やれやれ。こっち側を下にして倒れなくてよかったぜ。
ドライオは懐から布の袋を取り出すと、まるで精巧なガラス細工にでも触れるかのように、そっと鬼の左肩の苔に手を伸ばした。