懐かしい匂い 【月夜譚No.57】
この店にはもうコーヒーの香りが染みついている。閉店して何年も経つのに、戸を開くとあの時と何も変わっていないかのように同じ鈴の音を響かせて、芳しい香りが鼻腔に入り込む。
カウンターの丸椅子の座面に薄く積もった埃を手で払い、彼女はそこに腰かけた。かつては客で賑わっていた店内は静けさに沈んで、過去に取り残されたような感覚に陥る。
彼女が幼い頃は、よくテーブル席に画用紙を広げて絵を描いていた。祖父はそれに怒るでもなく、微笑ましくカウンターの内側から見守ってくれていた。馴染みの客達も代わるがわるに絵を褒めてくれた。今思えば、たった二つしかないテーブル席の一つを占領して、申し訳ない。
ぼんやりとそんなことを考えながら、カウンターの方に手を伸ばし空気を掴んで我に返る。そこにはいつも、彼女の好きなホットココアのカップが置かれていた。思わず苦笑を漏らして、天井を仰ぐ。
祖父もあの頃のことを思い出しているだろうか。雲の上で、楽しそうに。